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【神門レポート釧路FW編】「狂犬ツアー@釧路」の前に知っておきたい、釧路のコト。

明日から、「狂犬ツアー@釧路」が開催されます!
今回、初めての参加なのでワクワクしております。

せっかくの初ツアーでテンションが上がっているので、勢いのまま釧路について簡単にまとめておこうと思い立ちました。
「歴史」「人口」「経済・産業」の観点から釧路市を見ていこうと思います!

僕は、木下さんが発起人の「えぞ財団」という北海道経済コミュニティで、2022年の約1年間「北海道経済入門」という記事を連載していました。こちらは、データやファクトに基づ北海道経済の姿を解き明かしていく、という内容です。


このように、普段からデータに基づいた記事を書いてきているので、より狂犬ツアーを楽しめる内容になっていると思います。ぜひ読んでくださると嬉しいです!「サポート」もお待ちしております(笑)



◯ 釧路市の概要

早速、GoogleのBardさんに「釧路市の概要」について聞いてみました。(GPTより応答が速いのでストレスがかからないw)

釧路市は、北海道東部の太平洋沿岸にある市。
釧路総合振興局の振興局所在地。計量特定市に指定されている。

人口は17.47万人(2020年)で、北海道第4位。
面積は2,177.79km²で、北海道第8位。

釧路湿原国立公園や阿寒摩周国立公園などの国立公園があり、自然が豊か。また、釧路港は北海道第2位の規模を誇る。
主な産業は漁業、林業、観光業など。

釧路市には、釧路湿原国立公園、阿寒摩周国立公園、阿寒湖、釧路川、幣舞橋、釧路フィッシャーマンズワーフMOO、釧路市動物園、釧路市博物館、釧路市こども文化センターなど、多くの観光スポットがある。

釧路市は、自然と文化が豊かな、北海道を代表する都市の一つです。

うーん、やっぱり所々間違ってますね。
人間の力で、より詳しく釧路市を見ていきましょう!


◯ 釧路の歴史

釧路は、2022年に札幌市などと共に市制100周年を迎えました。
明治維新後に開拓が始まり、歴史が浅いと言われている北海道の中でも長い歴史をもつ都市の1つです。

釧路市は「道東」というエリアの中心都市ですが、明治初期は近くの根室が中心都市でした。釧路の発展は、「石炭産業・製紙産業」と「漁業」によって支えられました。

道東の主要都市


釧路の発展

釧路の発展を支えたのは、石炭と木材・製紙でした。

これには、釧路の地理的優位性が絡んでいます。どちらも港湾からの積出が必要ですが、釧路は産炭地・製紙工場から港湾までの距離が近いということが大きかったのです。また、製紙を製造する際には多くのエネルギーを必要としますが、現在でも石炭がその30%近くを占めています(日本製紙連合会、2021)。

そのため、石油が中心となる前は、①石炭が採掘でき、②そのまま近くの港湾から移出することができる、釧路市は石炭産業・製紙産業にとって大変優れた場所だったのです。

釧路の石炭産業は、1920(大正9)年に「太平洋炭礦(株)」が創業したことに始まります。同年、「富士製紙(現・日本製紙)」が進出したことで、製紙業が興りました。この2大産業を柱に人口増加が進み、1920年の5万人からピーク時の1980年には22.7万人まで人口が増加しました。

しかし、戦後のエネルギー転換により石炭産業が衰退するとともに、市全体も衰退していきます。

現在も太平洋炭礦(株)の後継である「コールマイン(株)」が石炭を採掘していますが、今では最盛期(1977年度)の261万トン/ 年と比較して、10%ほどの採掘量(27万トン、2020年)です。

そして、2021年には、大正9(1920)年から市の製紙産業を支えていた現・日本製紙が紙・パルプ事業を撤退し、残るは王子製紙のみ(1960〜)となっています。

漁業も釧路市の主幹産業でしたが年々漁獲高は減少し続けています。このように、釧路市の経済的基盤だった2大産業が衰退していくにつれて、釧路市も徐々にパワーを失っていきました。

