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携帯電話データで示す自然の価値

コロナ禍でにわかに世界の注目を集めている「携帯電話データ」、つい先日、Natureにおいても論文が出版された。

日本においても「モバイル空間統計(NTTドコモ)」、「位置情報ビッグデータ(KDDI)」、「流動人口データ(ソフトバンク: agoop)」等の解析が急速に進められている。

しかし、これまで携帯電話データその膨大かつユニークな情報にも関わらず、政策・施策への応用は極めて限られてきた。

そこで携帯電話データの解析に取り組んだことのある研究者の1人として、携帯電話データを応用した研究事例やその可能性、課題などをnoteで紹介していきたい。

まず手始めに本記事では私が「モバイル空間統計」を用いて実施した研究について紹介する。なお、本記事は月刊誌「統計」の原稿を元にしたものであり、前半は環境経済学における「環境価値評価手法」の説明になっていることは申し添えておく。また論文自体はTourism managementにおいて無料閲覧が可能である。

自然の恵みに値段をつける
―ICT技術で切り開く環境価値評価手法の新たな展開―

はじめに

自然は我々にとってなくてはならないものである。誰しもがそこには異論はないだろう。我々の生活は大気や水に支えられているし、食料や住居も生物多様性の上に成り立っている。また、たとえ生活に直結していなかったとしても我々は自然からの恩恵を日々享受している。登山や海水浴にでかけることで余暇を満喫することもできるし、様々な生きものが生息しているこの地球に何かしらの価値を感じずにはいられないだろう。
このように我々は多様な自然環境から多岐に亘る恵みを受けて生活しているが、その恵みの大半は市場を通じて取り引きされることはない。そのため、市場経済においては自然がタダであるかのように扱われ、市場価格がついているモノやサービスよりも軽視されてしまうことがある。
価値があるのに市場価格がない自然、そのギャップを埋め、自然にあえて値段をつけようという学問分野が環境経済学における一分野「環境価値評価」もしくは「環境評価」である。
本稿ではまず環境価値評価及びその評価手法である環境価値評価手法について概要を紹介する。その後、ICT技術による環境価値評価分野の発展の可能性について先行研究を交えながら概観した上で、携帯電話ネットワークによる位置情報ビッグデータを環境価値評価手法に適用した最先端の研究を紹介する。 


環境価値評価と環境価値評価手法

環境価値評価の本題に入る前に、自然にはどのような価値があるのか整理しておこう。下記の図は環境価値とその評価手法の対応を示したものである。このように、環境経済学において自然環境の価値は大きく「利用価値」と「非利用価値」の2つに分けることができる。

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利用価値は名前の通り、人々が利用することのできる自然の恵みである。森林を例に考えると、木材や山菜は人々が資源として直接採取し、建築や料理に使うことができる。そのため、ここから得られる便益は「直接利用価値」として定義される。一方、利用価値においても直接資源を採取しないレクリエーションや観光利用があり、こちらは「間接利用価値」と呼ばれる。また、将来的に直接ないしは間接的に森林環境を利用できることが担保されることから得られる「オプション価値」と呼ばれる価値もある。
一方、自然には自分たちが利用しなくても享受することのできる価値、「非利用価値」が存在する。利用価値と同様に森林を例にすると、生きものが生息する豊かな森林生態系はそこにあるだけで価値があると見なすことに違和感はないだろう。これを「存在価値」と呼ぶ。また自分自身が享受するものではないが、将来世代のために残すべきである生物多様性や生態系の価値を「遺産価値」と呼ぶ。
このように自然環境には利用価値と非利用価値があり、本来は両者を合わせたものを自然環境の価値として評価するべきである。しかし、実際に我々が生活している市場経済において自然環境の価値が評価される場は限られており、往々にして過小評価されてきた。そのため、自然環境の維持管理には市場機能が発揮されず、経済の発展とともに多くの自然環境が犠牲になってきたのである。
このような多岐に亘る自然の恵みの価値を市場で捉え直すための手法が「環境価値評価手法」、もしくは「環境評価手法」である。環境価値評価手法には人々の行動や実際の市場価格を参考に自然の価値を推し測る顕示選好法「Revealed Preference Methods」と人々に価値を尋ねることで価値を明らかにする表明選好法「Stated Preference Methods」がある。前者には代替法、トラベルコスト法、ヘドニック法が、後者には仮想評価法、コンジョイント分析(選択型実験、ベスト・ワースト・スケーリングなど)がある。本稿では紙面の関係から手法の詳細については説明しないが、上の図に示した通り、表明選好法はすべての価値の評価に適用できる特徴がある一方、顕示選好法は人々の実際の行動に基づいて価値を算出するため表明選好法よりも信頼性が高いと言われている。そのため、表明選好法、顕示選好法のいずれも適用できる場合には、顕示選好法が優先される場合が多い。しかしながら、実際には人々の行動を直接把握することは困難であり、顕示選好法においてもアンケート調査やインタビュー調査によるデータ収集が行われてきた。そのため、表明選好法と同様に調査費用等がかかる、回答者に偏りが生じる、回答に偽りがある等、評価を実施する上で様々な課題を抱えてきた。

