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「研究になる/ならない」ってどういうこと?

「研究」の感覚の話、続き。 ※前回↓


教職大学院で研究者教員がよく使う表現として、「研究になる/ならない」というのがある。

「これは研究にならないね」
「こうすれば研究になるんじゃない」

みたいな使い方。

おそらく、「研究になる/ならない」がどういうことなのかわかることが、教職大学院で実践研究に取り組もうとする院生にとって、一つの関門になるのだと思う。

例えば、ある現職院生が、研究テーマとして、

小学校国語科で、演劇的手法を使って、文学的文章において想像する力の育成に取り組みたい。

と述べたとする。
これは、このままでは研究にならない。

前回述べたとおり、これは、実践上の願いと研究上の問題設定が渾然一体になってしまっているパターンだ。それを通して、これまでのどんな通念に「挑む」ことを志しているのかが分からない。

ではここからどのように発展させていけるのか。大学教員(私)からの

どういうことか、もうちょっと詳しく聞かせてもらえますか。

に対して、

演劇的手法に関心をもったきっかけは、劇団の方に授業に来てもらったことなんです。そのとき、すごいなあと思って。その後、自分のクラスでも、学年でも、学校全体でも、演劇人を招く取り組みを続けてきました。けれども、演劇人に来てもらわないとできないのか?とも思って。担任が一人でできるやり方を考えたいと思いました。

と返ってきたとしよう。
けれども、これでもまだ研究にはならない。教師(担任)が一人で行ってきた演劇的手法の実践事例はいくらでもあるからだ。

そこで尋ねる。

今までも教師が一人でやったものはあるけれど、それと何が違うのですか。

それに対して、

今までだと、それこそ鳥山敏子さんとか、一部の限られた人じゃないとできない、という印象があって。もっと広く、簡単にできないかと考えました。

と返ってくる。

が、これでも弱い。渡部淳&獲得型教育研究会の「ドラマ技法」をはじめとして、普及の試みもまた一定数存在するからだ。

けれども、ここまでのところで、すでに、研究として発展させるタネになるようなものは、いろいろ出ている。

例えば、私が

演劇人を招いて行うものは、何が、教師によるものと違うんでしょうか。そこでエッセンスになっているものは何ですか。

と尋ねると、

招いて行った取り組み、すべてビデオに撮ってあるんです。けれども、見返してなくて…。それを見てみたら何かわかるかもしれません。

と返ってきた。
これは面白い。
単発ではなくある程度まとまった形で記録が残っているのは貴重だ。

しかも、それをこの現職院生は、当事者、取り組みの渦中にいる一員としてそれを見ている。当時の資料や自身のメモ書きも(多分)ある。
今まで劇団側が実践の記録を残したり、外部から入る研究者が記述したりするものはあっただろう。けれども、劇団に来てもらう側の教師が、劇団が実施する活動のどこに「プロならではの部分」を感じるかというのは興味深い。それを自身で分析して、それをもとに教師ができることを(自らの実践を通して)模索していくというのは、十分、研究になる。私のような立場の人間ではできない研究だ。

あるいは、別方向の発展もありうる。

この現職院生は、「演劇人を招いて行うもの」と「担任が一人で行うもの」を対比させていた。
けれども、この二項対立にする必要はない。教師が協働して、つまりTT(ティーム・ティーチング)で行うものもあってよいはずだ。

この場合、「担任が一人で」の場合ほどの手軽さはなくなる。しかし、基本的に、演劇的手法を用いた活動は、複数名いると、だいぶやりやすくなる。やってみせる場面など特に。やりとりの実際の様子を見せられるからだ。劇団を招いて行う場合のすごさも、もしかしたら、一部には、このように複数名いることによって可能になっているのかもしれない(劇団を呼ぶときには、たいてい複数名来る)。

となると、演劇人らの取り組みに学びながら、教師らがTTで行う演劇的手法のあり方を模索する、というのもありではないか。

これもまた、きっと研究になる。教師が複数名入って行うところに注目した論考は、(多分)まだない。

と、こんなふうに、「研究になる」ものへと発展させていくことができる。

このためには、その分野や研究方法に対する、ある程度の素養が必要だ。

「演劇人を招いて行うもの」と「担任が一人で行うもの」の二項対立で考える必要ないんじゃない?と思える背景には、これまでの実践研究や実践報告では、演劇人ー教師の対比は意識されていても、一人ー複数の対比は意識されてこなかったということを知っている、ということがある。

あるいは、当事者(担任)の目から見た演劇人の活動を自ら分析するのは面白い、と思える背景には、分析者を透明無色の存在にするのではなく、当事者だからこそのものを反映させることも可能だし、そこに意味があるということを理解している、というのがある(楠見本でいう「ポストモダニズムの質的研究」であり、あるいは、「セルフスタディ」もその流れ)。こうした理解がなければ、担任目線で演劇人らの活動を分析することの意義を見落とし、客観性を装う、中途半端な「研究」になってしまうかもしれない。

このように、基礎的な知識は必要だ。けれども、おそらくそれ以上に大事なのは、研究というものに対する捉え方の更新なのだろう。

実践上の「〜したい」という願いがそのまま研究における問題設定になるわけではないということ。
これまで行われてきたもの、一般的に想定されてきたものに対する、「本当にそうかな?」「別の可能性もあるんじゃないの?」というのが、研究を研究として成り立たせるということ。
そのためには、大きな話(行政や学者の文章に出てくるビッグワード)に飛びつくのではなく、むしろ、実践で起きることを細かく見て、そこで生じる小さな引っかかり(「もやもや」)を大事にすればよいこと。
その引っかかりをもとに、これまでの研究や実践の文脈と照らし合わせて、「ここ!」という切り口をピンポイントで見つけていくのが「焦点化」であり、それが「問いの設定」につながること。

研究に対するこうした捉え方を少しずつ身につけていくことで、「研究になる/ならない」の感覚も理解できるようになっていくのだろう。

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