見出し画像

フェミ議連にとって無視が効果的な手段となるその理由と対策

・はじめに

これは哲学的な話になる。といっても難しい内容ではない。
フェミ議連がなぜまともに答えないのか。なぜ疑問を加害行為と当てはめるのか。
それらの発想の思想的背景を軽く歴史を辿りつつ解説するものである。

前回の続きにあたり、読んでいない方は是非そちらを読んでいただきたい。特に元来のフェミニズムが成立する経緯の部分を頭に入れていただければ幸いである。なるべく短くするため、大まかな歴史の流れを省いておくためだ。読んであるとよりわかりやすく発見も多いはずである。
 フェミニズム(人権運動)は哲学や認識論が非常に深く関連する話である。それが全くといって知られていないのは大きな問題だと言わざるを得ない。
女性であれ誰であれ、誰しも正確な認識を磨き人間性を高める理性と意志を持つという事実を前提として人権の理念は唱えられてきたからである。よって、その正確な背景が知られていない現状とは、私達にとっての大きな不幸である。

名前に対する先入観、根本が確認されないままの思想、そして深められる対立の構図。
これらは不幸への道と言わざるを得ない。「フェミニズムだから "女性の権利" だ」という短絡あるいは「検証の必要すらない真実がある」という思い込みは、性別などに左右されない人権の平等性や他者の理性的な分析を否定し、結局それは自身の理性の働きや平等性の尊重の態度をそぎ取っていくからである。
その果ては殺し合いへと到るのが歴史の常なのだが、前段が長くなってしまった。以降、なるべく簡潔に解説していきたい。

前回の記事
https://note.com/takahashishogo/n/n30f68ab5185a


元来のフェミニズムの背景となる哲学


それは経験論(帰納法)と懐疑論である。
大事なのはこれを背景とするのが人権運動(参政権運動)から始まる大元のフェミニズムという事なのだが、昨今よく目にする性別を大前提とした思想や自称を伴う「フェミニズム」は中身が全くの別ものである。
この違いが起きた理由は哲学の違いといえる。

 哲学というと多くの方々は難しいものと思うかもしれない。だが実際の所は極めてシンプルである。なぜなら古い時代、まだ宇宙に誰も行っていないような頃に、星とは何か、世界とは、地球とはという追求が行われたが、それを考える自分の意識や分析の正確さとは何かを突き詰める過程が哲学だからである。疑問の整理方法と言ってもいいかもしれない。

 その効果を大いに表す事としては哲学が大いに発達した古代ギリシャでは天文学や数学も同じように大きく発達した点が挙げられる。
その理由としては、当時の哲学者は世界や自分の意識についてもあれやこれやと考えるのだが、行き着く一つの壁としては分析する心の働き(理性)も主観的であるから本当に正しいのかわからないという点であった。
そのハードルを乗り越えるために突き詰められたのが、真実を説明するための証明論理(言葉の正確さ)である。
 これが数学的な正確さの追求を自由に行う背景となり、またその記述の正確さなどの後押しともなる。哲学の深まりと並行するように発達したものであった。

鍵となる証明(考え方)は2つである。シンプルに考えていただきたい。
帰納法と演繹法だ。←難しく見えるが簡単である。


帰納法 事実を積み重ねる確かめ方

例えば古い時代の、まだりんごの研究が進んでない頃のりんごの研究者がいたとしよう。辞書も農協もあるわけではなく、自力でりんごの特徴を調べねばならない。
 そこで世界中を旅してりんごを集めそして共通点を調べた。
丸く、甘く、酸っぱく、実がなる季節や温度があり、地域ごとに特徴があり……
こうしてどうやらりんごにはまず「丸みがある」という共通した性質があるのだとわかった。

 これは想像だけでりんごの特徴を決めつけたわけではない。むしろ想像を徹底して取り除いて、「少なくともこの調べた範囲ではりんごの真実とはこれ」というのを確認した過程であるのがわかるだろう。
 調べた過程の正確な記録もあれば、他の人にもこの見つかった真実といえるものを伝えることができる。これは現代でも科学の分野で行われる基本的な事実の確かめ方である。

 人間は言葉や考え方もこの検証のように経験を重ねてようやくその一歩目を踏み出すことができる。なのでこうした考えは経験論とも呼ばれる。


演繹法 より正確な推測の導き方

同じく古い時代に、今度は地球の大きさや山を転がる石がどこへ行くのかを正確に計算する方法を考えていた研究者がいたとしよう。辞書も科学館もあるわけではなく、自力で計算する方法を調べねばならない。
 そこですでに確かめられたものの組み合わせから共通した計算方法(いわゆる法則)を探せないかと考えた。
丸みがあるものは転がる、りんごは「丸みがある」つまり「りんごは転がる」のではないか……
こうして確かめられた性質を他のものに当てはめて推測を広げていく方法がわかった。

