利他の社会の思想的伝統一内山節『資本主義を乗りこえる』
私と同年生まれで近現代を超える独自の思想を形成してきた立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の内山節教授の著作集全15巻と近著『新しい共同体の思想とは』『民主主義を問い直す』『資本主義を乗りこえる』『内山節と読む世界と日本の古典50冊』(農文協)『いのちの場所』(岩波書店)『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)を買って読み始めている。
●信者が急減した生長の家・PL教団
『民主主義を問い直す』によれば、生長の家やPL教などの新興宗教の信者が激減しており、生長の家は公称250万~300万いた信者が公称50万ほどに激減し、PL教も信者が激減したためにPL学園高校が定員割れで経営難になり、甲子園で活躍した野球部を廃止したという。曹洞宗とか浄土真宗などの古くからの教団も檀家数が激減しているという。
信者の激減についてインタビューされた生長の家の谷口雅宣総裁は、「構いません。信者は減っているのだが、日本人の信仰心はむしろ増えている。自然信仰などはむしろ復活していて、人々のなんとはない信仰心は逆に今若い人たちに広まってきている。これは本来の日本の姿なので、信者が減ったからといって私たちは困っていない。教壇の運営上はいろいろ問題があるが、いま日本の社会はむしろ良い方向に向かっていると認識している」と答えている。
次に、私が最も注目した「利他の社会の思想的伝統」について論じた『資本主義を乗りこえる』の第3講「ほどほどの市場経済を模索する動き」の一部を抜粋して紹介したい。
<「皆の利益」の追求
個人の利益は日本では定着しない。戦後、皆が個人の利益を考えるような社会に向かったのですけれど、結局これは定着しなかった。つまり完全にアメリカのようになることはできなかった。どこかに「皆の利益とともに我々はいるのだ」というような気持があって、そういうものを消し去ることはやはりできなかったのではないか。いま、個人の利益をますます追及している人は勿論いて、その人たちは仮想通貨を買ったりいろんなことをやるわけですけれども、ああいう動きというものを、かなり多くの人たちは「冴えないことをやっているな」というふうに思ってみている。
そういう動きが表面化してきているのが最近の若者の動きでもあります。自分の利益だけを追求するのがイヤになっていて、もっと違う生き方をしたいというような人たちが、いろんな模索をしているとも言えるでしょう。
農村でも、自分の利益だけをガリガリ追求しているみたいな人って、「なんかあいつはイヤだな」とみられる雰囲気がやはりあって、「村があってこそ我々がいる」とか、そういう価値観を結局なくすことはなかった。むしろいまそれがもう一度再評価されるという流れになっている。
日本では、いっとき個人の利益の追求に向かうことがあっても、それは結局定着しない。むしろ「皆があってこその利益」みたいな方向にいく。そういう歴史がどうも古代からあるようだという気がしてきて、だったらまたそういう方向に行くのではないかと思うのです。
つながり合う世界
では、なんで皆の利益なのかというと、日本のそういうもののとらえ方というのは、とどのつまり「我々はいろいろなものとつながって生きている」という生命観を持っているということからくるのです。自然ともつながりながら生きているし、人間どうしもつながりながら生きているし、あらゆるものとつながってこそ私たちは生きているんだと、単体で生きているわけではないと、そういう感覚をもっている。
それは、ひとつはやはり日本の自然が与えたものかもしれません。日本の場合、災害が多い自然と一緒に暮らしているわけで、何かあったときには「自分だけで生きている」といくら踏ん張ってもうまくいかないという一面を持っている。そこから来る教訓があるのかもしれない。それから日本の稲作農業が、やはり共同ということをある程度考えないと成り立たないもので、用水路管理でもなんでも、皆でやってこそうまくいくというような社会をずっとつくってきたということもあるでしょう。
人びとがどんなふうにつながりをとらえていたのかというと、それは、どういうふうにあるのかは目にみえないかもしれないけれども、奥のほうではつながっているのだというものです。たとえば自然とのつながりでも、よく都市部の人、東京の人なんかだと「上野村ならいいかもしれないけど、我々は自然と言われても何もない。だから自然とつながりようがありません」という言い方をよくされるのだけど、それは極めて近代的な発想です。
伝統的な発想というのは、つながりとは目にみえるつながりもあるけれども目にみえないつながりもあって、むしろ目にみえないつながりを大事にしてきた。東京に住んでいると、確かに自然との目にみえるつながりはきわめて薄いということになるのですけれど、でもやはり我々は自然とつながって生きているという、そっちのほうを重視してきたのが日本の発想なわけです。
「我々は単体ではなくて、つながり合って生きている」というのが最終的には大乗仏教の基本みたいになっていくのですけど、そういう意識を持っている人たちからすると、「つながり合う世界がうまくいってこそ、自分もうまくいく。だから、つながり合う世界を混乱させてはいけない」という発想にになるのです。(中略)
災害のように自然で悪いことが起きてくるというのも、つながり合う世界のなかには何らかの邪悪なものが入っていて、そのためにつながりがうまくいかなくなっていて、それが個別の現象として災害を起こしたり、ときには人間関係がうまくいかなくなったり、いろいろなことが起きるということです。たとえば、ある人がイヤな人で自分とはウマが合わないとすると、それはその人がイヤなのではなく、つながりがうまくいっていないから、イヤな人として登場するということです。現象としては「あの人がイヤ」となりますけど、「だからその人を修正しよう」とは考えません。「どこのつながりにまずさがあって、あの人はイヤな人になってしまったのか」と考える。
つながりの修正をしなければダメだということです。つながりのなかに入っている邪悪なものを取り除くというのが日本の密教の呪術なのです。それが農村的世界では雨乞いであったりする。それから人間の病気を治すのも、「自然とのつながりがうまくいっていないから病気になる。その人と自然とのつながりのなかにある邪悪なものを取り除こう」という発想だったわけです。
つながり合う世界のほうに本質をみてきたという古代からの日本の発想があったために、「祈祷すれば出世する」式の、自分の利益だけの宗教や呪術は定着しなくて、むしろ排斥されて、全体の利益のほうを重視する仏教ができあがってきた。ですから、大乗仏教の基本的な考え方もむしろ日本でよく定着した。そういう歴史をもっているのです。
戦後の日本はそういう考え方を痛めつけて、「自分のために生きましょう」という時代をつくりました。そこで洗脳された人もたくさんいます。でも、結局、個人の利益の社会には移りきれなかった。そういうものが展開しはじめてわずか半世紀ぐらい経つと、もうそれに嫌気がさす人がたくさんでてきた。そしていま、若い人たちのなかからも、自分の利益だけ考えるはイヤだ、個人の利益の追求とは違う生き方をしたいという人たちが出てきています。やはりここでも伝統回帰が発生しているのです。もしかすると、これからおもしろくなっていくかもしれないという気持ちを強くもっています。>
岸本吉生氏が提唱した「常若産業甲子園」の背景にはこうした若者たちの「伝統回帰」の動きがあると言えよう。この「伝統回帰」の動きは単に国内の若者のみならず、日本の伝統文化を見直し,SDGsを超える「日本的ウェルビーイング」に期待する国連をはじめとする世界の動向とも連動している。
私が開門と共に一番乗りで毎朝参拝している明治神宮の参拝客の大多数は外国人であり、京都や奈良への観光客の7~8割が外国人と日本の若者であることがこのことを示している。
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