見出し画像

TRPG制作日記(188) 文学とエンターテイメント

私たちがテキストを読むときに、実際問題として前提知識なしにテキストを読むことは絶対にありません。必ず何らかの知識を前提として、私たちはテキストに触れます。

TRPGのルールブックも同様であり、完全に無垢な状態でTRPGのルールブックに触れることはないでしょう。

分かりやすいテキストとは、読者の知識を利用でき、同時に大きく逸脱しないテキストです。

ここで私たちはユーザーにどの前提知識を想定するのかを考えなくてはなりませんが、このときに私たちには二つの方向があります。

一つは、既存のTRPG、あるいは近接分野であるサブカルチャーの知識を想定しておくのか。

もう一つは、より一般的な知識を想定するのかです。


前回、有名なデジタルゲームであるポケットモンスターと源氏物語を例にしてエンターテイメント、あるいは大衆文化はそれほど一般読者を想定していない可能性を示唆しました。

では、源氏物語などの文学はどうなのでしょう?

今日はこの問題について考えてみます。


多くの日本人にとって、文学とは馴染みがある分野です。理由は学校で学ぶからであり、高校受験や大学受験では古典や漢文、そして英語や現代文の知識が要求されます。

さらにいえば、歴史や地理は文学の分野です。そもそも、長編物語であるノベルに小説という翻訳が当たられたのは、小説が歴史に比べると小さなテキストだからです。

夏目漱石や太宰治を含めて、文学作品はよく知られています。

また、ダンテやセルバンテス、またはディケンズやサルトル、プルーストやカフカも知られているかもしれません。

マルクスやフロイト、デリダやフーコーも有名です。


にもかかわらず、文学はエンターテイメントよりも大衆的ではないと思われているには理由があります。その内容が大学でのテキストに使用されるほど前提知識を必要とするからです。

カフカは難解であることで有名かもしれませんが、二十一世紀の世界文学と比べると理解は容易です。


もう一つ、エンターテイメントが文学作品よりも大衆的であることの理由があります。それは、私たちが考えているほど、エンターテイメントというのは学問と無縁ではないことです。

たとえば、ポケットモンスターのキャタクターは能力値が六次元ベクトルの導関数で表現されて、相手へのダメージは確率で計算されます。

つまり、高校数学の重要分野である、微分積分、ベクトル、確率の知識がコンテンツに含まれているのです。逆に、高校数学を離れた数学はポケットモンスターでは使われません。

そして、重要なことは、ポケットモンスターは高校数学を理解していなくても理解できることです。なぜなら、微分積分、ベクトル、確率、その考え方の一部しか使わないからです。


文学のエンターテイメントの応用、またはエンターテイメントの文学への応用が不毛になるのは、互いの役割を間違えることです。

私たちは学校で文学を学びますが、それはもっと文学を勉強するためではなくて生活に役立てたり、あるいはポケットモンスターのような娯楽コンテンツを楽しむためです。

小学校を出ていなければ、ほとんどのデジタルゲームは難解すぎて遊ぶことすらできません。ライトノベルも読めず、そしてTRPGで遊ぶことも難しいでしょう。

エンターテイメントを利用することで文学や科学を学ぶことは、私の個人的な考えでは無意味です。

実際は逆であり、エンターテイメントに文学や科学が含まれているからこそ私たちは文学や科学を学ぶ権利があるのです。

むしろ、普通のエンターテイメントを楽しんでいるときに、疑問に感じた部分に関して文学を学ぶことが適切です。

ライトノベルについて理解したければ、ポスト構造主義やポストモダニズムを勉強するのは良いことです。異世界転生を理解したければ、マルクス主義を勉強するとよいでしょう。

しかし、ライトノベルにデリダを、異世界転生にルカーチを登場させる必要はまったくありません。気持ちが悪いだけです。


実のところ、文学を難解に感じるのは文学が難解だからではなく、文学を難解に感じるレベルまで扱おうとするからです。

ポストモダニズムの理解も、ライトノベルを楽しむためなら、ライトノベルとは絶対正義の視点ではなく、キャタクターの視点と価値観で文章を書くということを理解していれば十分です。文章を読むときに、ああ、これは作者の自己主張ではなくてキャタクターの語りなのだな、を理解できれば十分に楽しめます。

しかし、文学でポストモダニズムといえば、リオタールが議論したように重工業からサービス業や情報産業への変化、それに伴う労働者の世界観の変化を理論的に含みます。

そこには資本の絶対的剰余価値の収奪が中心の社会から、相対的剰余価値の収奪にシフトしていく資本主義の発展の問題も含まれています。プロレタリアートからマルチチュードです。

なぜ昔の人は推理小説が好きで、今の人はライトノベルが好きなのかを本当に理解したいのであれば資本論を読む必要がありますが、それは簡単なことではありません。暇な学者の特権です。


実は、同じことはサブカルチャーなどにもいえて、たとえばTCG(カードゲーム)のほとんどは部外者が理解できないほど難解です。

また、ボクシングの試合も、初心者は、実のところどちらが勝っているのかすら分からないときがあります。ポイントを取り合いますが、採点基準が分からないからです。


分かりやすさ、という点においては文学の知識を前提にすることもサブカルチャーの知識を前提にすることも、それほど大差がないと今のところは考えています。

問題は、どちらの場合も深い知識を要求しないことです。

マイナーなデジタルゲームの知識を前提とするルールブックは、サルトルの実存主義を前提とするルールブックと同じくらい難解です。

問題は、現代のサブカルチャーは、そしてエンターテイメントも多くの若い人たちにとっては、大衆的というには高度になりすぎていることを想定することです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?