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違う人間になろうとして寝たはずなのに〜シュウの場合

 夜明けに春の鳥の鳴き声が聞こえるようになった。山の稜線は薄紫色をしていて、空には三日月がまだ出ている。朝がそこまで迫っているけれど、まだ夜が踏みとどまっている。

 また眠れなかった。眠ったのかもしれないけれど、その実感が無い。ベッドに体を横たえて眠りにつこうとしても、さざなみのような睡魔が僕のところまでやってこなくて、体を右、左、と何度も向きを変えたのは覚えている。暗闇の中で目を閉じてやってこない睡魔を待ち、固着しているようで進んでゆく時間を感じながら、諦めと苛立ちが僕の中で沁み出していた。



 
 眠ることは好きだ。眠りから覚めたとき、眠る前とは頭の中身がすっかり入れ変わっていて、物の見え方や考え方がまるで別人のようになっているあの感覚が好きだ。眠る前には立ちはだかる障害となっていて思考を阻んでいたカタマリが、どこかのゴミ箱に捨てたかのように、すっかり無くなっている。そして、眠る前の自分が全くの他人に思えている。そんな毎日違う人間になっている感覚を感じることが好きなのに、何年も眠ることから嫌われている。僕はもう長い間、違う人間になってない。朝も昼も夜もずっとシームレスに続いていて、区切りがない。なんて、眠りについてこんな哲学的な姿勢でなんていたくない。もっと普通に、日々のルーティンに眠りが埋め込まれていて欲しい。眠れないあまりに、眠りが僕にとって特別なものになってしまっているのがたまらなく嫌だ。

 眠りたいあまりに医者へ行き、クスリの力を借りようとしたことがある。

「眠れないのです」

「ふんふん」

「偶に眠れても、必ず途中で何回も目が覚めます」

「ほうほう」

「途中で目が覚めたときに、食べ物を食べてしまうのです。食べたくもないのに」

「ふむふむ」

「なんとかしてください」

「はいはい」

 そんな感じのやり取りの末に、医師はクスリを処方した。本当はこんな問診なんて要らない。ただ錠剤だけが欲しかった。


「これで今日から眠りの国に行ける」

僕にとってその錠剤は、眠りの国へのパスポートのように思えた。

 その日の夜、僕は早速そのパスポートを使ってみることにした。風呂に入り髪を乾かせ、パジャマに着替えてクスリを飲んで、ベッドに入った。すると、しばらくしてやって来たのは、さざ波のような睡魔ではなく、混沌を伴った気絶だった。ゆっくりと谷に分け入り、眠りの国に入っていくような感じではなく、ゴチャゴチャと何かを掻き回された末に気を失っているような感覚。うっすらと記憶らしきものがあるようで無いようで、でも目は閉じてはいる。朝が来て一応目覚めてはみたものの、そんな眠りのようなものでは頭の中身を入れ変わっておらず、僕は違う人間にもなっておらず、気持ちの落ち込みと体のダルさが僕の体に食い込んでいた。やたらと胃もたれがしていた。後から起きてきたユウに話を聞いてみると、僕はうつろな表情で寝室から出てきて、キッチンにあったお菓子を無言で貪っていたそうだ。不気味な雰囲気で怖かったので、声もかけられなかった、と。胃もたれはそのためだった。僕は全く覚えていなかった。起きているのか寝ているのかもわからず、自分が何をやっていたのかも覚えていない。パートナーのユウには気味悪がられ、しかも体にはダメージが残っている。医師が僕に渡した錠剤は、パスポートでも何でもなく、ただただ僕を混乱に陥れるだけの、白いカタマリだった。僕は、もう二度と眠りの国には入れず、違う人間になれないんだとその時悟った。とても悲しかった。

「シュウちゃん」

「ん?」

「昨日、泣いてたね」

「え?」

「昨日、寝ぼけて起きてきた時、泣いてたよ」

「ほんと?」

「ほんと。覚えてない?」

「うん」

 途中覚醒をして、自分がやっていたことを覚えておらず、しかもそのやっていたことがたまらなく惨めなもので、他人からそれを指摘されることほど悲しくて、死にたくなる事は無い。殊に、好きな人からだったらなおさらだ。

「今も泣きたいよ...」

 僕は絞り出すように言った。

 眠りの残酷なところは、その時間が毎日、ほとんど決まった時間にやってくるということだ。ダメだと分かっていても、良い結果にならないと分かっていても、一応、試みなくてはならない。必ず失敗すると分かってるスキージャンプを毎回やらされている感じ。一応飛ぶことはできる。飛ぶだけならば、誰だって出来る。でも見事に着地して、ゲレンデを華麗に降りてはこれない。着地と同時に地面に叩きつけられ、転げ回るようにゲレンデを落ちてくる。そんな結果がわかっているのに、毎晩布団に入らなくてはいけない。

