妻と共に生きてきた人生に悔いはない⑴

 3月2日は48年目の結婚記念日だった。石清水八幡宮の田中朋清権宮司から提案された「祈りプロジェクト」を全国の神社で開催するイベントの実行委員長である髙橋史朗塾の塾生を自宅マンションに呼んで協議を終え、渋谷のスクランブルスクエアでの記念会食に出かけようと妻に声をかけようと廊下に出ると、妻が倒れているのに気付いた。
 脳内出血か脳梗塞の症状と思われたが、すぐに救急車を呼ばなかった。それには訳があった。もし救急車を呼ばなければいけない状況になったら、寿命だと思って諦めて、絶対に救急車を呼ばないで、という堅い約束を何度も「指切り」をして確認していたからである。
 それには理由があった。スタンフォード大学に2年間留学していた時、親しくしていた盆栽職人の老人が木から落ちて同大学病院に入院していた。妻は毎日病院に通ったが、インターンの若い見習い医師が次々に病室を訪れ、妻にこの老人の変化について質問する無責任体制に強い憤りを感じ、病院不信に陥ってしまったのである。
 妻が倒れているのを発見して約2時間、私は重篤だがまだ意識のある妻の耳元で、大声で「救急車を呼ぶぞ」と叫び続けたが、妻は手を横に振って拒否し続けた。しかし、ついに意識不明の状態になり、妻の意志を確認できなくなったので、妻との堅い約束を破って私の責任で救急車を呼んだ。同居している妻の実母(95歳)も私もたとえ重い後遺症を背負ったとしても生きていてほしいと強く願ったからである。
 正直に言えば、救急車を呼ばないで私の責任でこのまま死なせた方が良いのではないかとも思った。先に死んで私を一人にしないでね、とよく言っていたからである。妻の父は絶対に史朗君をみとって後始末をするように言い聞かせていたようで、妻は私に口ではそういいながら、密かに父の遺言を守る決意をしていたようである。
 とても幸せな人生でいつ死んでも悔いはない。今日も生きててくれてありがとう、と妻は何度も口にした。重い後遺症を背負って生きるよりも、約束通りこのまま死なせた方がいいのではないか、という思いとたとえ重い障害を背負ったとしても生きていてほしいという思いが錯綜し苦悩の末、救急車を呼ぶ決断をした。
 救急病院の主治医から脳のMRI検査の写真を提示され、脳幹から視床にかけて出血多量のため、意識障害、高次脳機能障害、右半身麻痺、失語症の恐れがると宣告された。手術に当たって、「尊厳死」だけは守りたいので、人間としての尊厳が保てない状態で生命維持のだめだけの治療はしないでほしい、とお願いした。
 手術後10日間昏睡状態が続き、目を閉じたまま大きないびきをかいている状態で、妻が作詞作曲した「ありがとうの歌」を髙橋塾生の早田さんが小学校で録音してくれた澄み切ったエンジェルボイスの曲を聴かせると、いきなり手を振りかざして大きく指揮を執り始めた。現象の意識とは全く異なる魂の霊性が指揮を執る荘厳な姿を目の当たりにして魂が揺すぶられた。
 以来、毎日5時間寄り添い語り続ける中で意識は奇跡的に回復し、3月26日にリハビリ病院に転院し、毎日9時から17時まで全力で寄り添った。コロナ禍の影響か、毎日8時間家族の面会を許可するリハビリ病院は一つしかなかった。しかも長嶋茂雄監督が入院していた特別室がある8階だけしか長時間の家族面会は認められなかった。
 渋谷の自宅マンションから歩いて数分の所にある原宿リハビリテーション病院も有名人が入院する病院で、私たち二人の恩師のご自宅に隣接し、しかも私たちたちが大変可愛がっていて最近自宅マンションに遊びに来た明星大学のゼミの卒業生が小学校の教師を辞めて言語聴覚士の資格を取得して「言語」のリハビリ指導を担当していた。
 しかし、同病院は面会時間が1日30分と決められており、1日8時間の面会の方が妻の回復には重要と判断した。勤務している麗澤大学に「介護休暇」申請を行い、最低限の授業や研究発表、学会発表を除いて、看病に専念する決意を固めた。
 1月余の看病を通して、障害者に対する見方が大きく変化した。今までは車いすを押したり、杖をつきながらびっこで歩いている障害者を目にすると、「可哀想に」という同情心が湧いてきたが、妻の意識障害、右半身麻痺、失語症を目の当たりにして、意識があって良かったな、車いすでもびっこでも歩けて良かったな、言葉が喋れて良かったな、と思うようになった。
 真っ直ぐに座れない、立てない状況の改善がいかに大変なことか、を日々のリハビリ活動を通して学び、真っ直ぐに立て歩けることがどんなに幸せなことかに気づかされた。また、障害を背負って生きる意味についても深く考えさせられた。
 リハビリ病院の主治医から順調に回復しているので、4か月後には自宅に戻れるでしょうと言われたが、いや出来るだけ早く自宅に帰らせて下さい。トイレや入浴も含めて私が完全介護しますから、とお願いした。
 第3期髙橋史朗塾の最終講義は救急病院に入院して1週間後だったため、回復のめどが全く立たない中で、閉塾を余儀なくされた。塾生たちには必ず戻ってくると宣言したが、障害があまりにも重篤なため、残りの人生は「妻に寄り添って生きる」ことに専念する決意を固めていた。
 たとえ意識に障害が残り、言葉や手足が不自由であろうとも、妻と共に歩む人生に悔いはない。共に生きることができるだけで幸せだ、と心の底から思っていた。障害者として生きることにも深い意味があり、「悲しみの奥に聖地がある」ことを確信していたからである。
 
  

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