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共に生きるということは、大切な人の生き方を受け入れていくことかもしれない

妻がこの世界を去ってから一年と少し、落ち着いたかというとそんなことはなく、むしろ妻がいないということの実感が湧いてきて悲しみに沈んでいる日も多い。

死別から1年前後が最も鬱になりやすいということで、医師である友人からもくれぐれも無理しないようにと言われていた。ほんの少し前に一緒に過ごしていた誕生日や、記念日、クリスマスや正月などのイベント、隣に妻がいないことは違和感でしかない。「今自分は一人なんだ」「愛する人に会えないんだ」という現実をまざまざと感じさせる出来事が多く、深い悲しみと絶望感で動けなくなるような日もあった。

妻の生き方

そんな日が続く中で、妻の生き方とか人生について考える日も多かった。妻はとにかく友人の住んでいるところにいろんな場所に遊びに行くのが大好きな人だった。それこそ国内だけでなく海外も含めて。
旅先での楽しかったことを嬉しそうに話している妻の顔を今でも鮮明に覚えている。そんなことを考えてたせいか、自分も同じように旅をしてみようと思うようになっていた。

取り急ぎ行きたいと思える場所はなかったが、自分が悲しみに暮れているこの期間に連絡をくれていた友人のところにいってみることにした。

佐久平にあるコワーキングスペース
路地(佐久平)
レトロなパフェ(佐久平)
山口県俵山のそば
妻の好きそうなものを食べる(山口県長門)
店の人とそのまま宴会になった
なんだかわからんけど最高の酒のあて


人に会うことで疲れてしまったり、妻がこの場にいてくれたらと悲しみが湧いてくる場面もあった。それでも友人と過ごす時間や、友人を通して地元のいろんなの人達に出会えることも、純粋に楽しかった。そして、妻と一緒に楽しんでいるような感覚になる瞬間も確かにあった

妻がやってた生き方を取り入れてみることで、『妻と共に生きてる』感覚が生まれたのかもしれない。

一人で食事することや、家で一人過ごすこと、日常に溢れていた幸せすぎる毎日はいまはここにはない。
けれど妻と共に生きてることを感じることはできる出来事があるかもしれない。まだまだそんな出来事はこの世界にきっと残されているのだろう。

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