ビッグデータを活用した環境価値評価

昨今のICT技術・テクノロジーの急速な発展はアンケート調査やインタビュー調査を経ずして、人々の行動を“ビッグデータ”として収集することを可能にした。環境価値評価にビッグデータを統合した研究はまだ僅かではあるが、膨大な行動データに支えられた環境価値評価研究はアンケート調査やインタビュー調査によるバイアスを乗り越え、新たな時代の到来を予感させるものである。筆者が知る限りビッグデータを用いた環境価値評価研究はデータの種類に基づいて3つに分けることができる。1つ目はアメリカ・コーネル大学の鳥類学研究所Cornell Lab of Ornithologyが運営する野鳥記録データベース“eBird”に蓄積されているバードウォッチングに関する情報を用いた研究(Kolstoe and Cameron 2017)、2つ目は写真共有サイト“Flickr”上にあるジオタグ付きの写真を用いた研究(Ghermandi 2018; Sinclair et al. 2018)、そして3つ目は日本のNTTドコモ社が提供する携帯電話ネットワークデータで構築された“モバイル空間統計”を活用した研究である(Kubo et al. 2020)。本稿では筆者らが実施した3つ目の研究について報告するが、その前にそれ以外の研究についても概要を紹介するとともに、それらのデータを利用した際に生じる環境価値評価研究の課題についても指摘しておきたい。
まず、Kolstoe and Cameron (2017)は、バードウォッチングに関する市民調査型のデータベースeBirdを活用し、バードウォッチングの行動履歴にトラベルコスト法を適用した。市民調査型の膨大なデータを利用することでこれまでのアンケート調査等では困難であった広範囲におけるバードウォッチングの価値を属性ごとに把握した。一方、eBirdはあくまでもバードウォッチャーが自主的に登録したバードウォッチング情報を蓄積・提供しているに過ぎず、純粋な顕示選好データとは言えない点、登録しているバードウォッチャーにも少なからず属性に偏りがある点には注意しなければならない。その意味で既存のアンケート調査等で課題となる調査費用の問題は解決したものの、明らかにした価値の信頼性や妥当性については今後の研究が待たれるだろう。
続いて、Ghermandi等が実施した写真共有サイトFlickrの写真情報を用いてトラベルコスト法を適用した一連の研究を紹介したい(Ghermandi 2018; Sinclair et al. 2018)。Ghermandi(2018)は世界各地の主要な人工湿地を対象にレクリエーション便益を評価し、費用便益分析を実施した。また、Sinclair et al.(2018)はインドのある湿地(Vembanad lake)におけるレクリエーション価値を評価するとともに、レクリエーション需要と水質の関係について考察を行なっている。トラベルコスト法ではレクリエーション価値の推定に目的地(レクリエーション地域)情報と居住地情報の両方が必要であり、Flickrでは居住地の情報が登録されていない利用者が多く含まれているが、先行研究では推定した居住地情報に基づいてトラベルコスト法を適用している点が特徴的である。
このように先行研究はいずれもWEBクラウド上に投稿されたビッグデータ(eBirdとFlickr)をトラベルコスト法に応用したものである。両データともにサービスの利用者が自主的に登録するものであり、アンケート調査やインタビュー調査以上にサンプリング・バイアスの影響を受ける可能性を否定できない。環境価値評価の文脈ではまだこれらの調査を比較した研究はないが、観光や生態系サービスの文脈においてはSocial Network Service(SNS)等から得られる知見と既存調査手法で得られた知見には様々な違いが存在することが既に指摘されている(Tenkanen et al. 2017)。今後はそれらのSNS等を用いた研究事例から得られる知見も参考に環境価値評価研究を発展させていくとともに(Ilieva & McPhearson 2018)、直接人々の行動を把握する新たなビッグデータの利用についても検討していく必要がある。

