見出し画像

海がきこえる

どうやってこの作品と出会ったのか、今ではもう思い出せない。

調べてみると、映画ではなくテレビアニメーションだったこの作品が初めて放送されたのが1993年5月5日の16:00から。
その頃小学生だった僕は、ほぼ確実にこの時間帯の放送は観ていないはずで、でもこの作品を知ったきっかけは、アニメーションだった気がする。
祖父母の家でこのアニメを録画したVHSでも観たのだろうか。そんな気がするようなしないような。(いやでも…やっぱり原作が先だったような気もしないでもないような…記憶が…曖…昧…me…)

背表紙に人差し指を引っ掛けて、原作の単行本を棚から取り出したのは、近所の図書館だった。
中学生だった僕が、どうやって原作に辿り着いたのかも、やはり今ではもう思い出せない。
けれども、あの時目を落とした先にあった、単行本を持った自分の手も、表紙に描かれた武藤里伽子のイラストも、その奥でピンボケた図書館の本棚の風景も、僕は今でも思い出せる。

これまでにもSNSなどで投稿した事があるが、僕は「海がきこえる」のファンである。

氷室冴子氏原作の単行本を2冊(2作)、
文庫版も2冊(2作)、
DVD(発売日に確か買いに行った気がする)、
サウンドトラック、
そして「海がきこえる」特集号の「アニメージュ」を所有している。

度々スイッチが入ると、僕は「海がきこえる」の文庫を読む。
春が来る頃、夏が来る前、いや、大体年がら年中、サウンドトラックを聴く。
そのうちに恋しくなると、DVDも観る。
こんな風に何年にも亘り、僕が何度も振り返る小説もアニメーションも無い。

原作も良い。
読み始めた頃に何にグッときたって、主人公である杜崎拓の一人称が「僕」でも「俺」でも「私」でもなく「ぼく」というひらがな表記である事。
「氷室先生!最高です!」と叫びたくなったタカハシ少年の心を、大江千里さん作品の歌詞カードを穴が開くほど読んでいた人なら、きっと分かってくれるはずだと信じている。

アニメーションだって良い。
一貫して作品の持つ「平熱感」が更に骨太になっていてたまらない。
僕は、こういった話をする時によく「平熱」だとか「平熱感」だとかいう言葉を使うのだけれど、個人的にはこの「平熱感」を感じる作品にはめっぽう弱い。そして、そういう「平熱感」ってやっぱり邦画に多い。(これはアニメーションだけれど)

サントラだって勿論良い。
恐ろしい程よく聴いた。「人のセックスを笑うな」とこの「海がきこえる」のサントラは、この世で一番聴いたサントラアルバムだ。
曲を流して、アニメーションのシーンをわざわざ思い出す行為がたまらなく好きだ。
吉祥寺のホームにいなくたって、そこにはもうロンロンが無くたって、1曲目が始まれば、あのワンシーンをすぐに瞼の裏に描く事が出来る。
原作もアニメーションも「何がイイってさ~」みたいなシーンや描写は本当にいくつもあるので、それらはまたいつかnoteや SNSでポロリと発信するとして…

スタジオジブリの作品かどうか、映画じゃなかったかどうか、知名度が低いかどうか、そういう類の話は、正直僕の中ではどうでもいい。
「海がきこえる」は、「僕には無かった」けれど「確かにどこかに存在するのであろう」経験や風景をもって、僕をリアルなファンタジーに連れて行ってくれる。 
「“武藤里伽子”みたいな女のコって、そうじゃん、いるじゃん、いそうじゃん。もしかしたら、こんなひとと出逢うかもしれないし、こんなひとと知り合ったら、拓と同じようなセリフを言ってしまう自分がいるかもしれないじゃん」と、僕は今でも本気で思っている。
「リアル」を想像出来るって事が、胸をチクチクさせる事が出来るって事が、どんなファンタジー作品に触れる事よりも、僕にとっては「ファンタジー」なのだ。
「有り得ない!(でも映画やアニメだから有り得る!)」って思うよりも、「もしかしたら…有り得るかもしれない」なんて思う方が、僕にとってはファンタジーなのかもしれない。(いや、「ファンタジー」と呼ばれるものでも呼ばれないものでも良いのだけれど…)
きっとそういう要素をふんだんに含んでいる「海がきこえる」の物語や世界観、登場人物、風景描写が僕は好きなのだ。原作にしてもアニメーションにしても。
こういう作品を小脇に抱えながら生きていけるって、とても幸せな事だ。

僕が「海がきこえる」に対して、こんなに胸を掻きむしられるような想いを抱くのには、他にももっとたくさんの要素や理由があるのだろうけれども、一番はきっと、この作品の全編を通して、波のように寄せては返す、あの「平熱感」にあるのかもしれない。
故郷を想った杜崎拓にきこえていた海の音のように、この作品の事を、僕はこれから先、何度も思い出すのだろう、なんて思ったりしている。

28年前の今日、初めてアニメーションが放送された「海がきこえる」に寄せて。

ちょっと気持ちが向いた時に、サポートしてもらえたら、ちょっと嬉しい。 でも本当は、すごく嬉しい。