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「何もしない」ことの難しさよ

どうもこんにちは。

一周回った「湯治」のブーム

最近ネットニュースで、「湯治」が密かなブームになっているということを知りました。

湯治。
言葉としては知っていますが、あまり身近なイメージは湧かないです。

どことなく昔の武将とか文学者とかが温泉地に長逗留して、何かを書いたり散歩したりしながら時間を過ごす。

時間と余裕があった古き良き時代の話というイメージでした。

しかし現代の「湯治」は、あえてそういうオールドスタイルの温泉の楽しみ方を復権させようとしているような試みのようです。

期間は数日間でもいい。
その間温泉宿に滞在して、日に何回か温泉に浸かる。
それ以外は何もしない。部屋でゴロゴロしたり、眠ったり。
できるだけスマホやSNSからも距離を置く。
時間が来たらご飯を食べて、またゴロゴロする。

そんな形で時間を過ごすことで、日々の忙しい生活の中で見失っていた自分の本当の気持ちに気づいたり、自分が日常の中でいかに疲れ切っていたのかを知ったり、することができる。

技術の発達によりいつでもどこでも、何とでも繋がることができるようになったが故に失ってしまったものを、取り戻すことができる。

そういったところが、一周回って現代の「湯治」の魅力として注目されているのだそうで。

「何もしない」ことが実は難しい

なるほどなーと感じると同時に、素朴な疑問が。

それって要するに、スマホを置いて、「何もしない」ということでしょ。
「何もしない」ことって、別にどこでもできるのではないの?
なにしろ「何もしない」のだから、特別な環境や準備なんて、必要ないのではないの?

しかしさらに考えてみると、「何もしない」ということは、実はとても難しいことなのではないか、ということ。

自分の身を振り返ってみる。

平日は当然仕事に大半の時間を使っており、それ以外の時間は生命維持(食べる、寝る、家の環境を維持する)に費やす。貴重な空き時間には趣味や息抜きを詰め込む。

じゃあ休日は、というとこれも「何もしない」からは程遠い。

ただ「仕事が休み」というだけで、「やっておきたいこと」はむしろ休日の方がたくさんある。

食材が切れているから買い物に行かないと。
本を読みたいから図書館に行こう。
習慣にしているから筋トレをしないと。
noteも書いておきたい。
最近母親の体調がイマイチだから顔を見に行くか。
あのゲームもそろそろクリアしておきたい。

内容は人によって違うと思いますが、いずれにせよ気が付けば、「やっておきたいこと」だらけになっている。

仕事ではないのでストレスのたまり方や疲労のたまり方は違うかと思いますが、場合によっては平日よりも休日の方が細かいタイムスケジュールになっているという人もいるのではないでしょうか。

「何か」に追い立てられる毎日

かと言って、仮に「今日は何もしないぞ」と思ったとしても、どうしても上に書いたような「やっておきたいこと」が頭をもたげてくる。

やっておきたいことをやっておかないと、時間がもったいない。
「これもやっておかないといけないんじゃない?」
「ダラダラ時間を過ごすのではなく、休日も生産性を意識した方がいいんじゃないの?」
そんな思いがどうしても湧いてきてしまう。
なんとも貧乏臭い話です。

そんなわけで想像以上に僕たちにとって「何もしない」ことというのは、その見た目とは裏腹に「難しいこと」であるような気がしてきました。

年中こんな形で「やっておきたいこと」の内なる声に追い立てられているようでは、気が休まらないのも無理はないのかもしれません。

これはいつか一念発起して僕も「湯治」を体験してみようかしら。
思いの外、ハマってしまうかもしれません。

今日は以上です。
ありがとうございました。

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