日本画を手本にしたゴッホ一「日本的なるもの」とは何か

 ゴッホは日本画のすべてが持っている極度の明確さを大変羨ましく思い、日本人の画家の仕事は「呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように、簡単に楽々と数本の線で描き上げる」と表現し、そのような描き方をゴッホは彼の描画の手本として、それにあやかろうとした。

日本人の文化形式

 彼は「因習的な世界で教育を受けて仕事をしているわれわれには、もっと日本の芸術を研究して、自然に帰らなければいけない。日本の芸術を研究すれば、誰でも、もっと陽気に、もっと幸福にならずにはいられないはずだ」と指摘している。
 自然と呼吸を合わせ、自然に浸りきった日本人の生活は、文化的に洗練した手ごころを変えていって、その結果が、あたかも自然そのもののように、そっくり自然に即して、自然らしくあることを究極の目的とする。
 そうした文化の生活なのである。その意味で非常に熟達した生活感情に根を置き、そこから生まれた文化の一つの「型」を示したものといえる。
 自然に手を加え、いろいろと文化の鍬を入れて、自然とはっきり対立する形で文化の生活を樹ち立てた西洋のそれと違って、むしろ自然に手を加え、文化の鍬を入れはするが、粗野な自然から脱して自然らしい洗練の装いをすることをねらいとする一一そういった特質を持った日本人の文化形式なのである。

「日本的なるもの」とは何か

 日本人の宗教はその固有の性質においては、日本の気候、風土に即した自然的な生活、また、日本語という独特な言語構成を持つ言葉を使っての精神生活と深く結びついている。つまり、日本人の伝統的な生活の仕方と切り離しては考えられない事象である。
 この伝統的な生活の仕方に活かされている日本人のものの感じ方、行動の仕方、さらには芸術その他の世界に現してゆく現し方、そういったものの性質を「自然に即する点」にあると見て、それを「真の宗教」だとゴッホは敏感に感じ取ったのである。
 日本人は自然のいのちと人間のいのちの間に連続性を感じ取り、むしろ自然のいのちを鎧とし、目標としてそれと一体になろうとする営みを生活の根本としてきた。この自然と人との間にいのちの連続性を感じ取る感性が「日本的なるもの」といえよう。
 この日本人の根底にある感性は日本人に備わっていて、誰が、いつ、どこで教えたとか、教わったというものではない「感じ方・生き方・考え方の枠組み」なのである。
 妻の詩集『ありがとうの音色を響かせて』(MOKU選書)に、三木露風の親友であり日本画家であった祖父の日本画を随所に掲載しているのは、その感性を継承したいと念願しているからである。
  最後に,30歳で渡米し大学院に留学した「志の原点」の地で妻が詠んだ詩を紹介したい。

ここには
どこにもない
独特の香りがあるのです

キャンパスにいても
図書館にいても
店に入っても
同じ香りがするのです

その香りがすると
私は原点に戻った気がするのです

あの時
前途は何もわからないのに
見知らぬ
はじめての異国で
私はなんで
あんなに恐れる心もなく
翼を広げたのでしょう

若さでしょうか
怖いもの知らずの頃だったのでしょうか

ここには
見知らぬ土地で
ただ進むことしか知らない 私がいる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?