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川崎老人ホーム高齢者連続転落事件・今井隼人被告が語る“介護の闇” #01

【事件概要】
2014年11から12月、川崎市の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、80から90代の入所者3人が、4階と6階のベランダから相次いで転落死した。事件があったすべての日に夜勤に就いていたのは、同施設の介護職員だった今井隼人被告ただひとりだったこと、そして「3人をベランダから投げ落とした」との自供により、2016年2月、神奈川県警は今井被告を殺人の容疑で逮捕。

一転、今井被告は裁判では自供を覆し無罪を訴えた。だが、一審、二審で死刑判決を受け、現在は最高裁に上告中である。
 
【今井被告が“介護の闇”を語るまでの経緯】
2021年11月、2014年の事件発生後の直撃取材から、約7年ぶりに対面したその男は、東京拘置所の面会室のアクリル板の向こう側で、僕の「やはり死にたくない?」との問いに、これまで真っ直ぐ見据えていた目を逸らして数秒考えるような素振りをした後、こう淡々と答えた。
「死については考えたことがない。仮にやっていて、最悪のケース(死刑)になってもいいなら、こうして高木さんにも会ったりしません」

その後も面会を重ねたが、彼が無罪か否かは正直、僕にはわからない。友人の現役介護職員・宇多川ちひろ氏によれば、経験則からして、施設に入居している高齢者が飛び降り自殺をはかる可能性は十分にあり得るという。

そこで僕は、宇多川ちひろ氏が書いた『誰も書かなかった介護現場の実態』を差し入れ、事件や裁判の経過とは別に、介護現場の実情を世間に問い、現状を見直す一助になればとの思いから、今井被告が介護に携わるようになった経緯から、逮捕までを書くことを依頼した。

本稿は、今井被告が介護現場で過ごした、約1年間の記録である。
 
※本稿は、今井被告から届いた手紙を文字に起こしたものです。なるべく原文ママでの掲載になりますが、一部、事実関係が損なわれない程度にこちらで修正させていただきました
※全6回程度の連載の予定です。また本稿の売り上げは、今井被告への原稿料及び取材活動費などに充てさせていただきます 


【今井隼人被告が語る“介護の闇”】
まず、前提として『誰も書かなかった介護現場の実態』(※宇多川ちひろ 著)という本を読みました。
私の場合、介護有料老人ホームで勤務していたし、勤務期間も約1年間のみでしたので、素人とあまり変わらないと思います。それでも、介護施設で勤務はしていたので、なるべく時系列的に実体験したことを書きます。
 
(1)介護施設への入社のきっかけ

私自身、実は当初から介護施設に入社を決めていたわけではありません。というのも、医学系の専門学校に通っていて、医学系の勉強をしていたからです。
素直に人の役に立ちたい、また人助けをしたいという思いがあって医学系の勉強をしていたのです。

ただ、公務員試験には不合格となってしまったので、以前から興味があった介護職を選んだのです。
また、介護職も人の命に関わる仕事という認識でしたから、専門学校で勉強していた知識も少しは役立つのではないかとの思いもあったのです。
そして、介護付有料老人ホームに就職することになりました。

(2)介護施設(介護付有料老人ホーム)に入社してからのこと(※入社初日)

まず、入社した当日は、施設内の部屋で当日の施設長や施設管理者と向きあって机上での勉強から始まりました。内容は、主に施設内部の状況の説明や、どんな入居者さまがいらっしゃるのか、各入居者さまの個性や留意点等について説明を受けました。

私と同期で入社した人は、私の他に2名(※いずれも男性)いて、3人で一緒に説明を聞いていました。
その後は、施設管理者の方や先輩方と一緒に、実際に施設内部をまわり、実際の実情を見させてもらいました。

