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金なし、腕なし、時間なし繁盛カフェ店経営者の自己紹介①

こんにちは!

静岡県富士市でフレンチごはんと無添加パフェのカフェ

「至福のフルーツパフェ物語」、

本格フランス料理店「デリス愛鷹亭」(主人がオーナーシェフ)、

食パン通販専門店「フランス料理店の幸せの熟成食パン」を

経営している田嶋(たじまだむ)です。

現在はこの3店舗を経営しています。


いずれもなんと!

自己資金ゼロ円で開店、開業しました。(設備投資のために借入はしましたが、しない選択肢もあり)

これまでにも

・地産地消のカジュアルパスタ店

・地産地消のピロシキ専門店

2店も経営していましたが、多忙になってしまい子供のこともあり、閉店しました。

この2店は5年以上続けました。


以上に挙げた5店舗すべて、無借金で始めることができました。

(2店は借入をしましたが)

予想もしないコロナの影響で大打撃を受けた飲食店。

ずっと飲食畑で30年以上働いてきて、

(リーマンショックもあり、震災もありましたが)

コロナでも負けずに、むしろ元気いっぱいに営業再開できるのは

お店を《ゼロ円ではじめた》からです。


自粛期間も気持ちよく休業しました。

借入金返済はもちろん、引かれる固定費やがほぼ無いからです。

ケチでゼロ円で開店したわけではありません。

無駄な開業費をかけるなら、その分浮いたお金をお客様に還元したほうが良い!


そんな思いからです。


その気持ちをもって開業準備をすると不思議なことに

どんどんオイシイ話が舞い込んできました!


もし、これを読んでいるアナタが

「ずっとカフェをやりたかったけど、開業資金がない」

「修業経験がないから、お客様に来てもらえる自信がない」

「退職したら夢だった好きなお料理のカフェをやりたい」

「自家菜園の野菜をいっぱい使ったお料理やスイーツのカフェをやりたい」

「子育て中で時間がないけど、自分らしいお店を経営したい」

と、思っていらっしゃるなら

このnoteが背中をそっと支えて、押してあげられるかもしれません。


大好きな食でかがやくアナタを応援したい。

そんな気持ちでこのnoteを書かせてもらっています。

どうぞ最後まで笑いながら(?!)お楽しみください。

第1章 自己紹介と予想外の「カフェ開店????」

というわけで、

田嶋(たじまだむ)です!

生まれたのは長野県ですが、すぐに転勤族の父の影響で住まいを転々としました。

軽井沢に住んだり、田園調布に住んでいた時もあったそうです。

仕事命!だった父は早くに出世しましたが、肺炎を患ってしまい、欠勤が多くなってしまい、そのことを苦に死を選んでしまいました。

完璧主義だったのですね。

8歳の時に母子家庭になり、当時住んでいた東京郊外の2階建ての家をでることになりました。

引っ越し先は下町。

今はスカイツリーのある地域ですが、

当時はゴム工場が多く、河川と電車は住まいより上を通るゼロメートル地帯。川は油が浮いていて、かなりの悪臭。そして、工場の臭いと光化学スモッグ。そんな東京が大嫌いでした。

そんな下町で、母と弟との3人家族で4畳半と3畳の風呂なしアパートに暮らすことになりました。

小さなころに贅沢をした覚えはありませんが、

下町に住むようになって、お風呂がないのも不思議とも思いませんでしたが、貧乏ってことだったのでしょうね。今思うと(笑)。

風呂なしアパートの友達と銭湯に毎日行って、遊んでいたし、親友の家はお魚屋さんでいつも売れ残った特上お刺身盛り合わせを300円くらいで買わせてくれたので、むしろ食事は豪華でした。

しかし、父親が大好きで母が大嫌いだった私は

いつも母と喧嘩をし、モノを壊し、家出っぽいことを繰り返していました。


そんな小学生だったので、高校に進学すると早く家を出たい!

その一心で就職はリゾートホテルに就職しました。(職種はメインダイニングサービス)


学生時代から

「海外で暮らしたい!」

という夢がありました。


夢は口にすると叶うんです。


事実、学生の時から留学するお金なんて家に無かったのですが、

海外で生活したい・・・と事あるごとにいろんな人に言っていました。


就職してそんなことも忘れていたのですが、24歳の時 転機が訪れました!恩師の紹介で

なんと!!


スイスのジュネーブで働けることになったのです!