 これは実際に経験していない事への推測を導き出したという部分に注目してもらいたい。世界中のりんごを転がして確かめたわけではないのだ。
ここからりんごのみならず、大きな石を転がす方法や車輪の発明や地球が回っているのではという推測に、この研究者は行き着くかもしれないという事である。

 これはいわゆる数学的な発想の仕方とと言える。X=2だとすれば、X+2の答えは4と答えを出せるようになる。
この「りんごは丸い、丸いものは転がる、りんごは転がる」と三段階で導き出す方法を三段論法という。


 この2つの確かめ方は多いに役立つ事がわかった。人間にとって無理ない自然な頭の使い方であったし、事実の確かめ方は誰にとっても役立つものであったからだ。
ただ、様々な哲学者がこうした方法に行き着くまでには数多くの言葉が生み出された。それを組み合わせることで人を騙し自分を偉いと思わせようとする人物が多々現れた。
 実のところ、その本人も騙すつもりはなく素晴らしい発見を自分は言っているのだと思い込んでいたのかもしれない。しかしこのような人は謙虚に事実を見極めようとする哲学者や多くの人々にとって非常に迷惑なものであった。
この帰納法や演繹法による導き方をはっきりと示すことなく、言葉の言い回し(論法)だけでどうにかごまかす事を詭弁といい、ごまかす人を詭弁家という。

 時代が進むにつれて数多くの発見や新しい専門用語が作り出される。その用語を詭弁家が使うようになれば、多くの人は「勉強した人が言ってるのなら……」と思いやすい。学問が進んだ時代であれば余計にそのような事が起きる。
そこで当時も今も通用する健康的な考え方が、「自分はその話について真実はこれと言えるくらい確かめたわけではないし、それについてはなんとも言えないな」というものである。これを懐疑論という。決めつけをしないという事だ。
この態度は馬鹿にされやすいのだが、逆に人それぞれの色々な考え方を否定せずありのままを見て分析を始める態度であったため、知る人ぞ知る大切な考え方であると当時から考えられていた。

 詭弁家との論争に夢中になっている哲学者もこの懐疑論者の前では「そ、そっか」となるのだが、フォロワーを集めて自分を信じさせ続けないと生きていけない詭弁家は、ここぞとばかりに人として健全なこの態度を持つ人を指して「こいつはなーんも知らない、馬鹿で調べる力もなく私が正しい事すら理解できない大馬鹿者だ」と大声で叫び、心酔しているフォロワーもそれを聞いて「あの人馬鹿だね」と噂を始めるのである。

 正確な証明を何一つとしてすることなく、そういうことができてしまうのである。

 とにもかくにも、こうした哲学について先入観なく触れられるような時代では、科学者や宗教の司祭の女性は存在するものであった。比較的男性が多くなるとはいえ、真摯な態度や技能やカリスマ性などが性別で左右されるものであるなどと、正確な検証の世界においては導き出されてはいなかったのだ。

人権運動とは別ものの「フェミニズム」の背景


フェミ議連はこの哲学的な正しさがあるのかといえば違うというのが結論である。Vtuberの件で行った行為は詭弁に基づくと言う他にない。

ではその思想的な背景は何に行き着くのか。それはフランス革命の頃に遡る。ある一つの思想が大きく広まるきっかけとなった。
(古代ギリシャの哲学から元来のフェミニズムまでの流れは前回の記事を参照)

フランス革命の頃、人々の中で人権思想と共にもうひとつ別の思想が広まった。
それは「人々が自由に資産を持つと結局は富の偏りが生じ階級社会が発生する。階級社会は打倒しなければならない」というものだ。
いわゆる共産主義とまとめられる考え方である。しかし、大事なのは名称ではなく、その哲学や論理の組み立て方のほうである。

・人権思想との決定的な違い
それは証明することなく人や社会はこうなると断定している部分にある。

個人が資産を持つと階級社会になるという部分は、一見して現代社会でも階級社会に似たような場面が見えた時に当たって見える時がある。
しかし、それは社会に現れる一面を取り上げて「当たっている」と意識が結びつけているに過ぎない。なぜなら当時の社会や資産や人間の捉え方は、あくまで当時のものだからである。
 今を生きる私達がその発想を受け入れるには、「社会はこうなる」という理論にある様々な単語に対し、現代の定義を当てはめるアップデートの作業をしなくてはならない。しかし人間は経験に基づき言葉を理解している。つまり、読むだけで自然と当てはまるように感じてしまうのだ。

