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「可処分時間」という言葉に世知辛さを感じる

どうもこんにちわ。崇(たかし)です。
今日は「可処分時間という言葉に世知辛さを感じる」という話です。

最近よく目にする「可処分時間」という言葉

いつの頃からか、ネット上などで「可処分時間」という見慣れない言葉を目にするようになりました。

もともとは経済学の用語だった「可処分所得(所得から税金・保険料等を引いた手取り)」を時間に置き換えたのが「可処分時間」だそうです。

つまり、仕事や学業、家事など以外の「自分で自由に使える時間」のことを差します。

この概念が重要になるのは主にWebメディアやソシャゲなどの「BtoC」のサービスにおいてです。
こうしたサービスは存続のためにぼくたちユーザーに利用してもらわなければいけません。
利用されないサービスには存在価値はありません。それらのサービスが利用されることで、ぼくたちが広告を目にしたり、課金したりする機会が生まれるからです。

こうしたことを背景に「ITサービスがユーザーの可処分時間を奪い合っている」というような言説がよく見られるようになりました。

その奪い合いの結果として、たとえば「動画の短尺化」という現象があります。TikTokが流行し、Youtubeも「short動画」を始めましたね。普通のYoutube動画でも倍速で視聴する人も多い。

またInstagramなどもそうですが、全体的に「頭を使わなくてもパッとわかる」「見た目のインパクトがある」という方向性に向かっている印象があります。

これらは全てぼくたちの「可処分時間」を何とか奪取するための対策なんですね。
おそらくITサービスが全体的に飽和化していることを示しているんだと思います。

世知辛さを感じる

ぼくは、この「可処分時間」という言葉が実はあまり好きではありません。

ぼくが家に帰ってから何をしたって別にいいじゃん、と思ってしまう。
なんというか、非常にパーソナルな部分に土足で踏み入られているような気持ちになり、「世知辛いなぁ」と感じてしまうのです。

そもそもこの「可処分時間」がなぜ最近になってフォーカスされているのでしょうか。
昔から、人は帰宅してからテレビを見たり本を読んだりクロスワードパズルをしたり楽器を弾いたりしていたわけですが、出版業界がテレビと「時間を奪い合っている」、というような言い方はぼくの知る限り聞いた記憶がないです。

それが最近になってフォーカスされている理由は、ぼくの考えでは以下の2点です。

①各自の時間の過ごし方がパーソナライズされてきたから
昔はテレビが「マス」として機能していたので、ある程度「みんなが同じテレビを見ている」という社会が成立していました。

現在は違いますよね。Youtubeを見る、SNSを見る、Netflixを見る、ソシャゲをやる、TV番組の見直し配信を見る。

選択肢が多様化し、各自が「自分の好きなものだけ」を選ぶ、という時間の過ごし方が定着しているのです。
だからこそ、「選んでもらう」ことの重要性が増しているのです。

②時間の過ごし方が全てデジタル的にトラッキングされているから
昔は「人が一日に何分読書しているか」なんて、調べようがありませんでした。
いまは、ぼくたちが消費するコンテンツの利用時間は全てトラッキングされています。
アクティブユーザーがどれだけいるか。どのコンテンツがどれだけ視聴されているか。課金率はどうなっているか。全ての情報がサービス提供側には可視化されています。
だからこそ、売上を上げるためには「もっとユーザー数を増やそう」という話になり、他サービスと時間を「奪い合う」という構図になるんだと思います。

スマホが生み出した状況

で、こう書いていくとこれら二つの要因を生み出しているのって、要は「スマホ」なんですよね。
ぼくが感じる「世知辛さ」は、スマホによって生み出される「便利さ」「手軽さ」の負の側面、ということになりそうです。

かといって、今さらスマホを手放すわけにもいかないですよね。
人間は、いちど味わった「便利さ」「手軽さ」を容易には手放せない生き物です。

この流れはきっと止めることはできないのだと思います。
止める必要もないのかもしれません。

ただ、個人的にはそこに「世知辛さ」を感じる感覚は失いたくなぁと思っています。
ITコンサルタントとしては失格なのかもしれませんが・・・。

とりあえずこのnoteを書いたら、ぼくはまた図書館に行きます。
トラッキングされないアナログ書籍を読むために。

今日は以上です。
ありがとうございました。

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