お金なんてないので、片道航空券だけ持って。


英語の成績が良かったわけでもありません。

もちろん、料理なんてしたことなかったのですが、

ジュネーブの日本料理店でサービスのマネージャーで働かせていただきました。

私にあるのは《度胸》と《愛嬌》。


本当にこれだけで、めったにできない海外での暮らしをすることができました。


そして、スイスで働きながらフランス語の勉強をし、(ジュネーブはフランス語圏内)

休みにはヨーロッパ各地を旅行し、フランスとの国境もバスで15分くらいと近かったので

買い物や食事にフランスには毎週行きました。


仕事も英語、フランス語、日本語での接客が主でしたが、TGVという新幹線の日本人旅行客の幕の内弁当作りもしました。

ここで、初めて料理の仕事に携わったのです。

料理の入り口がスイスで日本食・・・不思議な体験ですね。

鮭の塩焼きやだし巻き卵を作れるようになりました(笑)。


そんなスイス生活も弟が家をでて、母一人東京で生活しているのが心配になり、3年で終了し帰国しました。

あんなに大嫌いだった母が心配になってしまうのは成長した証ですね。

余談ですが、当時の収入はすべて貯金し、母と弟と叔母をスイス往復旅行でプレゼントしました。今までの数々の反抗期のお詫びをかねて(苦笑)。

そして、

「宵越しの金は持たない…」

なんて、昭和の私の当時の甘い考えで

帰国前にフランスの山の中に3週間こもってスノーボード三昧。

せっかく物価の高いスイスでの暮らしをまんきつし、貯蓄せず

すっからかんで帰国し、その後また極貧暮らしを日本ではじめたのでした。


ちゃんちゃん♬

第2章 はじめての開業

帰国後はやはり恩師の紹介で東京のフランス料理店のサービスの仕事をすることになりました。

せっかくなので、覚えたフランス語を忘れないうちにワインのソムリエの資格を取りたいので、結構ブラックな職場でしたが、しぶとく頑張りました。

(今となってはとてもいろいろ貴重な経験ができたと思います!大感謝です!)

朝は満員電車で揺られ、出勤し、帰りは終電。

終電を逃すとたまに徒歩で自宅まで歩く。(2時間くらい)


失敗も多く、いつも怒られ、泣いている日々を2年間過ごしました。

自分がいつも卑下されたように感じ、終電のメトロに飛び込んでしまおうか?と思う日々もありました。


そんな日々でしたが、スイスで知り合った今の主人がフランスで料理修行から帰国。フランス料理店を開業するので、「手伝って欲しい」と言われました。


正直、「これで魔の生活から解放される!!」と心から思いました(汗)。

なかなか当時の職場から抜けることができませんでしたが、東京と今のお店のある静岡県を定休日に往復する毎日を続けていたらついに、

東京のお店のシェフが折れてくれて静岡にお嫁にくることができました。


これが初めての開業でした。今から22年前になります。


ラッキーなことに開業するフレンチのお店の厨房機材はすべて主人のお世話になった方からまるまる破格で譲ってもらえることになりました。


オーブンもガス代も洗浄機もお皿も宴会用の大きなプラッターからお鍋からすべてです!

お店の中身まるごとでした。

こんな経緯からお店の開業資金は店内のテーブルや椅子や調度品を豪華にすることに使いました。


しかし、「開業したい!」という思いだけでオープンしたお店なので、

オープン時にはお客様は両親の付き合いで多いのですが、3か月もすると赤字になりました。

全くリサーチなどせず、何も宣伝もせず開業したので当然と言えば当然。毎日ひやひやする日々。

オープン時に来てもらった社員さんも「これはやばいよね」という感じになり、私たちの元から去っていきました。


借入金も底をつきかけていたので、正直従業員を抱えないのはホッとしましたが、自分たちの身体が大変になります。

その時に妊娠していたのですが、

無理がたたって早く産まれてしまい、1週間後に長女は天国に旅立ってしまいました。


その後いろいろあり、フランス料理のお店はなんとか軌道に乗せることができましたが、またもや試練。


リーマンショックでした。


それまでクリスマスは3回転したほどの繁盛店で予約もなかなか取れないくらいまでにお店は成長し、お客様も増えていきました。


リーマンショックの報道後しばらくはお店は高額のコースを注文されるお客様が増えて

「うちはリーマンショックは関係ないね~」と呑気にしていましたが、

2か月後、予約がゼロになりました。


リーマンショック後の会社倒産での最後の会食がうちのお店でだったのです。


あんなにクリスマスににぎわっていたうちのお店が

クリスマスイブの予約が一組。


それではさすがにお客様に不安を与えるので

サクラで実母と主人の父と子供をお店でフレンチのコースを食べてもらいました。

こんなみじめなクリスマスは初めてでした。


そして主人の母が末期がんで闘病生活と介護生活に入りました。

当時3男を身ごもっていました。

余命わずかな義母にせめて野菜たっぷりで無添加の食事を作って食べてもらいたい。そんな思いで毎日大きなお腹で車で30分かけてごはんを作りに行きました。

私が出産して、生まれた子供の顔を義母は見て、

「みゆりさんはいいね、、、この子たちを育てていけて…」と言い、ほどなくして義母は天国へ旅立ちました。

おかあさん子だった主人はそれから全く働くことができなくなってしまいました。


これはまずい!!!