私の第一印象としては、かなりバタバタとしていて、あまり余裕をもってひとりひとりに職員の方が対応しきれていないなということです。
最初に見たのは、1階食堂での様子で、ちょうど昼食の時間帯でした。入居者の方がちゃんと飲み込んでいないのに、続々と食事を口にはこんでいる職員の方を見たときは、ちょっと”衝撃”でした。
というのも、誤嚥(※飲食物や唾液を飲み込んだときに気管に入ってしまうこと)するリスクが高く、危険だからです。

そして、慌ただしく職員の方が動きまわっていたり、どちらかというと、ひとつひとつ丁寧にというよりは、もう慣れたように一連の流れでやっているという印象が残ったのです。なので、あまり余裕がないなと感じたのです。

入社初日は、オリエンテーション的な意味合いが強く、そんな感じで終わったと思います。私の初日全体の印象としては、前述したことと、「自由」を大事にしている施設だなということです。
ノーマライゼーション(※障害のある人が障害のない人と同等に生活し「ともにいきいきと活動できる社会を目指す」という理念)といって、つまり、入居されている方たち個々が、自身のライフスタイルにあわせて生活してもらうということ。例えば介護はせずに、その方の身体能力を、現状よりも低下させないように、維持しつつ、できれば向上も目指すということです。

これらの考え方は、基本的なこととしてオリエンテーションでも説明を受けました。イメージとしては、必要な介助(介護)はしつつも、自立支援も行うということです。

なので、身体拘束にあたりかねないこと、例えば各居室のベランダ入り口に通ずる扉の鍵を、職員が勝手に、無断でかけてはいけないこと等も、施設のみならず、会社としての基本的理念であるということも言われました。
なので、入社初日の印象としては、以上の通りです。

(3)続・介護施設(介護付有料老人ホーム)に入社してからのこと(※入社初日以降)

確か、入社して2日目以降から約1ヶ月間は、基本的に先輩職員に着いて2人1組で、実際に介護現場に出ました。ミット期間と言って、要するに、見習いみたいな立場です。
私は、この時点では介護の資格は何ももっていませんでしたので、いわゆる”素人”でした。なので、当然、最初の頃は先輩が行っている介護(介助)の様子を後ろから見ている感じでした。

実は、私自身、私の祖父母の介護というか、介助を自宅でした経験がありました。介護現場でいうところの「移動介助(※食事・着替え・入浴など、日常生活のさまざまな場面で欠かせない『移動』動作を助けること)」や排泄介助等にあたると思います。ときには私自身の手で祖父の排泄物を受けとめるということもあったりしました。
というような、素人的な実体験はあったのですが、私の介護施設では、本当に入居者の方によって身体能力のバラツキ(要介護度等)が大きかったのです。

当時は、満床80名のところ、約75名入居されていたと思います。要介護度5の方もいらっしゃるなか、そして同じ要介護度5でも千差万別ですし、逆に要支援1や2の方いらっしゃいました。
なので、そうした意味合いで、先輩の介護(介助)を見て素直に「大変だな」と思いました。

そして、入社初日に感じていた通り、人手は足りていませんでした。いわゆるマンパワー不足です。
ただ単にひとりの入居者の方に対して介助していればよいということではなくて、例えば介助している間にもひっきりなしにナースコールが鳴ったりします。そんなナースコールにも対応しつつ、入居者の方の介助もしなければなりません。ナースコール越しの会話で理解してくれて待ってくれる方もいれば、そうではない方、つまり意思疎通が難しい方などもいらっしゃるのです。そうした状況を見ていて、「想像以上に過酷である」と思ったのも、実際のところです。

そうしている間に時は経って、次は実際に私自身が、先輩職員に確認してもらったりしながら入居者の方に介助をすることになりました。介助と一口に言っても、中身は多岐にわたります。「移動介助」「排泄介助」「食事介助」「洗面介助(口腔ケア)」「薬介助」「入浴介助」等があります。私自身、いちばん最初に実体験した介助は、「移動介助」になります。簡単に言えば、居室のベッドに横になっている入居者の方を、まず起こし、座位の状態なってもらい、そこから私自身の両腕で体を密着させて抱えながら、車椅子に移ってもらうことです。当時、私自身、20代前半でしたが、介助の方法を間違えたら、おそらく腰をやってしまうだろう、つまり腰痛等になってしまうだろうと思ったのを覚えています。なので、おっかなビックリしながら、ゆっくりと移すということをしました。思っていた、というよりかは、先輩の動きを見ているのと、実際にやるのとでは、感覚として全く違っていました。なので、戸惑いながらも、なんとかやったという感じでした。

