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函館駅前の蕎麦屋、丸南本店。 甘く香ばしいそば味噌と 冷酒で一杯やれば 憂さも暑さも何処へやら。 どんどん盃はすすむ。 初代大山マキが 東京・神田の店を たたんで北へ向かい、 港町の函館で 1891(明治24)年開業して 130年あまりとなる。 大波小波をのりこえ、 いま五代目の若き大山紘生が、 のれんを守る。 時を重ねてきた このそば屋には、 さまざまな書が 所蔵されている。 架け替えられるたびに、 何と読み何と解釈するのか、 頭をひねる楽しさ、 否、難儀がある。
A5ランクの米沢牛を山形の産地で味わったことがある。 たしかに柔らかくうまかったが、 これなら大沼牛も負けていないな、と。 冬ともなれば、山頂からふもとまで ノンストップで2本ほど滑って 大沼のスキー場をあとに、 湖畔の雪にうもれた丸太小屋、 ランバーハウスに急ぐ。 そこで、地元産の大沼牛のビフテキに 食らいつくのだ。 素材の旨味、 甘みをひきだした シンプルな ここのステーキ。 米沢牛にくらべて歯ごたえがある。 肉を食べている実感がある。 肉のうまさは、等級だけではな
アメリカの捕鯨船が水や薪をもとめ蝦夷地の近海にあらわれ、 露、英などの軍艦が通商を要求して鎖国の扉をたたいた。 が、扉はひらかれなかった。 ペリーの黒船が江戸城をのぞむ湾ふかくに侵入。 一発の砲弾を打たぬも威嚇され、 仰天した幕府は鎖国の扉をあけた。 1854(安政元)年、開港場となった箱館で、 ペリーは足跡をのこしている。 ペリーが来ると知った 箱館は、てんやわんやのおお騒ぎ。 お触書、「女と子供は外に出すな」「外出はするな」 「海に近寄るな」「居酒屋の営業は禁止」……
わっと歓声があがった。 一瞬、どこの国の言葉か分からない。 パチパチ弾く線香花火であそぶ ベラルーシの子供たちであった。 ここ函館ハリストス正教会の信徒会館で ひと夏をすごすうちにみるみる元気になった。 37年まえ、1986年4月26日。 ウクライナのチェルノブイリ原発4号炉が爆発。 ヘリコプターから大量の砂、鉛などが投下され、 原子炉をコンクリートで覆う石棺化により ひとまずは放射能を封じこめた。 だが、その間に放射能は風に乗り、 世界各地で、 およそ8000キロはなれ
冬が近くなり函館・湯の川温泉にあるサル山温泉に遊んだ。 函館弁で“なまら、あずましい”とは、とても気持ちがよいの意。 それもそうだ。 サル山温泉は、なんと源泉かけ流しなのだ。 長く入りすぎてボーとした顔の猿もいる。 およそ90頭の猿が暮らし、力がつよく思いやりがあり、 人望ならぬ猿望があるのが、サル山のボスとなる。 歴代ボスのなかで「函助」は、 えばり散らさず仲間の信頼をきずき、 25年もの間、君臨して、 人間でいえば100歳で大往生した。 その日一日、サル山
学生のころ、函館駅前の柳小路で、 フィズ類を口あたりの良さについ総なめにして、 二日酔いならぬ三日酔いとなった。 ジンフィスにはじまりモカ、バナナ……。もちろん腰がぬけた。 函館が北洋の鮭鱒景気にわき、この通りも夜ともなれば 千鳥足がそこかしこ、遠い昔のことになる。 柳の葉がゆれるこの柳小路で昭和の最盛期、果物屋のバナナ倉庫だった建物を借りて開業した老舗バー、舶来居酒屋・杉の子。 2年ほどまえ再開発のあおりで近くに移転したが、 今も60年あまりの時をきざんで健在だ。
現役最古参の市電は、いまだに窓枠が木製だ。 この製造から70年ほどの電車に乗れば、 高校生のころのわが姿が目に浮かぶ。 朝は、イワシの缶詰みたいにすし詰めの電車で登校した。 函館名物の大火、函館ドック、鮭鱒の北洋漁業、イカ釣り、青函連絡船、赤レンガ倉庫、新幹線……。 この港町の栄枯盛衰を見守りつづけた 市電は、1897(明治30)年、馬車鉄道を起源に開業。 それから125年あまりとなる。 1907(明治40)年、岩手から函館にやってきた石川啄木も 市電に乗ったにちが
一口食べると磯の香がひろがる。 さらに二段重ねて口にいれると美味い! 箸がすすむ、すすむ。 弁当ひとつ、一気に食べてしまった。 松前「海苔だんだん弁当」。 函館から車で西へ 2 時間ほどの津軽海峡の町・松前。 冬、寒風の下、漁師のおかみさんたちが、荒波に洗われた岩場で岩海苔をひとつひとつ手で摘み、すだれで天日干しに。 量が少なく、地元で食べられてしまうので、“幻の岩海苔”といわれる。 そのなかでも 1~2 月に採れる海苔は味がよく、“寒海苔”として珍重される。 老舗
函館のジャズスポットBOP-バップ。 ニューヨークから里帰りした 若き日のジャズピアニスト秋吉敏子が、 サインしたートイレの扉がある。 さらにジョン・コルトレーン直筆のサイン入り写真も。 東京公演の楽屋に、店主・松浦善治さんが きびしい警備を突破してもぐりこみ、 ぽつねんと座っていた巨匠に書いてもらったのだ。 翌年、コルトレーンは世を去った。 全国のジャズファンとプレイヤーの血をさわがせた BOPは、火事で焼けだされた。 ファンの後押しで別なところで再開し、半世紀
第二次大戦が終わり食糧難のころ、 近郊の農家のひとが函館駅前、青函連絡船桟橋のそばで、 野菜を立売りして始まった朝市。 はじめはヤミ市。 魚屋、さらに青森から連絡船でかよう米のかつぎやも現われ 市民の台所となり、やがてメロン、カニも商って観光客が加わった。 朝早く収穫した新鮮な野菜を地べたで売る風情は、朝市そのもの。 男爵いもを茹でるたびに、 白い手ぬぐいで頬かぶりしたお爺ちゃんが売ってくれた、 美味かったじゃがいもを思い出す。 今、朝市には、250軒ほどのお店が軒