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狭い世界と大きな主語

どうもこんにちは。

僕の祖母の思い出

僕の父方の祖母はもう亡くなっていますが、生前はなかなかの健啖家でトンカツが大好物。そのせいもあってかだいぶ長生きしました。
また地方の名家に育ったこともあり、死ぬまでどことなく世間知らずというか、素朴な世界観に生きていたような人でもあったと思います。

そんな祖母の言葉で僕がよく覚えている言葉があります。
「トンカツが嫌いな人なんているのかしら」
「おじいちゃん(夫)も息子も周りにも、浮気している人なんて見たことない。浮気なんてする男の人はいないんじゃないかしら」

もちろん祖母の言葉はおそらく真実ではない。
この世にはトンカツが嫌いな人もいるでしょうし、残念ながら浮気をする人もたくさんいます。

しかし祖母の目に映る世界の中では、そんな人はいなかったということでしょう。

狭い世界を大きな主語で語る


今の話は祖母にまつわるある種微笑ましいエピソードの一つに過ぎません。

しかし実は僕たちも気が付かないうちに自分が見ている狭い範囲のことを、万人に共通の事象であったり普遍的なものであるかのように語ってしまうことが多いように思います。

たとえば会社に勤めていて、仕事をサボりがちな中高年のオジサンがいて、みんなの士気を下げている。
隣の課の同期たちと話していたら、同期の課にもそういうオジサンがいるらしい。

そういう経験を数回した人が、「日本では中高年社員の既得権益が聖域化している」「日本は雇用の流動性が低いからいけない」というようなことを言い出したりする。

実際には、自分の経験はある一つの会社のある一つの視点に閉じた話なのかもしれないのに。

会社に入ってきた新入社員が無口でホウレンソウがきちんとできない、こちらの期待に沿った動きをしてくれない。

そういう経験を何度かした人が、「Z世代の理解できない行動様式」について語ったりする。

自分の狭い範囲での経験や知見をもとに話しているにも関わらず、急に主語が大きくなってしまうのです。

人間が認識できる人の数は思っているより少ない

人間が実際に顔を思い浮かべて認識できる人の数というのは実際には数十人が限界だという話を聞いたことがあります。

人間は原始時代には数十人規模のコミュニティの中で生まれ、そのコミュニティから出ることもなく死んでいった。
その時代の名残なのだそうです。

ある登録者が数十万人もいるYouTuberの方が言っていました。
「正直、動画を作って色々話しているときも、数十万人に向けて語っているという意識はない。思い浮かべるのは身の回りや知っている人など数十人か、せいぜい100人くらいの人達をイメージして作っている」

現在はインターネットの進化により、個人の言葉が全世界に対して発信される世の中です。

そんな中で、自分自身だけの経験・知見をもとに「日本では」「男は」「女は」「中高年は」「Z世代は」と大きな主語で語る言葉があふれており、そしてその言葉同士がしょっちゅう衝突しています。

「男性は**だから**だ」に対して「そんな男性ばかりじゃない!」という反論が現れ、対立する。

客観的に見れば、前者の意見と後者の意見はそもそも前提としている「男性」の像が食い違っているのに、主語が大きい故に話がかみ合わない。

そういう行き違いが多く見られるような気がします。

言葉というのは個別具体的な事象を抽象化・汎化して取り扱うことを可能にします。
でも、我々が立脚している経験・知見というのは自分たちが思っている以上に狭く、限定的で、バイアスにあふれています。

大きな主語を使いたくなった場合、せめてその事実を認識して謙虚な姿勢を持つべきだなと最近感じます。

今日は以上です。
ありがとうございました。

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