釧路はこのような歴史を辿って今に至ります。

釧路・根室を中心としたより広域の「根釧エリア」については、僕が書いたこちらの記事も併せてご覧ください。


追記・釧路の合併史(6/10)

狂犬ツアー本番前日(9日)、「ラーメンたかはし」という創業50年の釧路ラーメンを食べてきました。店主の高橋さんは御年83歳で、釧路の栄枯盛衰をずっと体験してこられていて、食べ終わって30分ほどずっと話し込んでましたw

釧路での社会党+労働組合と市の施策の関係性など、めちゃめちゃ勉強になるお話だったのですが、この時に、釧路の歴史は「市長村合併の歴史」を抜きには語れないなとビビッと感じたので、簡単にまとめます!

引用:音別町商工会

地図を見てみると、釧路市って変な形をしてるんですよね。
飛地的に音別地区があって、釧路地区と阿寒地区が繋がっていて、すぐ横には同名の「釧路町」があります。これはなんかあったんだなと、すぐ思いますよね。

釧路の合併には大きく2つのイベントがありました。
1つ目は、大正9(1920)年の区制移行。
2つ目は、平成17(2005)年の大合併。

それぞれを軽く見ていきましょう。


大正9(1920)年の区制移行にまつわる話

引用:北海道ファンマガジン「なぜ釧路市と釧路町があるのか? その歴史に迫る

明治時代、日本全国的に市制に移行していくというムーブメントがあったのですが、北海道は時期尚早ということで見送られてきて、その代替として「区制」が設けられました。

明治21(1888)年、全国に「市町村制」が導入され、人口規模や経済が大きな都市は市町村に移行していく中、北海道のみは10年後の明治32(1899)年に「北海道区制」という北海道独自の制度が作られます。同年、札幌・函館・小樽は区制に移行しました。

区制に移行すると権限が強化されるなど、インセンティブがあったわけで、当時の主要都市、旭川・室蘭・釧路は、その3都市を見ながらすぐにでも区制に移行したいと思っていたのではないか。

実際、旭川は大正3(1914)年、室蘭は大正7(1918)年、釧路は大正9(1920)年に区制に移行しました。ただ、この区制移行が「釧路市」と「釧路町」に分かれてしまう遠因になったのです。

こちらの記事でうまく纏められているのですが、当時の「区」は本当にごく限られた地域だったのです。札幌区は現在の中央区よりも小さな面積で、それは釧路も例外ではありませんでした。そのため、旧・釧路町は中心部のみを釧路区にし、郊外を釧路村(現在の釧路町)にしたのです。

これが2005年の大合併にまで遺恨を残す結果となりました。


平成17(2005)年の大合併にまつわる話

釧路は大正9(1920)年に「釧路区」になり、その2年後には北海道にも市町村制が適用され、当時の区は市になりました。

釧路の発展史でも見ましたが、釧路は石炭・製紙・漁業で栄えたまちです。戦後は引揚者の影響もあり人口が急増し、1980年には22万人都市になりました。しかし、その後は失速していきます。ただ、それまでの全盛期の余韻を1989年にMOOができるまで引きずっていった、とみるのが適当なのかもしれません。

時代は平成に入り、「平成の大合併」が行われます。

この時、釧路市はまず因縁を抱えた「釧路町」と合併に関する協議会を設置し、のちに釧路市・釧路町・白糠町・鶴居村・阿寒町・音別町の6市町村で協議会を設置しました。

しかし、最初に釧路町が離脱し、その後鶴居村が住民アンケートの結果を重視し離脱し、白糠町も住民投票で反対が55%に達したので離脱したことで残りの3市町で合併をすることになり、2005年に新しい釧路市ができたのです。

そのため、現在の釧路市は変な形をしているんですね。結構こういうケースは全国的にあると思いますが、釧路の場合、お金が豊富な釧路町・鶴居村・白糠町が離脱し、お金があまりない自治体が一緒になったという感じです。