位置情報ビッグデータを活用した沿岸レクリエーション価値の評価

研究目的と問題意識
本章では携帯電話ネットワークデータをトラベルコスト法に応用することで、日本全国の沿岸レクリエーション価値を同時に多地点かつ高解像度で明らかにした研究を報告する(Kubo et al. 2020)。また、同研究では現在の沿岸レクリエーション価値を推定した後、気候変動下で生じる海面上昇の予測に沿って、気候変動下での価値変化も予測している。発展的な内容とはなるが、本稿では同予測についても合わせて報告する。
海水浴などに代表される沿岸レクリエーションは生態系サービスの中でも大きな便益を人々に提供している。しかし、気候変動下での海面上昇等によって今後最も影響を受ける脆弱なサービスの1つであり、喫緊の対策が求められている。100年を超える沿岸ツーリズムの歴史を有する我が国では、近年においても年間約1億人が海水浴場でのレクリエーションを楽しんでいると言われており、今後気候変動で生じる沿岸環境の変化は人々の行動・福祉にも甚大な影響をもたらすと予測される。そのため、政策決定者らは気候変動による影響を地域レベルで詳細に予測するとともに、地域の実情等を鑑みた上で養浜をはじめとした対策を講じるかどうかの意思決定を求められている。しかし、先に述べた通り沿岸レクリエーションも他の自然環境と同様に市場価格がついていないため、その価値は軽んじられ、レクリエーションを支える沿岸環境の維持管理はないがしろにされている可能性がある。
このような背景を踏まえ、環境価値評価は重要な役割を果たすことが期待されているが、既存の環境価値評価手法では調査費用等の関係から一度の調査では限られた地域しか評価できず、価値に基づいて政策等の優先順位を国土スケールで議論することは不可能であった。予算や時間といった制約がある中、どのような政策・施策から順に講じていくのか、その意思決定のベースとなる科学的知見を提供することを念頭に本研究では環境価値評価に携帯電話ビッグデータを応用して価値評価に取り組んだ。

携帯電話から得られる位置情報ビッグデータ
本節では本研究で用いた携帯電話ビッグデータについて概観する。同データは日本の大手携帯電話会社NTTドコモが提供しており、モバイル空間統計と呼ばれている。このデータは、NTTドコモが最小500×500平方メートルで構成される全国のグリッド(地域)において、人々が何人滞在しているかを推計した時間あたりの人口であり、推計においては携帯電話の市場シェアが考慮されている。このデータは電気通信サービスを提供する過程で発生する運用データに基づいているため、SNS等を用いた先行研究のように利用者の投稿意欲等によるサンプリング・バイアスは殆ど生じない利点がある。また、同データが提供する情報は各グリッドの集計値(集約データ)となっており、個人のプライバシーに配慮した形となっているが、集計値における性別、年齢、居住地域に関する情報が割合として含まれている。そのため、個人情報には配慮しながらもゾーン・トラベルコスト法が適用できる利点がある。しかし、10人未満のグリッドについては秘匿処理が行われデータにアクセスできないため、レクリエーション利用を過小評価している可能性については注意を要する。既存研究には同データを用いて人々の動態を評価し都市計画等に応用している事例が散見されるが、人間の福祉や経済的価値の推定に活用した研究は本研究がはじめてである。データに関する詳しい説明や環境価値評価以外の応用事例についてはNTTドコモによるレポートを参照されたい。

位置情報ビッグデータを用いたトラベルコスト法の適用
本研究では、環境省の水浴場水質測定データに基づき、全国536地点の砂浜(海水浴場)を選定し、夏季と冬季の砂浜のレクリエーション価値の推定を試みた。まず、夏季と冬季、各々ある1日の携帯電話から得られる位置情報ビッグデータ(ドコモ社モバイル空間統計)を活用し、各砂浜における訪問者数と訪問者の居住地の情報を取得した。
ゾーン・トラベルコスト法の推定においては訪問率を非説明変数、旅費を説明変数とする片対数モデルを採用した。この場合、消費者余剰は「-1/(レクリエーション需要曲線の傾き)」となる望ましい性質が存在することが広く知られている。

沿岸レクリエーションに関する各砂浜の消費者余剰と経済価値
回帰分析の結果、夏202地点、冬72地点の消費者余剰が示された。なお、本研究では統計的有意性によるサイトの絞り込みを行っていない点については注意を有する。砂浜訪問から観光客が享受する消費者余剰、つまり各人が砂浜を1回訪問することで得られる便益は夏冬の平均値がそれぞれ2,823円と1,004円、同様に夏冬の中央値がそれぞれ870円と192円であった。この結果は沿岸レクリエーション価値を扱った先行研究と大きく乖離しておらず(Zhang et al. 2015)、本アプローチが一定の妥当性を有していることを示している。一方、本研究では同時に多地点の評価を行うことで、我が国においても沿岸レクリエーションから得られる消費者余剰には地域間でばらつきがあることが示された。