「人間や社会は必ずこうなる」あるいは「こういうものである」という発想はいわゆる予言的なものであり、人権思想の分析や自由意志という根幹の部分には相容れない。
人間が左右できるのは今現在であり、「未来はこうなる」という前提を大事にしながら生きるのは分析する力を弱めてしまう。それ以上に恐ろしいのは他人をその思想の範疇で決めつけたり、思想に反する人を自分を抑圧する者という敵認定をしてしまうことにある。非常に気をつけなくてはならない。

・「フェミニズム」への接続

「必ず社会は支配と被支配の関係になる」「力ずくでも原因や構造は打倒しなければならない」
この発想は人権思想が哲学や科学研究が大きく発展した時代の、様々な言葉や発見を使って「科学的に正しい」といわれるようになった。
社会が段階的に"そのようになる"という発想を社会発展段階説と呼ぶのだが、この説を裏付けとして提唱されたのが唯物史観という理論である。
 この説は当時の流行りであった。星の運行や元素周期表などの科学における数学的な裏付けは非常に魅力的なもので、それを社会の動きを解説する際に発想を応用する動きが見られた。基本的には原始時代や石器時代など技術発展による社会の変化は段階のようにも見えるのだが、実際はきれいに切り替わるものではない。よって正確には歴史を分類する一つの手法というべきものである。

これを大前提に取り入れた学問が生まれた。それが社会学である。
現代において社会学は多くの大学にありポピュラーなものとなっている。そこで「フェミニズム」が積極的に扱われている事は、この記事の読者でご存知の方は多いことだろう。

社会学は創始者が悲惨なフランス革命を繰り返さないようにという願いを抱いており、様々な学問分野の発見を応用して悲惨な革命を繰り返さない社会理論を打ち出すためという方向性を、社会学発足の理論に反映させていた。

その理念はともかく、研究者は大いに唯物史観を参考にした。そして人権思想を指していたはずの「フェミニズム」という言葉も、唯物史観を応用した「人類の歴史は女性を男性が支配下において階級社会を形成してきた」という発想に付けて発表されるようになった。これがマルクス主義フェミニズムである。
 そしてアメリカの新聞社が由来と言われる「第二波フェミニズム」も取り入れられ、「第一波・第二波・第三波……」という歴史的な区分(アップデートの発想にもぴったり)として用い、「第一波」と区分された人権運動に関係する方々を「男並みの権利を求めたのだ」と解説し、今現在も極めて積極的に広められているのである。

果たしてこうした経緯を、社会学の特に「フェミニズム」の専門とする方々が説明しているのかは疑問である。

フェミニスト議員連盟の背景にある思想

社会学的な「フェミニズム理論」と一致する。

男性の存在(目線など)を前提とする女性を被害者と位置づける理論が基礎なのである。
よって、人権理念(社会活動に参加する権利、自由に表現する権利)やそれに基づく市民という概念が念頭から抜けている。性的と定める表現は、性的な目線を肯定するものとして男性の欲情や女性の被害を促進するという結論を当てはめていく。
そこに当事者である人間個人の感想や思いなど入る余地はない。

女性という理由で、女性らしさを見せたという理由で、社会の子供達を守る交通安全運動から排除された本人の気持ちなどは、男性が女性を抑圧する構造を打破するという発想の前では存在すらしないのである。

批判を無視をする理由

それは批判を取るに足らない存在、加害側と社会的に喧伝するのに極めて有効的な方法だからである。
正確な論理の証明もおそらくは困難と思われる。なのでそれをさらけ出すのを回避するという意味でも有効とは言えるのだが、重大なのは前者の対立軸と被害者であるアピールの部分にある。それはまとめの項目で解説する。

それすら自由

しかしあくまでもフェミニスト議員連盟の、市民の人権や一女性の尊厳を踏みにじるその発想自体を持つことは自由として認めなければいけない。
もしかすると諸哲学や最新の社会理論などでは説明も不可能な、超先進的な発想が元にあるのかもしれないのだ。

ただ、この基本的にはこの社会は人権を基礎とする社会である。
発想を持つ自由や社会活動を行う自由が認められている以上、他人である女性にもその自由を認めなければならない。言いたいことも言っていいのだが、議員とは市民に選ばれた公権力を扱う存在である
いかなる思想を持っていたとしても、それとは別に市民の権利と尊厳を守るために動かなくてはならない。


