見出し画像

過疎の駅に置いておく【エッセイ】

 思いつきはあまり好きじゃない。
 なんてことない週末の休みも、できるなら計画を立てて過ごしたい。3歳児と、なるようになる精神で生きている夫と生活を共にしているので、実際はなかなかそうならない。

「電車がすぐそばの街に住んでいるから電車好きなのだろうか。果たして電車が通っていない町の子は電車に興味を示すのだろうか」
 息子を見ていると、いつも思う。
 東北の某県庁所在地にある私たちのアパートからは、高架を通る新幹線がよく見える。歩いてすぐのところに在来線も走っている。そんな環境のせいか、息子はすぐ電車が好きになった。

 駅に行って150円の入場券を買い、新幹線をホームで眺める行為は、山口家休日の過ごし方ベスト5に入る。こんなにコスパが良いアトラクションは無い。結局、駅ビルにも寄りジュピターコーヒーで無駄な買い物をしてしまうのには目を瞑ることにする。

 青緑色の流線形がなめらかにホームに入ってくるのは、確かに見ていて清々しい。息子のためと言いながら、親も関心しきりである。子育てあるある。
 ひと通り新幹線を見て、次は在来線のホームへ移動する。息子がお気に入りなのは、県境を西に超える路線。車体のピンクのラインが可愛いのだそうだ。たしかに可愛いピンクだ。細く紫のラインが入っているのも良い。

「乗れば?」
 ホームには、あと5分で発車する電車が停まっている。

「一駅だけ乗ってみたらいいよ。オレ車で隣駅まで迎えに行くから」

 また始まった、と思った。行き当たりばったり。
 実はその日、夫は仕事で待機中だった。休みではあるけれど、電話が鳴ったら会社に行かなくてはならない。自分が電車に乗ることはできないので、私にそう打診してきたのだろう。
 いいよ今度にしよう、と断ろうとした矢先、息子の「でんちゃ乗りた〜〜い」コールが湧き上がってしまった。私は仕方なく改札に戻り、切符を買い直した。    
 

 慌てて息子を抱え電車に乗る。
 夫はにこにことホームで手を振っている。そしてまもなく電車は走り出す。

 乗客は殆どいなかった。だいたい、この路線は隣町からの通勤通学専用といった感じである。日曜の昼間に人がいなくて当たり前の車両なのだ。
 一度高架に登り、市街地を走り抜けると地上に下って緑の田んぼの中を進む。平野の向こうに標高2000メートル超えの峰がそびえ立っている。今日は日本晴れだ。真っ青な空に、ダークネイビーのその山々は異様な存在感がある。神々しい。
「山、綺麗だね」
「きれい!おっきい!」
 思わず電車に乗れた興奮からか、息子はいささか大きな声で答えた。静かにね、と咎める気にならないほど、この電車には乗客がいないのだった。

 隣の駅まではあっという間に着いてしまった。
 降りる人は私たち以外いない。初めて降り立ったその駅は、驚く程に静かだった。結構立派な駅舎はあるが、人の気配が全くしない。改札もない。
 ホームから駅前の小さなロータリーに出る。自転車がびっしりと並んでいて、朝夕はそこそこ活気があるんだろうなと想像出来る。周りを見渡すと住宅街だった。いい天気なので洗濯物を干しているところが多い。
 人が生活している、という物的証拠はたしかにあるのに、その人がひとりも見えないうえ、全くの無音である。それがなんだか薄気味悪い。
 近くにお店も無いので、結局息子と二人、ベンチでジュースを飲みながら夫を待つことにした。

「ひとがいないよねぇ」
「そうだねぇ」
「しずかだよねぇ」
「本当に静かだねぇ」

 電車だと10分足らずで着いてしまったが、車だと30分程度かかるだろう。二人でぽつぽつ話していたが、どうやら飽きたらしい。息子はすっくと立ち上がり、歩道を線路沿いに歩き出した。慌ててそれを追う。

 むせ返るほどの緑の匂いの中、息子はずんずんと歩き続ける。太陽が眩しく、5月の末にしては日差しが強い。

 例えば、これが雨だったり曇りだったら、そこまで寂しさを感じないのだろう。雨音や空を覆う曇が、寂しさを紛らわせてくれる。
 抜けるような晴天というのが、この不気味な雰囲気を助長させているようだった。

「そろそろ戻ろうよ」
 数歩前を歩く息子に声をかける。振り返ってこちらに向かってくる途中、足がもつれて転んでしまった。
 傷ができていないことを確認して立たせると、息子は大きな声で泣き出した。薄気味悪い町に、息子の泣き声だけが響く。

 3歳も過ぎた子どもは、抱っこするのには重すぎる。よいしょと腰を入れて持ち上げ抱きかかえる。息子は私の首元にしがみついて、私のシャツを涙で濡らしている。

「大丈夫だよ、ケガしてないよ、でも痛かったよね、びっくりしたね」

 駅に向かって歩きながら慰める。こんなに大声で泣いていたら近所迷惑だ。必死に宥めても、息子は泣くのを止めない。少し転んだぐらいで普段は泣かない。しかしこの日はぐずぐずと泣き止まなかった。

 息子は息子で、この異様な雰囲気が怖かったのだろう。
 その気持ちが痛いほど理解できて、なんだか私まで泣いてしまいそうだった。
 この世界にたった二人しかいない。この過疎の駅は、そんな気分にさせる。家々に響く息子の泣き声は、そのうち青空に吸収されて昇華する。
 とんでもないところに来てしまった。
 私は、息子を強く抱いたまま、駅の前で立ちすくんでいた。

 永遠にも感じられた静けさは、夫が乗ってきた車のエンジン音で打ち破られた。見慣れた愛車がロータリーに入ってくる。

「どうした、泣いてんの?」

 息子の泣きべそ顔を見て、夫が困ったように笑っている。車に乗り込むと、さっきの調子はどこへやら、息子は夫に興奮した様子で話しかける。
 あんなに私にしがみついて泣いていたのに。
「あのね!でんちゃ乗ったの!ひとがいなかったの!お山きれいだったの!」
 そうかそうか〜と夫も笑顔で返事をする。
「さっきまで泣いて泣いて大変だったんだよ」
  愚痴っぽく言ってみるが、私も安堵の気持ちでいっぱいだった。深呼吸をしながら、大きなため息をつく。

 車は、電車が来た方へと戻っていく。
 息子はすっかりご機嫌で、夫とおしゃべりに夢中だ。私は窓にもたれかかり、先ほど電車から見た山を見つめる。
 私や夫と物理的に離れてさみしい、とは違う、一種の物悲しさや侘しさみたいなものを息子はきっとはじめて感じたのだろう。

 幼稚園に入ったばかりの子どもに、そんな感情はきっと理解し難い。というか、まだしなくてもいい。覚えなくてもいい。
 今はまだ、その気持ちをあの異様な過疎の駅に置いておこう。

 車は、私たちの街へと進んでいく。


この記事が参加している募集

休日フォトアルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?