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ひきこもりおじいさん#42 ひとつの側面

隆史はビニールシートに体育座りをしながら、束の間、夜空を見上げて若き日のおじいさんが暮らしたであろう西雲閣を思い浮かべ、その日々を想像した。しかし、より鮮明に現れてくるのは自分の網膜の裏に焼き付いているスキンヘッドの男の姿であり、炎天下に必死に走る荒い息遣いとその残像であり、初めて美幸の浴衣姿を見たときの衝撃だった。上品な薄い香水の匂いに惹かれて目の前の美幸を盗み見ると、由美子と楽しそうにお喋りしている彼女の束ねてある後ろ髪の下から覗くうなじが妙に艶かしく見えて、つい淫らな美幸の姿を想像してしまう自分を恥ながらも密かに興奮していた。
「それにしても松田さんが来られないのは残念ね」
由美子が美幸に言った。
「すみません。なんでも急に思い出した用事があるそうです。私も小岩駅で隆史くんに会って、そこで初めて隆史くんから信ちゃんの事を聞いたので・・・ほんとに、一度思い付いたら、周りの事なんてお構い無しなので、あの人は・・・」
美幸が思わず溜息をついた。
「ちょっと、なんで杉本さんが謝るのよ!そんな事気にしないで、急に誘ったのは私なんだから。きっと松田さんも外せない用事でも出来たのよ。とにかくせっかくの花火大会なんだから、楽しみましょうよ」
「はい。ありがとうございます」
「隆ちゃん!あんたも何、さっきから黙ってるのよ。もっと話しなさいよ!」
急に振り向いて由美子が隆史に話しかけた。
「う、うん。分かってるよ」
「そうよ隆史くん、どうしたの?さっきから黙ったままで」
すかさず美幸が振り向いて由美子の後に続く。
「いや、あの、杉本さんその浴衣、凄く似合ってま・・・」
その瞬間、隆史の言葉が言い終わらないうちに、大会スタートのアナウンスと共に爆音で壮大な音楽が流れ、何万人という観衆の歓声と拍手が地鳴りのように響き渡り、同時に眩い光彩を放つ花火が息つく暇もなく打ち上がり始めたのだった。皆の視線は一斉に花火に集中する。隆史はきっとこれも自分の人生のひとつの側面に過ぎないと考えようとした。

#小説 #おじいさん #河川敷 #花火大会 #残像 #香水 #光彩

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