※重要 避けるべき行動と一つの答え

それはフェミ議連側に解答せよというメッセージを強く送り続ける事である。
おそらくなぜだと思う方が多いだろう。この項を文章のまとめとしたいので端的に理由をお伝えしたい。

批判を無視する理由の項で解説した通り、まず批判の存在自体を彼ら彼女らの「被害側である」というアピールの強力な材料になるからである。

ただ一番重要なのはそこではない。

思想と思想の対立でいえば———こういう言い方をしたくはないのだがあえてそう言おう。今まで人間はこうした勝手な決めつけで苦しめられてきたから。

肝心なのは当事者の人権回復である。求めるべきは、戸定梨香側の尊厳が尊重され、また社会活動に参加できる状態になる事である。それはひいては世界中で女性性の表現を抑圧されている人々にとっての擁護の根拠ともなるだろう。日本では抑圧に打ち勝ったと。

しかし、「人権」の一点ではなく「フェミ議連は答えろ」あるいは「これがダメならあれはどうなんだ」という攻撃的な批判を優先させてしまえばどうなるか。
それは結果として、人権が軽視されている現状自体を問題としない異様な状況を強固なものとしてしまう。
「人権侵害である」「人権を守れ」ではなく「フェミ議連は解答せよ」を主たる主張としてしまえば、フェミ議連側は批判者をまとめて「女性の性的被害を防ぐ事に疑問を持つ者」と位置づける事が可能となるのだ。

こうなれば「侵害された人権の存在」など今より更に軽視されてしまう。軽視されきってしまう事を目的としていると言っても過言ではない。
「批判している」と思っている側がその憤りを「答えろ」という言葉でぶつける限り、人権としてまとめられた人の尊厳ではなく対立の理論のはびこりを促進するものとして理解していただきたい。

やる気になれば、あらゆる宣伝方法を用いて「加害と被害」という構図を広めることだろう。マスコミ、政治家、ネット、教育、とにかく数多である。

この声ができる限り多くの人に届く事を願う。別の形になってもいい。本質が届き、「人権を守れ」に集約される古代から今に到るまでの理不尽な尊厳や命の否定を受けた人々の願いが、今ここに現れて欲しいと願う。


囚人のジレンマの敗北のような事にしてはいけないと言った方が伝わるだろうか。


この記事の著者である私は、多くの人を動かすとか派手な煽りとかは下手である。もしその才能があれば、多くの人を歴史上数多の人々の抑圧を引き起こした思想的影響から遠ざける事ができるのに。残念でならない。

私が下手であればこの理念をどなたか得意な人が広める、あるいは少しずつでも人づてに広まり、誰もが尊厳を保ちながら自由な思いを抱ける社会が実現してくれたなら。そう思う他にない。

長くなってしまった。読んでくれてありがとう。
これは人の批判ではなく、思想の誤謬の批判である。


.

※以下の文章は読者の理解に必要な情報と思い、前回の記事とほぼ同じ内容を繰り返し書いてしまった部分である。
余計な文章ではあるのだが、読むのが得意な方は読む事で再確認とより深い理解の助けとなるだろう。おまけのようなものと思っていただきたい。(消すのも忍びないため残す)


大元のフェミニズムに到る哲学的背景

 ヨーロッパにおける哲学や科学の発展は、キリスト教とローマ帝国が結びついた後に大きな転機を迎える。それは西暦300年頃の行われた大きな会議がきっかけで、それは国を支配する権力と宗教の教えが結びつきからルール作りが必要となったことからであった。
優れた教えが大きな国に認められるとは当時の迫害された人々にとって大変喜ばしいことでもあったろうし、また、人々を支配する権力との結びつきとはその教えに対する素朴な思いを持つことを許さなくしたという悲劇の面もあったと言えるのだろう。
 この部分の説明は教えそのものに対する見解ではなく、人類に起きた出来事のクローズアップと捉えていただきたい。

 「世界を創った神が王の世界を支配する権力を認める」という発想に基づき、教会は神の代理となって王のそれを認めるというものであり、王権神授説とはいわゆるこの事である。