その後は、徐々に介助を行う幅を広げながら、「排泄介助」「食事介助」「洗面介助(口腔ケア)」「薬介助」「入浴介助」等と、全ての介助を先輩に教えてもらいながら、確認してもらいながら行いました。先にも書いた「移動介助」もそうなのですが、どの介助にしても人の身体に関わることなのです。人に接している以上、一歩間違えたらその人の命に関わることなのです。

なので、非常に責任が重いですし、そうした意味で大変な仕事だと思っていました。特に「食事介助」は、”誤嚥”のリスクと常に隣り合わせなので、プレッシャーがありました。どんなに自立した方であっても、”誤嚥”というリスクが消えることはありません。だから気が抜けません。なので、特に最初の頃は、とてもドキドキしながら「食事介助」についていました。

また、前述したこととは別なのですが、私自身のミット担当の先輩ではなかったのですが、他の先輩が私の隣で「食事介助」をしているときに、その先輩が入居者の方が完全に飲み切っていないのに、飲料を口に勢いよく運んでいて、その入居者の方が吐き出してしまったのです。

幸い、”誤嚥”にはならなかったようなのですが、あまりにも安易すぎてビックリしましたし、私自身、当時は”介護の素人”でしたが、介護に携わるのであれば多少なりとも医学の知識が必要不可欠ではないのかと、その時に感じたのを覚えています。
ただ、そこまで感じながらも、私自身、入社したばかりの”介護の素人”ですから、さすがにその先輩には言えなかったのです。

それと、前述したとおり、入社して約1ヶ月はミット期間、つまり見習い期間なので、覚えることが多いですし、仕事の内容についていくことで精一杯ですし、施設の先輩も介助業務のスピードが遅くても、何も言ってきませんでした。
というのも、私自身が当時勤めていた介護付有料老人ホームは、「ライン表」と呼ばれていた、いわゆる業務スケジュール表がありました。それは、その日、その日で介助内容と、その担当が組まれて印字されているものです。例えば、入居者のAさんという人に、特定の介助職員が配置されているというようなシステムとは異なり、その日、その日で変わります。
「ライン表」には、入居者の居室番号と、その方の苗字、そして介助の内容とその時間が印字されていて、時間帯は基本、15分刻みです。そして、時間帯にもよるのですが、基本、「ライン表」には介助がギッチリと印字されています。基本、印字されている時間帯に、全ての介助を終えるよう先輩から言われました。

入社してから1ヶ月前後くらいになると、先輩から「今度はスピード」「もっと早く」等と言われるようになりました。そして、どうしてもクオリティー(質)よりもスピードを優先せざるを得なってしまいました。当時の施設内部の雰囲気というか、空気感としては、どうしてもクオリティー(質)よりもスピードを優先させる感じでした。実際に先輩の職員が、スピードが遅いあまり、他の職員から注意や指導を受けている場面も見たことがありました。なので、私自身も、正直、スピードを優先してやっていました。

その時点では、私の知る限り、スピードよりもクオリティー(質)が際立っていた介護職員の方は、本当にひとり、ふたりくらいしかいませんでした。際立っていなくても、あまり変わらないと思います。
そんな感じでミット期間と言われる見習い期間を終えて、その後はひとり立ちすることになりました。
今回の原稿は、ちょうど区切りがいいので、ここまでにします。

次回は、この続きから書こうと思います。宜しくお願い致します。
以上。
 
令和4年 5月29日 
東京拘置所(内)
今井 隼人(イマイ ハヤト)

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