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また、消費者余剰に訪問者数を乗ずることで砂浜ごとの金銭価値を計算することができる。今回は1日の訪問人数が一定であるとの仮定をおき、モバイル空間統計で得られている該当日の訪問者数を消費者余剰に乗じることで夏と冬、各日の砂浜価値を計算した。その結果、全国の砂浜価値は、夏は4,865円から36,136,364円、冬は1,684円から19,842,105円となることが示された。

海面上昇による沿岸レクリエーション価値の消失
続いて、各砂浜における気候変動下でのレクリエーション価値を予測する。ここでは気候変動予測シナリオを用いてUdo and Takeda(2017)が行った砂浜消失予測に基づいてレクリエーション価値の変化を予測している。また、レクリエーション価値の予測には砂浜面積の消失とレクリエーション価値の消失が相関するものと仮定している。なお、気候変動予測シナリオは温室効果ガスの排出量に基づいて4つ設定されており、RCP2.6は2100 年における世界平均気温の上昇を産業革命以前に比べて2℃未満に抑えるシナリオ、RCP4.5は2100年以降に放射強制力が中レベルで安定化するシナリオ、RCP6.0は高レベルで安定化するシナリオ、RCP8.5は2100年における温室効果ガス排出量が最大となるシナリオとなっている。
分析の結果、日本の国土全体で見ると平均的には気候変動下で残るレクリエーション価値の割合は砂浜面積の残る割合よりも小さくなることが示された。これは物理的な自然環境の変化にのみ焦点を当てた既存の知見では、気候変動が社会に与える影響を過小評価する可能性を示している。

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また、地域別に見ると、現在はレクリエーション価値が高い南日本の砂浜が気候変動下ではレクリエーション価値を失う傾向にある一方、北日本の砂浜は一定の価値を保つ傾向にある。下の図は現在を基準に気候変動下で経済価値が残る割合を地域ごとに比較したものであり、地域間の違いがひと目で見て取れるだろう。

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このことは、レクリエーション価値に基づく全国の砂浜ランキングは気候変動下では大きく変動する可能性を示唆している。下記の図は、現在の経済価値に基づく各砂浜の順位と気候変動予測シナリオの下で予測される経済価値に基づく各砂浜の順位を示している。AとBは気候変動下における夏の価値変化、同様にCとDは冬の価値変化である。棒グラフは各気候変動予測シナリオにおける経済価値を示しており、左右の棒グラフをつなぐ線は価値に基づく順位の変化を示している。また気候変動予測シナリオ側にある破線は気候変動下で経済価値がゼロになるラインを示している。 

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まとめ
昨今のICT技術・テクノロジーの発展により、環境価値評価研究はこれまでのアンケート調査やインタビュー調査による課題を払拭し、より効率的かつ客観的に広域・高解像度で自然環境の価値を把握する方向へと飛躍的な進化を遂げている。一方、これらの研究はまだ緒についたばかりであり、今後一層の研究蓄積が待たれている。特にこれまで世界的に研究が進められてきたeBirdやFlickrといったWEBクラウドに蓄積されたデータの活用は、データ自体の偏りやサンプリング・バイアスへの対処が今後の課題となるだろう。これに対し、携帯電話ネットワークの利用は上記のサンプリング・バイアス等の問題は生じづらく、同じ基準や同じ調査努力量に基づく長期的な価値の比較・モニタリングに貢献することが期待される。
また今後は、複数のビッグデータを統合した研究の発展も期待される。例えば、本研究では気候変動で生じる砂浜消失によって、該当する砂浜の価値も同じ割合で消失するという強い仮定を置いた。これは、携帯電話ネットワークデータではレクリエーション活動の中身まで踏み込めないという課題とも関連している。一方、FlickrやTwitter等のSNSデータはデータの客観性・一貫性には課題がある一方、写真や投稿内容から人々の行動の中身や考え方、認識を推し測ることが可能である。そのため、携帯電話ネットワークデータとSNSデータを補完的に用いることで、レクリエーション活動の中身にも踏み込んだより精度の高い環境価値評価が実現するだろう。またリモートセンシングをはじめとする技術の発展により自然科学的なモニタリングや将来予測の精度も日々向上しており、それらとSNSデータの統合も進められている(Breckheimer et al. 2019)。ICT技術の発展に伴うビッグデータ利用を橋渡しに、経済学をはじめとする社会科学的研究と自然科学的研究の統合は更に緊密になっていくことだろう。
市場経済では扱われない自然の恵みをお金という軸で評価する環境価値評価研究はこの数十年間で急速に発展を遂げ、現在では自然環境政策の立案においては欠かすことのできないものとなった。ICT技術の発展は広域的かつ客観的な環境価値評価の確立を後押しし、より円滑な合意形成、ひいては望ましい環境政策の実現に寄与していくことだろう。

※ 元記事は月刊誌「統計」2020年2月号 を参照されたい。

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