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フィールドワーク: 東ティモールで地下活動家たちと出会う

大学院生だった2015年の夏、学期末試験を終えた数日後に僕は東ティモールの首都ディリの空港に降り立った。

国際空港(?)というか東南アジアの田舎の空港のような感じのディリの空港から街に向かいホームスティ先に到着。ここから現地語であるテトゥン語での生活が始まった。当時は同じ研究室の同期と学部時代の知り合いの3名が東ティモールに留学に来ており(今考えるとかなり珍しい)、3人で同じ敷地にある家族の家にホームスティしていた。最初は現地での生活に慣れるのに精一杯だった。全く舗装されていない道路をミクロレットという乗り合いバンにぶら下がって乗る移動するという割とエキサイティングな毎日を過ごしながら、この国に郵便番号や住所というものが存在しないことや(Amazonとか届かんやつ)、大統領府が海岸の目の前に立っていること(津波きたらどうすんねん)に驚愕しながら、蚊と格闘する日々だった。ちなみにしっかりとデング熱にもなりました(笑)

数ヶ月経って人の繋がりもでき、生活にも慣れた頃にインタビューを始めることにした。当時は、インドネシア占領期にインドネシアで活動していた東ティモール人の若い世代の活動家たちのナショナリズムをテーマに修士論文の研究をしており、1980年代から90年代にインドネシアで地下活動を展開していた若い世代の東ティモール人活動家たちに会って話を聞くのがフィールドワークの主目的だった。

狭い国なので人脈を作るのにはそれほど苦労しなかった。とりあえずNGO関係者が多く集うインターン先の近所の食堂でインタビューを始めることとなったのだが、これがその後の研究生活を方向づけることになるとは当時は思いもしなかった。実はこの食堂には、レネティル(Renetil: Resistência Nacional dos Estudantes de Timor-Leste)というインドネシアで活動を展開した東ティモール人の若者たちによる地下組織のメンバーが勢揃いしていた。ということで、芋づる式にレネティルの活動家たちにインタビューしていくことになった。

数ヶ月インタビューを取っていると、インドネシアからの独立紛争を戦った彼らが口々に「インドネシア人はいいやつ」とか「ジャカルタで一緒にデモをやった」とかインドネシア人に対してかなり好意的な発言をすることが多いことに気づいた。これはなかなか面白い話である。というのも国際機関や国際社会での通説は「インドネシアは東ティモール人の敵」というものであったからである。東ティモールが独立後に公用語をテトゥン語と(ほとんどの人が喋れない)ポルトガル語にしたのもある種インドネシアとの関係性を断つためだった。しかし、東ティモールの生活や若い世代の活動家たちの会話にはインドネシア文化が溢れていた。例えば、NGOの会議なんかはインドネシア語だったりするし、子供たちも日常的にインネシアの番組をお茶の間で見ている。こうしたことから僕の研究は東ティモールナショナリズムにおける「インドネシア」というものに徐々にその方向性が移動していった。

結果的にレネティルメンバーから1990年代活動を共にしたインドネシア人民主化活動家を紹介してもらって、フィールドワーク最後の1ヶ月をジャカルタで過ごすことになった。わずか1ヶ月ではあったが、このジャカルタ滞在が僕の研究にとって極めて重要な現地調査となった。ということで次回はインドネシアで極左活動家にインタビューするの巻。。

 表紙の写真はレネティルの創設者たち。(https://neonmetin.info/buletin/2018/06/30/se-loos-mak-harii-renetil/)


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