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【悪人正機とは?】

【悪人正機とは?】

悪人正機とは何でしょう?

ブリタニカ国際大百科事典に、

こう書いてあります。

「念仏に関する親鸞の特徴的思想。

『歎異抄』に

『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』

とあり、

この思想が言及されている。

阿弥陀仏の本願は、
善人よりは、
悪人こそ本願力によって往生しうるのだとする考え方。

この思想は、
親鸞の師である法然の中にみることができる。

すでに法然の『選択本願念仏集』に、元暁の『遊心安楽道』から、

『浄土宗の意、本(もと)、凡夫の為にして、兼ねて聖人の為なりと』

という文を引用している。

すなわち、

浄土教は、
凡夫を正機とする、
とするのである。

さらに、
『法然上人伝記』(醍醐本ともいう)に、

『一、善人尚以て往生す、況や悪人をや事』

という口伝が法然にあったと記している。

この口伝は、
上記の『歎異抄』の言葉と同じである。

この思想は経典では、
『涅槃経』に見出すことができる。

仏教では、
一般に五逆罪犯した者、
正法(仏教)を誹謗した者、
仏法を信じない者(闡提〈せんだい〉)は成仏できない、
と救済の対象から除外されていた。

それが『涅槃経』では、
こうした悪人中の悪人にこそ、
仏の慈悲がひとえに重く注がれる、
と説かれている。」

『現代社会+政治・経済用語集』には、

こう書いてあります。

「『歎異抄』にある

『善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』

ということばに示される、
親鸞の考え方。

自分で善行を積む人(善人)が極楽往生するというのは、
一見もっともらしいが、
そのような自力作善の人は、
かえって阿弥陀仏にすがる気持ちが薄い、
煩悩にとらわれ、
それをどうすることもできないと思っている人(悪人)こそ、
自力を捨てて、
ひたすら阿弥陀仏にすがり、
極楽往生をとげることができるという、
他力の立場を示す。」

倫理用語集には、

こう書いてあります。

「唯円(ゆいえん)の『歎異抄』にある親鸞(しんらん)のことばで、
悪人正機の思想を説く。

悪人でも往生できるなら、
善人なら確実に往生できると考えるのが普通の考え方である。

しかし、
善人は、
自力の善行に自信をもつがゆえに、
阿弥陀仏にすがる気持ちが薄い。

そういう善人でも往生するのなら、
阿弥陀仏にすがるほかはない悪人こそは、
必ず往生すべき存在であるという意味。

ここでいう悪人とは、
世俗の道徳をかえりみずに悪行を働く人のことではなく、
自分の非力さ、
罪深さを深く自覚し、
あえぎ苦しむ人のことである。

人々が積極的に悪事をなすことについては、
親鸞は強くいさめている。」

『山川 日本史小辞典』には、

こう書いてあります。

「親鸞(しんらん)の思想の一つ。

『歎異抄(たんにしょう)』の

『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』

に代表される。

この言葉は醍醐寺本『法然上人伝記』にもみえ、
師の法然から継承したとされる。

その解釈には諸説あるが、
善人とは自力で修行する人、
悪人とは煩悩をもつすべての大衆をさす。

人々は平等に悪人なのであり、
その自覚のない善人ですら往生できるのだから、
悪人であることを自覚した他力信仰者の往生は疑いない、
と解釈するのが近年の説。

親鸞の悪人正機説は、
大衆に対する蔑視を捨てた平等思想にもとづくものとされる。」


親鸞聖人のいう悪人とは、

極悪非道人を指すのではなくて、

我々一般大衆人のことを指します。

親鸞聖人のいう善人とは、

自分を善人だと思い込んでいる無自覚なうぬぼれ人を指します。

『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』

の真意は、

『悪人の自覚すらない善人でさえ往生するのだから、
煩悩に悩み、悶え苦しむ悪人こそ救済される』

です。

己の無知・無自覚を認識し、

先哲の叡智・賢人の智慧に学びましょう。

我(が)を張ったり、

我を通そうと無理をしたりせず、

天運に身をゆだねましょう。

『運は天にあり』

“All must be as God will.”

すべては神の御心のままに

信ずる者は救われる

信仰が篤い人は救済される

(参考図書)
『用語集 倫理 新版』
(監修者 菅野覚明 山田忠彰 清水書院)

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