この論理展開がエスカレートし、哲学や科学的な発想が自由にできない社会になっていった。これは聖書の説明と異なる世界の分析はすなわち聖書に対する疑問となるため、認定されている王の権力への疑いを意味するようになってしまったのだ。
これにより教会は真剣に聖書から世界観を分析する作業を進め始める。悪魔論や呪術は病気の原因などに扱われ、物理の説明も例えば「針の上に天使は何人乗ることができるか……」といった推論が徹底的に行われていった。
 これはガリレオの地動説に対する異端審問(教会の教えに反すると認定する裁判)につながる。
 聖書からはイブがアダムの肋骨から生まれたとするところから、女性は男性を補助するために生まれたという説明も長く行われ人々に浸透していった。
 1500年頃のルネサンス期に哲学や科学や芸術の大きな発展が起きる。ルネサンスとは再生という意味のフランス語である。東ローマ帝国が更に東側のオスマン帝国に滅ぼされた事により、学者達が古いギリシャ時代の書物や様々な研究資料を持って西側の神聖ローマ帝国に逃げてきたのがきっかけであった。
 この時代多くのものが見直され、女性の学問や結婚の自由王を選挙で選ぶなどの提唱や聖書を人々が読む動き(それまで制限されていた)などが起きる。頑なな権威の改革が緩やかながら進み始めたのだが、その中で宗教論争を利用した権力闘争が発生し自由の風潮は逆戻りしてしまった。以降、魔女狩りや植民地支配の拡大、奴隷貿易が激化する。
 しかし弾圧を受けながらも哲学や様々な学問は受け継がれ、ニュートンの頃(1700年頃)に再度大きな転機を迎える。彼の発見と証明は「神が作ったこの世界は理性的に分析が可能である」(理神論)という発想の非常に強い裏付けとなり、同じく磨かれ続けた法律論は「理性や意志が人間に備わるという平等性を基準にした国家運営をしよう」という人権思想となって人々に広まった。

 王の絶対的な支配から権利の概念に基づく平等性を基礎とした社会への移り変わりが革命という。アメリカの独立もこの人権思想が背景である。

その後フランス革命にて、破壊的な革命運動が起きる。王の処刑から独裁などが発生し、暴力的な革命と全体主義の思想が広まった。この部分が別もののフェミニズムの思想的ルーツである。


 人権である参政権の性別的な制限に対し行われた女性参政権運動は世界各国で展開される。フェミニズムとはフランスの団体が用いた標語的な言葉が発祥であった。よって、人権運動とフェミニズムは根本的には同じ意味であり、参政権についてはサフラジストや女性参政権運動家とも同義の言葉である。

唯物史観、フェミ議連の思想的背景

唯物史観、三段論法で世界の定義を付ける。階級的、権力的にとらえて男性が女性を支配してきたという前提という発想だから、その善悪二元論、性別二元論をあわせた発想をしている。
男性の性的な目線に応えるものと思われる女性性(女性的な表現)は、女性に対しては男性に媚びを売る情けない愚劣な態度、男性のその目線は男性の女性に対する支配や犯罪を呼び起こす発想として認識する。
人を物質として見る前提があり、男性による支配に向けて女性を変化させる(消費)という発想から、性的消費という言葉が彼ら彼女らにとってしっくりくるのであろう。
しかしあくまでも証明されざる前提が第一に置かれた三段論法であるから、現実的に当てはまる人はいない。(論点先取である)



最も重要な部分

踏まえるべき基本としては、まずフェミ議連のVtuber側に行ったのは人権侵害であるという部分である。
人権とは国(権力)と市民の関係性を示したものであり、フェミニズムの名称もそもそもは参政権が性別で左右された事への是正運動がその誕生のきっかけであった。社会を構成する基礎は理性と意志を持つ個人「市民」であり、社会問題改善のための活動や政治参加をする権利は人権である。

上記の事から、交通安全運動は人権の行使にあたる。それに対するフェミ議連の「性犯罪を助長する」という名目による排除の企ては、明白な人権侵害にあたる。なぜなら、性別や「○性らしさ」を理由に市民を社会活動から排除する行為は、現代の人権を基礎とする社会において極めて重い反人権的行為と言わざるを得ないからだ。
本来であれば凄まじい批判と人権回復を求める運動が起きるところである。本来であれば。

これは哲学的な背景の解説に及ぶので正直な所うまく伝わるかが不安ではあるのだが、見て取りやすいシンプルな動きから深い解説へと進むよう工夫して解説を進めてみたい。
この解説が読まれた方の有意義なツールとなることを願う。


 なぜ見過ごされるのか

明らかな人権侵害であるという声がなぜ起きないのか、あるいは重きを置かれないのか。
無視の第一の効果がここにある。このような人権軽視を引き出す効果があるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?