これらの合併・統合にまつわる年表が釧路市HPにあるので、気になる方はご覧ください。



◯ 釧路の人口

引用:釧路市(H27)「釧路市の人口分析と将来推計
引用:釧路市(H27)「釧路市の人口分析と将来推計

釧路の人口は1980年の22.7万人をピークに一貫して減少し、現在は16万人ほどです。人口ピラミッドの推移を見ると、人口がピーク時の1980年時点で、20-24歳の男女数が圧倒的に少ないことがわかります。これは、他の地方都市にも当てはまることで、この層は大学進学や就職で大都市に流出しているkとがほとんどです。

引用:釧路市(H27)「釧路市の人口分析と将来推計

北海道(90%以上が札幌市)や東京圏への流出が目立ちます。2012年だけ国外からの流入があるのがとても気になります。。。


さて、1980年から人口減少が始まった釧路市は、2018年に苫小牧市に、2021年には帯広市に人口で抜かされ、現在は道内で6番目に人口が多い都市となっています。

引用:pickle「帯広市の人口が釧路市と逆転、道内5位に!今後の推移はどうなる?

こう見ると、釧路市の人口減少スピードが帯広・苫小牧よりも格段に速いことが分かりますね。

ただ、これは釧路市に限った話ではありません。

引用:総務省「国勢調査」より筆者作成

これは札幌市を除いた道内主要都市の人口減少率の比較です。
減少率が大きな都市と、小さな都市の一番の違いは「石炭産業」に関連していたか否か、だと考えられます。

後の「経済・産業」の部分で詳述しますが、1960年代は北海道の石炭生産のピークで、1966年には全国の生産量の約50%ものシェアを占めていました。特に釧路の石炭生産量は1967年がピークで、それ以降は減少し続けています。

この石炭産業に支えられていた3大都市として小樽・室蘭・釧路が挙げられます。これらの都市は石炭の積出港としての役割を果たしていましたが、石炭が生産されなくなったらお役御免です。その煽りを受けて、人口減少がとてつもないスピードで進んでいきました。石炭に代わる次の産業を探さなければいけなかったわけですが、それに失敗してしまったのでしょう。

小樽市の人口推移 / 引用:小樽市人口ビジョン 
室蘭市の人口推移 / 引用:室蘭市人口ビジョン

小樽市と室蘭市の人口推移を見ると一目瞭然です。1970年代まではなんとか持ち堪えていますが、1980年代に入ってからは著しく減少し始めています。両都市の衰退は石炭の影響もありますが、港湾都市としての機能を苫小牧にほぼ全てもっていかれたということも大いに影響していますが、こちらはまたの機会に。

石炭の生産地だった釧路市は1980年まで人口増加が進んでいます。その要因は、次に見ていく「経済・産業」に隠されています。


◯ 釧路の経済・産業

釧路の経済・産業の概観

筆者作成

北海道全体のGRPは毎年20兆円ほどです。これは大阪市単体のGRPとほとんど同じです。経済の大きさだけでいうと、「大阪市=北海道」なんです。かなり意外。

そのうち、帯広・釧路・北見を含む道東地域は、GRPが3.6兆円で約18%もの規模を誇ります。そんな道東地域でも2番目に大きな都市である釧路市の市内総生産は6300億円近辺で維持されています。一人あたり市民所得はじわじわと増加していますが、全道平均との差はじわじわと広がっています。

引用:2019年度(令和元年度)市民経済計算
引用:2019年度(令和元年度)市民経済計算

産業構成比を見ると、第3次産業と第2次産業の割合が北海道平均よりも高く、第1次産業は低いことがわかります。産業構成比から内訳を見てみると、「卸売・小売業(13.0%)」、「製造業(12.4%)」、「保健衛生・社会事業(12.0%)」の構成比が高いです。かつての基盤産業であった石炭(鉱業)は0.6%、水産業は0.9%であり、既に産業構造は大きく転換したことがわかります。

引用:2019年度(令和元年度)市民経済計算
引用:2019年度(令和元年度)市民経済計算から筆者作成

最後に、釧路という都市を形成した「石炭」と「水産業」について詳しく見ていきましょう。

釧路の石炭産業

釧路が極めて優秀な産炭地である根拠として、「港湾との地理的な近さ」を以前挙げましたが、こちらの地図をみると一目瞭然かと思います。

引用:松本裕之(2014)「 日本における石炭採掘技術の現状〜釧路コールマインの現状と新たな展開〜

釧路以外の炭田は北海道の内地に多く分布しているため港湾にまで届ける必要性が出てきます。莫大なコストがかかるのですが、当時の明治政府としてはなんとしても北海道にはエネルギー供給地になってほしいという思惑がありました。だから鉄道がすぐにでも必要だったのです!

