「何かが起きる」ということへの期待について/「霧の淵」「PERFECT DAYS」
6月5日(水)
近日中、stand.fmを使ってゆるっとPodcast始めようと思ってます。
どうも、神門です。
ーーーーーーーーー
先週、大学の授業を途中で抜け出し小樽の坂を全力ダッシュして、「霧の淵」という映画を観てきました。
フライヤーへの一目惚れです。
撮影地は、奈良県の奥吉野川上村という山奥。
映画自体はとにかく映像が綺麗。
そして、画に寄り添う音楽もこの映画の世界観を醸成しており、日本の里山の美しさがこれでもかと表現されている、とても良い映画でした。好きになりました。
ただ、この映画を観ている時の自分は好きではなかった。
そこには、「何か」が起きることを期待する醜い自分がいたのです。
何かが起こる、というのは脳への刺激の一種です。
それを期待しながら映画を観るということは、脳がそれを自ずと欲しているということを意味する。
この映画は、別に何も起こりません。祖父のシゲがどこかに行くということは起こりますけど、言ったらそれくらいのもんです。だから、観る人にとっては退屈なのでしょう。
退屈を感じるということは、「せっかく映画を観るのだから何かしら起こって脳を刺激してほしい」という根源的な欲求があるということなど思います。
でも、別に何も起こらなくていいのではないか。
いつから、何かが起こってほしいと考えてしまうようになったのか。
映画を観終わり、帰路に着きながらこんなことを考えていました。
もう1つ、何も起こらない映画を紹介します。
1,2ヶ月前に話題になった、主演役所広司、監督ヴィム・ヴェンダースの「PERFECT DAYS」です。
主人公は都内のトイレ清掃員で、毎日決まった時間に起床し、缶コーヒーを飲み、植物に水をやり、決まった時間に寝る、という日常を繰り返している。
でも、映画を観ていると、なんだかそんな彼のことが異常にかっこよく見えてくる。家族はいない、金もそんなにない。「成功者」とカテゴライズされるような経済的指標と照らし合わせたら全くそんなことはないのに、毅然とした態度で毎日を生きている。そんな人間(架空ではあるが)が、自由主義経済の権化である東京で、流行りや世俗に迎合することなく生きている。
何も起きない日常だからこそ、深く感動したのだろうと感じました。
宝くじが当たる。運命の人と道端で出会う。
そんな「何か」が起きることを期待するよりも、日常をしっかりと生きていくことの大切さを噛み締めています。
追記(6月10日)
実際にPERFECT DAYSのロケ地に行ってきました。やっばり実物を見ると、来るものがありますね。
この記事が参加している募集
サポートお待ちしております!(笑) いただきましたサポートは、次の記事を書くための本や資料などに遣わせていただきます。