「サムライと国際協力」から自分を見つめ直す
Synodosに掲載された「サムライと国際協力」という記事が心に痛い。
記事はとてもいい内容なので是非とも多くの人に読んでもらいたい。
国際協力とは
僕自身「援助」という言葉は今でも好きではない。昔はもっと好きじゃなかった。僕はあくまでも寄り添って協力したくて国際協力に携わりたいと思ったから。
でも、日々の仕事では結局「援助」になってしまっているのではないかと感じることは常々ある。
だから、「サムライと国際協力」を読んで心にズキッと来るものがあるわけだ。
今まさに悲劇の真っ只中にあるシリア危機。アレッポで起きていることは中東や国際協力に関心のない日本人にもなんとなく知られていることではないだろうか。全く知らなくても生きていけるけど。
ただ、今、中東はヨルダンに住み、多少なりともシリア危機に関係する仕事に携わっている僕としては、全くもって無視できないし、個人的にはしたいこともあるけど、仕事としては様々な限界もあり日々悶々とし自問はすれども自答もできずにいる。
ただ、僕がサムライかどうかと聞かれれば、どちらかという悪代官というか「御用だ御用だ!」と騒ぎ立てる役人でしかないのだと感じる。つまり、支援対象となる人々に対して、寄り添い彼らのために開発事業を協力して行うというより、開発事業を行うために彼らの助けを借りている(あるいは尻を叩いている?)よそ者というようなところか。少々自虐的だけど、この記事を読んで自分はその程度だと改めて感じたわけだ。
開発と緊急支援
開発と緊急支援、あるいは開発支援と人道支援には大きな違いがあるというのは整理すべきところだろう。
国際協力には緊急的な支援をしなくてはならないものと、社会課題の根本的な解決のための開発支援の二つに大別される。
例えば五年以上続くシリア危機における現在のアレッポで起きている状況は明らかに緊急支援が必要だ。トルコ、レバノン、ヨルダン等に離散しているシリア難民に対しても人道支援という緊急的な支援が必要だ。
ジェノサイドの恐れもあると言われている南スーダンでも緊急支援が必要だろう。
日本の各地で起きる災害においても、災害発生時には緊急支援が必要となる。
一方、開発支援とは、人道的な緊急支援ののち、情勢が安定した際に、中長期的な課題解決に焦点が絞られる。
シリアの近隣国に避難したシリア難民は難民キャンプや各国の町で難民として暮らすものの、それが長期化してくると衣食住の支援だけでなく、長期的な就労、教育、保健が課題になる。生活が大きな社会経済システムの中で回り出すとそこに開発課題が出てくる。
災害復興においても、緊急支援がひと段落し、再定住化や復興の段階になると開発が担うべき作業が中心となる。
サムライの記事で触れている開発協力はあくまでも開発であり緊急支援ではない。
今、僕はこの緊急支援と開発の狭間で右往左往している。
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