そこで、明治政府は開拓使を通じて莫大な国家予算を投じて、全国的もかなり早い明治13(1880)年には小樽の手宮-札幌間で仮営業を開始し、明治15(1882)年には手宮と産炭地である幌内との「官営幌内鉄道」が全通しました。日本における初めての鉄道開通が、明治5(1872)年の新橋-横浜間なので、極めて迅速なスピードで鉄道が開通されたのです。

つまり、北海道における鉄道の役割は本来旅客鉄道ではなく「貨物鉄道」であり、石炭を運ぶためのものということです。この歴史的な事実を知ると、現在のJR北海道の経営難にも頷けます。

話がそれましたが、釧路は地理的にかなり有利な採炭地であるため、実は2023年現在も石炭は採られ続けています。

以下の石炭生産量の比較を見ると、釧路では石炭産業が長く基幹産業だったことがわかります。1967〜74年のたった7年間で北海道全体の生産量は50%以上減少しているに対して、釧路での生産量は40%減少にとどまり、その後もほぼ同等の生産量を維持しています。

引用:松本裕之(2014)「 日本における石炭採掘技術の現状〜釧路コールマインの現状と新たな展開〜

このように、石炭産業は長らく釧路の経済を支え、製紙産業という大きな産業ができるきっかけにもなりましたが、エネルギーの世界的転換とともに今では昔ほどの勢いを失ってしまいました。


釧路の漁業

では、もう一つの基幹産業であった「水産業」はどうなのでしょうか?
下の図は、釧路漁港における取扱量と金額の推移です。

昭和40(1965)年から昭和52(1977)年まで、一気に取扱量が増加していますが、これはロシア沿岸まで獲りにいく「北洋漁業」が盛んになったことが大きな理由です。昭和44年から52年までの9年間は、水揚げ量が日本一でした。しかし、昭和52年に「200海里制限」が設定されたことにより一時的に減少しますが、釧路の近海でイワシが大量にとれるようになったため、昭和54(1979)年からは再び水揚げ量日本一になりました。その後取扱量は減少していきますが、1990年まで連続して日本一の漁獲量を誇る、まさに「漁業のまち」でした。(引用

しかし、1990年頃をピークに大幅な減少を続け、2022年はなんとピーク時の15%にまでしか達していません。金額面でも1980年頃を境にこちらも大きく減少し続け、ピーク時の10%ほどになっています。

引用:「令和4年 釧路市の水産

つまり、釧路市の主幹産業であった「石炭産業」と「水産業」は、人口がピークであった1980年頃を境に同時期に衰退し始めた、ということです。

ただ、漁獲量が減少しているのは釧路だけでなく、日本全域で見られている現象です。200海里制限が設定された後の1984年が日本全体の漁獲高のピークで、現在はその1/3程度になっています。

引用:「漁業生産量は30年間で半減、日本は世界で8位—水産白書

これにはいろいろな要因が挙げられていますが、乱獲が挙げられています。実際、世界的に日本以外の地域では漁獲量は増加する予想がなされています。

引用:「ノルウェーと比較すれば日本漁業の問題は浮き彫りに

こちらの記事が面白いのでご参考にしてください!


◯ まとめ

ここまで、「歴史」、「人口」、「経済・産業」から釧路市をざっくりと見てきました。明日からの狂犬ツアーでは、実際に歩いて、直にみてみると、数字からはわからないさまざまなことがわかってくると思います。

それでは、明日ご参加の方はよろしくお願いします!!!
もしサポートしていただけましたらとても嬉しいです。




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