「終活」について考える

  昨夜9時過ぎに明星大学の第1期ゼミ長の小学校長から電話があり、髙橋塾の塾生でもある同期のゼミ生たちと「最近noteに妻の詩ばかり連載しているが、先生は大丈夫か」と心配していると聞かされて驚いた。妻の49日までは「妻の詩」を集中的に連載しようと考えていただけで、3月2日に妻が脳内出血で倒れ、4月6日に急性心不全で死去してから、妻のことを中心に書いてきたnoteは来週から3月2日以前の状態に”正常化”するよと伝えたところ、「先生のお元気な声を聞いて安心しました」とのことであった。
 早く妻を「偲ぶ会」を開催したいと催促されたが、髙橋塾の運営委員と髙橋ゼミの歴代ゼミ長有志、親学関係者有志で6月に実行委員会をズーム形式で行い、私たちが結婚式と披露宴を行った明治記念館で8月下旬の平日に開催する準備を進めていると伝えたところ、安堵した様子だった。是非49日辺りに「偲ぶ会」を開催したいと熱心に提案してきて嬉しかったが、これを機に、ゼミ生と髙橋塾生、親学関係者との交流も深めてほしいと念願している。
  秩父で妻の49日法要を終え、様々な手続きや遺品整理にも目途がついたので、心機一転新たに再出発したい。気がかりなのは秩父の施設に入った95歳の義母が毎日何回も長電話をかけてくることであるが、今母にできることは話に耳を傾けてやることしかないので、できるだけ傾聴するようにしているが、1回数十分の電話を切るとまたすぐにかかってくる。21時から2時までは就寝中なので電話しないでね、と言ってももう時間の感覚がないようだ。
 くり返し私に尋ねるのは、「私はこれからどう生きて行けばいいの?」という質問である。施設の生活ではすることがないので秩父銘仙の織物工場があった秩父の山の家で余生を過ごしたいという。渋谷区包括支援センターの介護調査によって、義母は「要介護2」と認定された。
 「要介護2」は、食事やトイレ、入浴に手助けが必要で、立ち上がる時や歩く時は支えを必要とする。身だしなみや掃除など、身の回りのこと全般に見守りや手助けが必要で、理解力や認知力の低下がみられ、サポートが必要な時間は70分~90分であるという。
 「サポートが必要な時間」とは、介護保険法に定める「要介護認定等基準時間」と呼ばれるもので、実際に家庭や施設で行われている介護時間の合計を意味するものではない。入浴は転倒リスクがあるため、日常生活の中でサポートが早い段階で必要になってくるケースが多い。
 妻が脳内出血で倒れるまでは母も毎朝明治神宮に参拝していたので、介護の必要はなかったが、精神的ショックのために認知症が進行し、お金のことを何度も口にするようになった。義父の死後長い間義母と同居してきたが初めてのことである。
 現金が手元にないことが不安なようなので、銀行の通帳と印鑑を手渡して小遣いとして3万円を1週間で4回渡しても、全て「もらっていない」と言う。実際どこに置いたか全く記憶にないようだ。
 心不全で日赤医療センターに入院し、秩父の介護施設に入所したいと友人に自ら強く頼み込んで入所したにもかかわらず、「私が秩父の施設に入りたいといったことはない。早く退所したい」と言う。何度も強く要望したこと自体が記憶にないのである。
 母自身は記憶にないのだから、ムキになって責め立てても仕方がない。しかし、この状態がさらに進めば、信頼関係が崩壊することは避けられない。母の急速に進行した深刻な認知症の現実に直面し、自分自身の「終活」についても考えるようになった。
 昨年9月に「慢性硬膜下血腫」で頭蓋骨と脳の間に85ccの血がたまり、noteの拙稿に誤字脱字が目立ち長文が書けない日があった。幸い手術で完治したが、「認知症」は決して他人事ではないことを痛感させられた。妻と子供がいない私が認知症になったら、親族に大変な迷惑をかけることになる。
 「終活」とは、よりよい最期を迎えるための準備を行う大切な活動のことだ。エンディングノートを作成し、身辺整理と資料・資産整理に早めに着手したいと思うようになった。最愛の妻と母にあまりにも突然の出来事が次々に起きたので、自分自身の「終活」についても考えざるを得なくなったのである。
  終活は、人生の今後を考えるために、自分のこれまでの人生や取り組んできたことを振り返って総括することによって、自分に改めて向き合い腰を据えてこれからの人生の生き方を考える再出発の契機になる。
 8月末に開催予定の「髙橋こずえを偲ぶ会」までに、妻の写真を集めて整理し会場でもスクリーンで見れるように準備したい。妻との48年の歩みを振り返ることによって、私自身の新たなスタートを切りたい。年内に自叙伝を出版し、73年の我が人生を振り返りつつ、対外発信を充実強化していきたい。
 
 

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