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「何かが起きる」ということへの期待について/「霧の淵」「PERFECT DAYS」

6月5日(水)
近日中、stand.fmを使ってゆるっとPodcast始めようと思ってます。
どうも、神門です。

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先週、大学の授業を途中で抜け出し小樽の坂を全力ダッシュして、「霧の淵」という映画を観てきました。

フライヤーへの一目惚れです。

https://kiri-no-fuchi.com/#modal

Story

奈良県南東部の山々に囲まれたある静かな集落。
かつては商店や旅館が軒を並べ、登山客などで賑わったこの集落で、代々旅館を営む家に生まれた12歳のイヒカ。

数年前から父は別居をしているが、母の咲は、父との結婚を機に嫁いだこの旅館を義理の父・シゲと切り盛りしている。

そんなある日、シゲが姿を消してしまう。
旅館存続の危機が迫る中、イヒカの家族に変化の時がやってくる――。

https://kiri-no-fuchi.com/#modal


撮影地は、奈良県の奥吉野川上村という山奥。

映画自体はとにかく映像が綺麗。
そして、画に寄り添う音楽もこの映画の世界観を醸成しており、日本の里山の美しさがこれでもかと表現されている、とても良い映画でした。好きになりました。

ただ、この映画を観ている時の自分は好きではなかった。

そこには、「何か」が起きることを期待する醜い自分がいたのです。


何かが起こる、というのは脳への刺激の一種です。
それを期待しながら映画を観るということは、脳がそれを自ずと欲しているということを意味する。

この映画は、別に何も起こりません。祖父のシゲがどこかに行くということは起こりますけど、言ったらそれくらいのもんです。だから、観る人にとっては退屈なのでしょう。

退屈を感じるということは、「せっかく映画を観るのだから何かしら起こって脳を刺激してほしい」という根源的な欲求があるということなど思います。

でも、別に何も起こらなくていいのではないか。
いつから、何かが起こってほしいと考えてしまうようになったのか。


映画を観終わり、帰路に着きながらこんなことを考えていました。



もう1つ、何も起こらない映画を紹介します。

1,2ヶ月前に話題になった、主演役所広司、監督ヴィム・ヴェンダースの「PERFECT DAYS」です。

https://eiga.com/movie/99306/

Story

ドイツの名匠ヴィム・ヴェンダースと
日本を代表する俳優 役所広司の美しきセッション。

フィクションの存在をドキュメントのように追う。
ドキュメントとフィクションを極めた
ヴェンダースにしか到達できない映画が生まれた。

カンヌ国際映画祭では、
ヴェンダースの最高傑作との呼び声も高く
世界80ヵ国の配給が決定。

こんなふうに生きていけたなら

東京・渋谷でトイレ清掃員として働く平山(役所広司)は、
静かに淡々とした日々を生きていた。
同じ時間に目覚め、同じように支度をし、同じように働いた。
その毎日は同じことの繰り返しに見えるかもしれないが、
同じ日は1日としてなく、
男は毎日を新しい日として生きていた。

その生き方は美しくすらあった。男は木々を愛していた。
木々がつくる木漏れ日に目を細めた。
そんな男の日々に思いがけない出来事がおきる。
それが男の過去を小さく揺らした。

https://www.perfectdays-movie.jp/story/


主人公は都内のトイレ清掃員で、毎日決まった時間に起床し、缶コーヒーを飲み、植物に水をやり、決まった時間に寝る、という日常を繰り返している。

でも、映画を観ていると、なんだかそんな彼のことが異常にかっこよく見えてくる。家族はいない、金もそんなにない。「成功者」とカテゴライズされるような経済的指標と照らし合わせたら全くそんなことはないのに、毅然とした態度で毎日を生きている。そんな人間(架空ではあるが)が、自由主義経済の権化である東京で、流行りや世俗に迎合することなく生きている。

何も起きない日常だからこそ、深く感動したのだろうと感じました。


宝くじが当たる。運命の人と道端で出会う。

そんな「何か」が起きることを期待するよりも、日常をしっかりと生きていくことの大切さを噛み締めています。



追記(6月10日)

実際にPERFECT DAYSのロケ地に行ってきました。やっばり実物を見ると、来るものがありますね。

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