うまれたばかりの3男に「どうしよう、りょうちゃん(3男)、、、どうやって生きていったら良い?」と抱いて思わず涙してしまいました。


今思うと、絶対やってはいけないことだったと大反省です(;'∀')。

第3章  2店舗めを開業する

フレンチのお店はやる気を喪失してしまった主人と続けていくには

「フランス料理のお弁当」しかない!

と思い、当時どこもやっていなかったテイクアウトを強化していきました。


「フランス料理のフルコースが入ったお弁当」です。

これなら義母のことで気がふさいでいても接客しなくてよいし、他の人でも詰めたりできるので売上をつくる苦肉の策でした。

幸いお弁当ノウハウはスイスで幕の内弁当をつくっていたので、こんな時に役に立ちました。


小さな子どもを3人育てていかないといけないので、必死です。

他の場所でアルバイトもしましたが、さすがに小さな子3人いるので子供だけを家に置いておくわけにはいかず、


フランス料理のお弁当を営業していくしか道はありませんでした。


同時に長男が卵アレルギーだったことで市販のパンが食べられず、

無添加のパン作りもしつつ、なんとか時間を見つけ、天然酵母を自分でおこしパン作りの講師資格も取得。


本当に毎日必死でした。フレンチの予約が入らなければパンを大量に焼いて販売する日々。

収入も激減でついに非課税世帯。

3人こどもを預けて保育園代がなんと!!3人で9000円!!


がっつり3人保育園に預けまくりました(苦笑)。


それくらいにまで収入が落ちました。

この時に極貧生活をしたおかげで節約料理が超得意です(笑)。


酵母も起こせるので、私はなにもなくてもパンが焼けます^^。

余談ですが、自分の子供たちにもそういう風に「なにもなくても生きていけるように」育てています。たくましくなって欲しいです(^^♪


そんな生活だったので、2店舗目なんて考えたこともなかったのです。

それが、急展開です!


当時おとなりの富士宮市ではご当地のグルメを盛り上げようと

富士宮やきそば学会を設立し、ご当地グルメブームとなりました。


住んでいる富士市でもご当地グルメを開発。

「つけナポリタン」というお箸で食べるナポリタン風トマトソースのつけ麺がテレビの企画ででて、提供店を募集していました。


フランス料理店でしたが、そのつけナポリタンがおいしくて、参加しました。町おこしがメインなので、小学生の長男もボランティアスタッフとして参加させ、富士市の方々といろいろ活動をさせていただきました。


「やっとこの町に溶け込めた・・・」

つけナポリタンでそう感じることができました。

それまでは東京からこの田舎に移住してどこか疎外感をいつも持っていたので実は孤独でした。


つけナポリタン提供店となり、各地のイベント出店を重ね、横浜のデパートでの催事出店までできるようになりました。→大赤字で大きな借金を作りました(泣)。


そして、フレンチのお店でつけナポリタンを提供することが困難になり、

2店舗目「つけパスタのカジュアルフレンチ レ・バケット 」を

オープンしました。


このお店はまさしくゼロ円開業!

お金一切なしでしたから(笑)。子供も小さかったので時間も無いない!


市の空き店舗対策の補助金と知り合いから譲ってもらったお皿と

ソムリエ協会つながりで飲料メーカーから協賛のグラスで

30席ほどのレストランをオープンさせました。そういえば、オープンしてからも飲料メーカーの協賛でプレミアムモルツも無料でゲットし、お客様に提供。

ありがたい、ありがたい(^^♪


フレンチのお店がカジュアルフレンチで開業となって、席数も広くなったのでお客様にたくさん来ていただけるようになりました。

これはいいぞ!

宴会の予約もたくさん入ってきました。


やっと、お金に余裕ができて、借金を返せるようになるかな?

