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黄金に輝く日の昇る国日本④ツインピークス富士山の冬至とは?

縄文人と太陽信仰

【夏至は稲作祭り】~豊作を願う祈りの日~
  世界的に見られる信仰である太陽信仰ですが、日本の縄文時代も数々の遺跡から太陽信仰だったと考察されています。
 既に稲作があったという事もあり『夏至の日』というは人々の崇拝対象となっていた事でしょう。では何故世界でも夏至が神聖な日とされているかと申しますと、6月夏至の頃というのは稲を植えるシーズンなのです。
 つまりそれを知らせる作りになってい祭り場というのは当然豊作をお祈りする祭りが行われたのは容易に想像がつくわけです。
 私は別の記事で太陽の大湯環状遺跡の太陽の動きについて詳細にわたって述べてきましたが。詳しくはそちらをご覧いただければなと思います。↓太陽の動きそのものが面白い事にとある文字になっているのです。

【冬至は太陽の復活祭り】
 夏至が有るならその反対に冬至といういうものが有ります。冬至一年で一番昼が短くなる日の事です。古代の人々は『冬至を太陽の力が最も弱まる日』と考え、世界各地で太陽を復活させるための祭りが行わていた。日本では天皇が、新嘗祭で神様に新米をお供えします。毎年旧暦の11月=冬至の時期に行われ太陽復活祭りの意味があったと考えられています。
 また、庶民の間でも「花祭」というものが今もなお受け継がれている事を御存じでしょうか?
【日本の冬至祭り:花祭について】
至学館大学伊達コミュニケーション研究所 石田芳弘氏記述より引用
花祭りを別名霜月祭という。冬至こそ生命力 のターニングポイント。夜の長さが逆転し、この 日を境に太陽の力が復活する。私の自宅近所に 3世紀構築の東ノ宮古墳がある。真東から昇っ た太陽光が、埋葬された死者の部屋に一筋差し 込む冬至の初日の出をこの古墳から拝んだこと があるが、古代人は、冬至こそ太陽の復活と共 に人の生命力も蘇生することを祈ったに違いな いし、そこに太陽と大自然の霊力に畏怖したに 違いない。

【古代は冬至が一年の始まりと考えられていた】
 冬至にて太陽がその輝きを一旦失い(お休みし)一年の計は元旦にあるなどと申しますように、新しい年明け(太陽)をお祝いする感覚なのでしょうね。そして約半年ほど経ちそこから太陽が最盛期に向かうので、今年も沢山稲が実りますようにと心からお願いする。そんな自然崇拝に基づく暮らしだったのでしょう。

冬至こそ生命力 のターニングポイント

と、上記の記述でも教授が仰られていますが、何故それなのに冬至がクローズアップされないのでしょうか?節分にそれがヒントがあります。

木の花ファミリー様の記述より抜粋
花祭は、1年で最も寒い時期に行われます。そして数多くの鬼が登場します。中でも榊鬼と呼ばれる鬼の総大将は、寒い冬の間に大地の奥深くに沈み込んだ生命力を呼び覚ますものとして、祭の中でももっとも大切にされている存在です。
現代の日本では、鬼は災いをもたらす存在として忌み嫌われ、節分には「鬼は外、福は内」と言って豆まきをします。しかし実は、鬼は一年に一度、人々の心の中にある闇を照らしにやって来るのです。道を踏み外そうとしている人々の心の闇に光を当て、それが何であるかをわからせ、心の大掃除をして元の道へと還ることを教えてくれているのですが、自分の心の闇から目を背ける人々にとってそれは疎ましく、鬼こそが災いの元であると思えるのでした。
そしてこの榊鬼こそ、かつて封印された艮の金神様のお姿なのでした。
~以上~

この方が記述されているように実際に冬至の方角丑寅の金神は封印されています。それを証明したのが以下の記事です

【縄文遺跡の祭祀場所の姿を解説していきます】
 
  太陽の祭祀だったと専門家達の間でも言われているという話をしてきました。それでは具体的にどんなものかという話をしていきたいと思います。前回までに出てきた縄文遺跡の法則性について以下に示していきたいと思います。
【富士山の夏至祭祀の鍵は遺跡が握っていた】
以下2つの遺跡には、当時の人たちが富士山を信仰していた痕跡があると専門家は言う。
①大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡

富士山の南西、富士宮市の山あいに位置する
②千居(せんご)遺跡
大鹿窪遺跡の北、寺院敷地内の私有地に存在紀元2~3千年、縄文中期の遺跡千居遺跡のストーンサークル
【専門家の分析】ヤフーニュースより引用
内山博士が指摘するのが伊勢市の二見興玉神社の夏至祭。毎年6月の夏至の日に伊勢湾に浮かぶ夫婦岩の前で禊ぎを行ない、夫婦岩の真ん中から富士山と重なって昇る太陽を拝む神事だ。縄文時代、富士山は現在の姿と異なり、東西に2つの頂上のある双子の山であったという。それが2900年前に東の峰が崩壊して現在の姿になった。  千居遺跡の配石遺構から見て、当時、どの方向から夏至に太陽が昇ったのかを内山博士が調べたところ、まさに
当時の富士山の双子の頂の間から日が昇っていたことがわかったという。
「千居遺跡は、富士山の2つの峰の間から夏至を中心とする夏の日の出を臨む最適地を選んで作られたと考えられますと内山博士。千居遺跡は縄文時代の「夏至祭」の場であったのだろうか。  千居遺跡の時代から、さらに遡る縄文草創期の遺跡、大鹿窪遺跡の石の遺構についても内山博士は、千居遺跡のストーンサークルと同じ役割があったとの見方を示している。縄文中期になるとモンスーン気候となり梅雨が生まれ、その結果、6月の夏至に雨が降ることが多くなった。富士山から昇太陽を見るために5月末から8月初旬までの幅広い期間に富士山の間から昇る日の出が見られる場所に移動した。
それが千居遺跡ではないかというのだ。
~以上~

夏至の太陽はツインピークス富士の間を通る

【では冬至の祭りはどこかについて私の考察をお話ししたいと思います】

まずは太陽から場所を特定します

すると、やはり大室山を通ります。精進湖付近のラインですね。冬至の時に大室山に行くと・・・・

この位置を見ると・・・・

冬至も富士山のツインピークスの谷間を通ったであろう

 というドキドキするような事実を感じました。私はパワースポットでは磁場が違うと言われているせいかカメラにも不思議な物が写ったり作動以上が出たりします。けどそれは必ず神秘的なもだったりするので是非ご覧頂きたいなと思います。

【山海経より引用】
世界樹・扶桑(扶桑はかつて日本にあったとされる巨木)の下に住む女神である羲和は、子である「十の太陽たち」を世話している。天を巡ってきてくたびれた太陽を湯谷で洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるという。
【谷とは?】goo辞書より引用
①たに。たにあい。山と山との間の狭いくぼ地。「谷飲」「渓谷」

これは下から仰ぎ見ていますがそれでも【枝に太陽が干されている】様な写真になっています!古代には扶桑木が在ったとしたら、更に高々としたところに

太陽が干されている様な見た目になったはずです!


以上でこのシリーズは押しましです。
次回の作品は、上記の様に【冬至がスペシャルな場所】であるのにも関わらず、何故知られていないのか?が考察を交えて解説していきたいと思います。


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