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赤い靴の女の子

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう (抜粋)
                   作詞 野口雨情 大正11年

明治38年
わずか3歳のきみは、母かよと別れ
異人さんにつれられ船にのり函館をはなれた

旧桟橋(東浜桟橋)ちかくに
赤い靴の少女像「きみちゃんの像」がある

赤い靴の少女像「きみちゃんの像」 港をのぞむ               函館  2021


 
母かよは
静岡から娘きみをつれて函館に渡ってきた
そして、まもなく結婚する
青森生れの鈴木志郎が待つ
留寿都村の開拓農場へむかった
 
きみは体がよわく開拓暮らしには無理と
断腸の思いで
日本基督教団函館教会の
牧師ヒューエット夫妻にあずけた
 
村の開拓農場は解散となり
鈴木父母は札幌に出て鈴木は新聞記者となり

そこで、石川啄木と野口雨情と出会った

その縁で幼くして手放した娘きみへの思いを
野口は知り、詩「赤い靴」が生まれる

少女像のかたわらに「赤い靴童謡」歌碑                     2021


 
幼子きみをあずかった宣教師ヒューエットは東京へ
さらに米国へ帰任することになった

重い結核におかされたきみには長い船旅は困難と
東京・麻布にある鳥居坂教会の孤児院に引き取られた

そのあと、明治44年
9歳で旅立ち東京・青山墓地にねむる

港内より旧桟橋を望む きみちゃんはここから船に乗った         函館市中央図書館蔵


 
父・鈴木は、札幌のあと
啄木、野口とともに小樽日報の記者となった
だが、廃刊となり、啄木は釧路へ去り
父母は留寿都村に帰農
のちに小樽へ移っている
 
昭和48年
きみの異父妹・岡そのが
「幻の姉ー赤い靴の女の子」の一文を
地元紙に寄せている

それによれば
きみが異人さんにつれられ米国へわたり
そこで数年後に死亡したと風の便りで知った、と

遠い国で亡くなった風の便りと
東京で亡くなった現実との落差……

現在の旧桟橋                              2022

お母さんに会いたい、会いたいと願っていた
きみちゃんの短く薄幸の一生に思いをよせて
「赤い靴の女の子」像は、全国各地にある
 
 
 
 
 
 

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