と思い、ちょっとできた資金10万円をつぎ込んで地元の有名なタウン誌に広告を出しました。

そんな矢先、

事件は起こりました。

9年前、そうです。東北の大震災がおきたのです。


その2日後にここ富士市でも震度5の地震が追い打ちをかけて発生。


予約はもちろん全キャンセル。計画停電もあり、それより子供たちがおびえてしまい、寄り添って平静を保つのに必死でした。

自分がしっかりしないとすべて崩れていく・・・

そんな毎日で

「しっかりしないと、しっかりしないと・・・」と毎日言いながら生きていました。


なけなしのお金10万円の広告費もすべて水の泡・・・

でも、命あるだけで良かった。これくらいの損失は全然いいのです。

なんと言ってもゼロ円開業ですから。


そんなスタートの2店舗目経営でした。


第4章 3店舗目の前に人生最大のピンチ!

フレンチのお店は市内でもかなり端で田舎といわれる場所にあります。

対してつけナポリタンのお店は「おまち」と言われていてちょっぴり都会(笑)。


そして、週末にはイベントで出店しているので、たくさんの方と知り合うようになりました。イベントには子供をおんぶしながらなので、必然といろいろな方から声もかけられるようになります。


そして、2店舗目存続をかけてやってきたことは

「フレンチ弁当」と「パン販売」。

これがかなり需要があり、宴会はもちろん、店内飲食は絶望的でしたのでなんとか、生き延びることができました。

しかし、ずっと東京で8年、スイス・フランスで5年修行してきたフレンチシェフの主人は

「俺は弁当屋になりたいんじゃない!!」といつも声を荒らげていました。


しかし、周りの状況を理解し、お仕事があることで「やって良かった、よかった。」と

コロッと言うことが変わりました。まぁ、働いてくれればOKです。


パン販売をもっと強化しよう!


と思って、パン用のデッキオーブン導入の書類をサインする直前。


今までピンチが多かったのですが、さらなる試練!!


私が夜中なら子供を寝かしつけて時間ができるので、夜中にお店に行ってパンを焼いていました。


その夜中に3男が家の鍵をこじあげて、脱走。

行方不明になってしまったのです。当時4歳でした。


朝5時くらいに3男がいないことに主人が気付き、血相を変えてお店に来ました。

「りょうたがいない!!!どこにもいないんだよ!!!」


え???

はぁ???


全身に鳥肌が立ち、もう何が何だかわかりません。


パンを焼いている場合ではもちろんなく、

すぐにありとあらゆる場所を捜索。


りょうちゃん、、、、

なんでいないの???

2日前に保育園の遠足で撮った写真にはピースサインができない3男の笑顔。

その笑顔がちらちらと走馬灯のように私の頭の中でフラッシュバックしてきます。


しっかりしなきゃ!!

神様、私からりょうちゃんまで取らないでください!!!!


お願いだから、お願いだから!!

りょうちゃん、どうか無事でいて!!!

そんな言葉を何度も何度も車で叫びつつ、子供を探しました。


夜が明けてきて、電車が走る時間になりました。

もうダメ???

全身の力が抜けました。


ここで警察署に主人が届けに行きました。捜索願を出すために。


私は他の子どもたちを保育園に送りに行きました。

そして、主人は戻ってきました。


後ろにはすっかり寝ている3男が!


きゃーーーー!!!りょうちゃんっ????!!


でへでへ・・・・

眠気まなこで3男。

「あのね、ママ!はじめてパトカー乗ったよ!!」と。

「あとね、りんごジュースもらったよ!

ママ、いつももらったらママに言いなよっていうからボク、言ったよ。」


りょうちゃん、生きていてくれてありがとう!!!

ありったけのチカラで3男を抱きしめました。


聞けば、日中に兄弟で公園で遊んでいて、すべり台をやりたかったのに、兄たちが「もう行くぞ!!」と滑りたくても滑れなかったのですべり台で遊びたかったようです。

夜中、家から出て、公園に行ってすべり台を堪能していたのでしょう。

月明りの明るい夜でした。

たまたま見つけた代行の運転手さんが警察まで届けてくれたそう。


本当に良かった。


その時、思ったのです。私には事業を始めるには時期早々だって。


今はしっかり子どもたちを見なければいけない時だとわかりました。


パン作りは事業拡大せずに細々と再開。

つけナポリタンは徐々に知名度を上げてお店も順調になってきました。


そうして1年後、今度はまちおこしで地域の特産物「しらす」を使ってピロシキを作りたいから力を貸してほしい、との声をいただきました。


「実はロシアとの友好関係の歴史を広げるためにしらすを入れたピロシキを作りたいけど、パン屋さんから断られたんです。

たじまだむ、助けて!!」

そう言われたら、やるしかないでしょ!!という経緯で

今度はピロシキ作りを地元の高校生と始めることになりました。


これがイベント販売限定でしたが、大ヒット!