 ある夜、ユウとセックスをした。僕はユウをとても愛していて、その夜もたくさん愛し合った。その後気絶するように意識がなくなり、深く長い眠りにつくことができ、起きた後に久しぶりに脳が入れ替わった感覚がした。長い間求めていた眠りがそこにあった。まさにこれを求めていた。でも自分の眠りのために、眠りのためだけに、ユウにセックスをしてくれと言うわけにはいかない。僕は彼女を愛しているから。毎晩、セックスを求めるだけならば、それは愛情の発露だとユウは思うかもしれない。多少度が過ぎるとは思うかもしれないけれど、若さゆえの過剰さだとユウも微笑ましく思ってくれるかもしれない。でもそれが眠りたいがための行為だとしたら、それだけだとしたら、ユウが僕にとって、眠剤と変わらない存在になってしまう。

「シュウちゃん」

「ん?」

「昨日、よく眠ってたね」

「え?」

「いつもは何度か起きてしまうのに」

「ああ」

「昨日はよく眠ってたよ」

 僕の安眠を心から喜ぶように、昨晩の行為も慈しむかのように、ユウはそう言った。それを感じれば感じるほど、僕は、自分がえぐられていくような気がした。「昨日はよく眠ってたから、今晩もセックスしよう」と、ユウからは言わないと思う。僕の安眠とセックスが深くリンクしているとは、ユウは思ってないはずだ。でも、僕は眠れないわけではないと言う事はわかった。何をどうやっても、夜に眠れない人間と言うわけではないらしい。セックス以外に、眠りにつける方法を見つけなければならない。

 それから1週間、僕はユウと2回セックスをした。セックスをしない日は眠れず、セックスをした時は眠れるというはっきりした傾向が出てしまった。この事実はいよいよ僕を苦しめた。僕と言う人間はとてもとても動物で、とても下劣だ。何をしても消せない、くっきりとした烙印が僕に押された気がした。僕はユウの笑顔を見ることで、ギリギリのところで生きながらえていた。

 
 その日はとても忙しかった。ただでさえ、クライアント先に設定された納品の締め切り日だったにもかかわらず、制作作業の佳境に入った夕方に、イレギュラーな対応を要求された。僕には拒否権がなく言われたままを飲み込むしかないが、それでも設定されたデッドラインを守ることは無理なので、締め切りを12時間延ばしてもらい、翌朝の6時納品ということで話はついた。思考と作業の蘿に絡まりながら、どんどん呼吸が浅くなっていくのを感じた。コーヒーをガソリンにして無理矢理自分の脳を動かし、空が紫色に変わり始め鳥の鳴き声が朝の到来を教えてくれた頃に、何とか作業を終えられた。僕はソファーに倒れ込むようにして身体を横たえた。知らぬ間に眠っていた。目が覚めた時は昼過ぎで、その時に自分の脳が入れ替わる、あの感覚があった。完璧な眠りがそこにはあった。ユウとセックスをした後の眠りも素晴らしかったが、この眠りも、僕が求めていたものに間違いがなかった。僕に安眠をもたらしてくれるのは快楽なのか?ハードワークなのか?でも、よくよく考えてみると、2つに共通しているのは、寝る前に何も食べていないということだった。ユウとセックスする前には何も食べてなかったし、納品の追い込みの時は、締め切りの12時間前から口にしていたものはコーヒーだけだった。どちらの場合もお腹の中はほぼ空っぽだった。ひょっとすると、僕の眠りの国へのパスポートは空腹なのかもしれない...。

 次の日、僕は晩御飯を食べなかった。家でランチをユウと食べたあと夜眠るまで、何も口にしなかった。研究室で試験管と向き合う研究員のような気持ちで、実験をしてみた。夜眠るときにユウとセックスをしたくなったが、僕は腕枕で我慢した。その日の愛情の表現の仕方が腕枕とわかって、ユウは安心した様子でよく眠った。んなユウの笑顔を見て吐息を感じながら、僕は眠りについた。 

 翌朝、僕の脳は生まれ変わっていた。昨日僕の脳の中に溜まったゴミはすっかり捨てられて、潤滑油が取り替えられたエンジンのようにその回路は滞りなく動いた。因と果がようやく繋がり、ずっと曇っていた霧が晴れた。僕は嬉しかったというよりはホッとした。こうやって毎日生まれ変われるならば、死ななくていい。生きていたいと思った。隣で寝ていたユウが目を開けて目覚めた。

「おはよう」

 ユウの声は柔らかかった。

「おはよう」

 僕もユウのトーンに合わせた。今朝ならば、ユウの優しいトーンに自然とシンクロできる。

「シュウちゃん、笑ってる?」

「え? そうかも」

「なんかいつもと違うね。いいかんじ(笑)」

 そう言ってユウも笑った。

「今日、出かけない?」

 僕はユウに聞いた。

「いいね」

 ユウはニコっと笑った。



〈このエピソードの他にも、「note de ショート」というシリーズで2000文字〜8000文字程度で色々なジャンルのショートストーリー(時にエッセイぽいもの)を、月10話くらいのペースで書いていますので、よろしければお読みください。〉


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