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新しい夏

いよいよ暑くなってきた札幌である。
昨日は曇天の空に、蒸し蒸しとした外の空気が密閉されているみたいで、息を吸うのも億劫な日であった。比べて今日は、肌を指すような直射が射してきて、青空の広がりが夏の暑さを伝えてきた。どちらとも夏らしいといえば夏らしい暑さを携えていた。どちらが良くて、どちらが嫌でもない夏だった。
あえて言うならどっちも嫌といえば嫌になる。しかしそんな夏らしい日々が失われるのもなんだか寂しいのもまた事実である。私たちは季節を肌で感じながら生きているという、そんな周知の事実を抱えている。それでもなんとなく日常を過ごしているうちに忘れてしまいそうになる。忘れていくと、夏だろうが冬だろうが、それらの気候の変化はただただ疎ましいものでしかなく、日々は色褪せていく。
色褪せていくと表現するのは流石に大人気ないというか、少々オーバーな具合かもしれない。そこまで鬱になった覚えはない。しかし四季の激しい主張は子供の頃を振り返らせるサウダージを秘めている。特に夏はそうだ。学生にあった夏休みを代表に、夏という季節は非日常の塊のような季節だと思う。それを夏の暑さで思い出してしまう。
毎日毎日、せこせこ早起きして近所の公園まで行きラジオ体操をしていた小学生の頃なんかが思い出される。お盆には京丹後の祖父の家に行き、親戚一同みんなでわいわいしている中に囲まれているあの頃が蘇るのだ。思いかえせば色んな夏があって、それは毎年のように塗り替えていくように、新しい夏を更新していく。部活が嫌で仕方なかった中学生の夏や、ゲームばかりして同級生と時間を食い潰した高校の夏など。
ちなみに去年はハウステンボスでリゾートバイトをしている夏だった。単身で乗り込んだ割には、それなりに知り合いもできて、夏らしい夏だった。園内をひたすら探索したり、仲良くなった人にドライブに連れて行ってもらったり、佐世保駅まで日帰りで遊びに行ったりと。それこそ札幌にいる時なんかとは比べ物にならないくらい暑かった日々だったのだが。たかが去年のことなのに、自分にとってはその佐世保で暮らした3ヶ月余りが、やけに恋しくもあり、新しい夏だった。長崎県は空が広かった。海がいつでもそばにあって、たくさんの景色を感じていた。
過去のどの景色とももう会えない気がするのは気のせいだろうか。札幌に来てしまったことにより、過去のどの景色とも距離を置いている。住み込みのリゾバとは違い、地に足をつけたような社会人として生活を営んでいる。佐世保にいくこともほぼないだろう。関西に帰ることだってあと何回あるかも知れたものではない。この地に骨を埋める、とまではいえないけれど、この地でしばらくは頑張ってみるつもりでいる。
夏の暑さが思い出させてくれる過去の数々が、今を繋げている。今年は札幌で新しい夏を作ることになる。楽しみかといえば、わからない。


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