テレビ取材まで受けるようになりました。

一時期ヤフーの検索ランキングで「しらすピロシキ」が1位となったこともありました。

テレビはNHKから民放全局全国放送も静岡ローカルも出演させていただき、芸能人の方とも多数お会いできました。

しらすピロシキってなんか不気味だけど、美味しいらしい・・・

と口コミが広がり、まちおこしということもあり、新聞、雑誌にも紹介され、高校の文化祭や地域のイベントにもたくさん出店依頼が来ました。


ついに専門店をオープン。

これは出資してくださる方がいて、私は雇われ店長。

ここでお店とイベント販売を充実させ、スタッフも増えて関東のデパート催事出店、パンマルシェ出店とどんどん販路を拡大しました。


3男もなんとか家にとどまっています(苦笑)。

これが3店舗目の

「富士山麓のピロシキ専門店 3776type」開業でした。


第5章  馬車馬のようにはたらくのも限界?4店舗目ピロシキ屋

今度のお店は私が経営するわけではないので、

必死でした。


今までも必死なのですが、家族経営ということもあり、どこか「甘え」があります。

無理とわかれば、すぐあきらめる・・・。


しかし、今度はそうはいきません。

街おこしとしての責任。

店長としての責任。

利益をだしていくこと。


今思うと、戦略なく、とにかく「作って売る!!」それだけでした。


週末はイベント3つ掛け持ち。3つイベントに出れば、一つは売れないイベントでもあとの2つで売り切ることができました。

イベントと首都圏デパートの催事の日々。


ピーク時は1か月家に居ない時がありました。


子どもは忘れ物連続。

朝も寝ていて兄弟みんな遅刻。

ついに長男は図工の時間に真っ黒な絵を描きました。

爪も切らず、歯で噛んでいたほど

母親としては最悪でした。


当時、3男は小学一年生。学校で注意されると涙流していたそうです。そんな毎日だけど、続けるしかありませんでした。

今にして思えば私は「特攻隊長」です。しかもよく撃たれていた(汗)。


しかし、それで良いはずはありません。

せっかく生まれた大切な我が子をなんとか誤魔化し、

昼夜構わず、ピロシキを包み、揚げ続け売りまくりました。


おかげさまでたくさんのピロシキつながりで知り合いが増え、ファンも全国にできました。本当にありがとうございました!

私自身

《富士山の標高3776mにちなんで、3776種類のピロシキつくりをたくさんの人としていく》というミッションを掲げ、

イベント主催者さんや生産者さん、

高校生や中学生とも授業でピロシキ作るところまで

やり尽くしました。


パンマルシェでは他のパン屋さんのパンとは一線を画していたので、とにかく目立つし、即完売しました。

(完売させるには「コツ」と戦術があり、それはまた違う機会で)

たくさん作って即売れる。


これは本当に嬉しいことです。ずっとやっていきたいと思いました。


しかし、身体は悲鳴をあげていました。


そして、経営的には大赤字で借入金返済付でお店を譲り受けることになりました。

借金が増えたのです。


それからは借金返済のために仕事をするという毎日です。


若いときはお店の所有というある種の「欲」を満たして、元気に働けるのですが、(借金返済がモチベーション(;^_^A)やはり、年を取っていくので、身体は正直です。


毎日元気でしたが、婦人科系の病気が見つかり、

お腹を切って手術しなければいけない状況でした。


イベントは1年先まで埋まっています。

どうやって手術の日を決めようか?そんな伸ばし伸ばしの日々で結局1年が経ち、いよいよ手術しないといけない状態になりました。


ピロシキ屋を始めて3年経ち、やっと任せられるスタッフができた頃です。


手術のことしか考えていなかったので、後遺症やその後のことは一切わかりませんでした。

ただ、手術の説明の時に

「完全に体が戻るまで1年以上」と聞かされました。


1年以上????


始めての開腹手術でこれからの生活について全く予想がつきませんでした。


1年働けないの????

そんなことないでしょ・・・


と軽く考えていましたが、実際はこれからの1年以上が

想像を絶する大変な日々でした。今までは「馬車馬のごとく働く」。そうすれば何でも乗り越えられた。


しかし、これからは違うのです。というか、違ったのでした。

心と身体の葛藤が始まったのです。


・・・・長くなりました。

自己紹介なのに、こんなに長くなってしまうのは

さすがに歳をかさねてきたのだなぁと感じています(笑)。


一旦、この回は終わらせます。

この後もお楽しみに!


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