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コモンの「自治論」~第五章~ 精神医療とその周辺から自治を考える


 精神疾患などで苦しんでいる人は、「病気それ自体」が生きづらさを引き起こしているのではなく、社会の側が「病気を持っている人」に対してハードルを与えているにすぎないという考え方は今まで学んできたことの一つだが、この章ではそこの議論からまた一歩進んだ知見を与えてくれた。いま述べた議論は、極端にいえば精神医学(精神病院など)はいらず、周りの対応の仕方や制度など社会の側が変化すればよいという、名前をこの本から引用すれば「反精神医学」というものだ。
しかし、いまの一般的な精神科医がもっている考え方はもう少しちがったものだ。それは反精神医学と必要だと考えられる精神医学の二項対立を脱構築した「半精神医学」というものだ。

 例えば、統合失調症や自閉症スペクトラム障害の患者は健常者とは違うものを見ている。いまの社会は健常者が見ているものを優先し、彼らが見ているものを弾圧するという社会である。 

この筆者は、統合失調症を含めた障がい者の人たちがまったく違う世界を生きていることを否定しない。しかし、そのうえで健常者が障害者を差別して生きていけばいいといっているわけではもちろんない。健常者が障害者とは違う考え方や論理で生きていることを認めたうえで、健常者や精神科医にとって当たり前な論理を障害者に単に押し付けることはできず、患者の生命を守るという大義から健常者の論理を押し付けてしまうときに、罪滅ぼしの意識を持たなければならないという。

そこになぜ患者の生命を守るために健常者の論理を押し付けることが必要なのか、あるいは社会が変わるだけでなく精神医学自体がなぜ必要になってくるのかという疑問が浮かび上がると思うのでそれについて自分なりに考えてみたいと思う。
まず、障害者と健常者を同等に扱うとどうなるか。たとえば、統合失調症や自閉症スペクトラム症の人たちはほかの人たちと違う論理、さらにいえばその一人しかその論理でしか生きていないわけだから完全に孤立してしまう。そのように平等に扱うと、問題が生じるのは明らかだ。

次に社会の側が支援のやり方に差はあれども、全員が平等に生きられるようなあり方だったらどうだろうか。たとえば、車いすユーザーでも健常者と同等にバスや電車に乗れるように仕組み作る、うつが大きい人にはそのとき健常者以上に休みをとれるようにするなどだ。これらは少しずつではあるが、現在も行われている。このように、全員が個人として生きられるということが保証されるのはなんて生きやすい世界だろうか。そのような世界が理想なのは私にもわかる。

一方で、マイノリティを優先すると、結局は個人個人のニーズに合わせることに行きついてしまう。躁鬱病はうつの期間が3分の1を占める人もいれば、躁が比較的長く、躁の期間に気分が高揚して怒りやすくなり、人間関係が破綻するという人もいる。そこの微妙な差も含めて、会社や社会は対応していかなければならない。躁鬱は入院が必要なレベルのひどい鬱やひどい躁を除いて、活動量を常にできるだけ一定にすることが求められるが、躁の時は休むことが、うつのときは動くことが必要だ。特に躁のときは高揚して状態が分からないことが多いので、周りの人がその個人個人に合わせて、気をかけ、会社側が休ませるとか出社させるということが必要だ。
 病気までいかずとも性格の範囲でも、「人前で発表するのが苦手だから」「毎日朝起きるのが無理だから」ということが起きるが、障害者が平等に生きられるような社会を創るのならばそのようなニーズも取り入れる必要があるだろう。なぜなら、障害とはグラデーションだからだ。障害者のみを助ける社会でないならば、グレーゾーンにいる人たちも助けるのが当たり前だろう。
いまの社会では朝起きるのが苦手だから、会社や学校など選択肢は少なくなってしまう。彼らを完全に平等に生きられるようにするためには、彼らが夜も起きられるように精神医学やほかの医学、思想などで「譲歩」してもらう以外には、夜活動する必要がない会社や学校もすべて夜も開かなくてはいけなくなってしまう。それが実現不可能なのはわかるだろう。
だからこそ、しょうがなく健常者の論理を障害者などのマイノリティの論理押し付けてしまうことが不可避である。

もちろん先ほど言ったように今の精神医学が考えているのは精神医学と社会の側が変わればいいという「反精神医学」の脱構築であり、「反精神医学」の方が現状の日本に足りていないというのは明らかだ。社会の側が変わるということはこれからさらに発展していくべきであろう。しかし、述べたように完全に個人個人が「平等」に活躍する社会は現実的に難しいと考える。
そうすると人間関係のコミュニケーションと同じで、結局は健常者と障害者、お互いがどの程度まで譲歩するべきかという話になってくる。そこで私は、完全な平等を目指すのではなく、障害者などのマイノリティが譲歩すらできていない現状から、譲歩できる範囲まで、健常者側が譲歩する、あるいはできるところは部分的に健常者と平等にする(支援や、ルールを変えるなどを行う)という状態に持っていくというのが現状の目標だと考える。

また健常者である人間も、障害者が特異性を生かしながらなんとか世の中にすまうことができるように支援していくなかで、この世が健常者の論理だけではない、複雑な考え方からなっているということが理解できるようになる。

反精神医学(精神医学はいらないという思想)では、精神病院が存在することを否定する。それは、精神病院があると、入院患者たちが社会から隔離されて、社会的疎外を受けるためだ。

社会的疎外だけでなく、現時点では障害をもっている人たちは障害をもっているということだけで疎外を受ける。障害をもっていると、生きるときの障害なるのは当たり前だ。だから「障害」という名前がついている。
そこでポスト反精神医学では精神病院など、そのような病気による弊害を癒すための器は残しつつ、社会的疎外を解消する方法を模索する。



社会的疎外を脱するためには、状態としての「マイノリティ」から生成変化を常に行う状態になる必要があると述べている。どういうことか。状態としての「マイノリティ」になるのは誰にでも起こりうる。障害者であるということだけでなく、女性である、黒人であるなどで、ただマイノリティであるだけだ。一方で生成変化はだれにでも起こるわけではない。障害者であれ、「障害者」になる必要があるという。どういうことか。障害者であれば一生、生活保護や障害者年金に頼って生きることができる。しかし、そこで止まり続けていれば「マイノリティ」であるにすぎない。そこで、例えば障害を持ちながら、仕事をしながら、コミュニティを作り出す人にあこがれるかもしれない。そこで自分を変化させ続けようとすること、「生成変化」を経て、「生成変化」をつねに行い続けることで「障害者」になっていくというのだ。もちろん生成変化を行っている最中に生活保護や障害者年金を得て生きていくということもなんら問題ではない。
筆者がいうには、この過程は一人でもがいていても生まれることはなく、グループでの交流やディスカッションを経ることでしか、生まれないようだ。
つまり、「障害者」になることで社会的疎外からのがれる、逆にいえば社会的疎外から逃れることで「障害者」になれるのだ。
このような「障害者」になる過程でグループの力が不可欠で、そのような中で問題を解決するところには自治の芽が見えるのではないか。

この筆者は自治とは「誰かが決めた抑圧的な仕組みに服従している状態から、周りの人々と一緒に相談しながら、その仕組み自分たちのものとしてとらえ、自分たちの手で組み替えていくこと」と定義している。

「障害者」になる過程は、

既存の反精神医学や、あるいはもっと過去の、患者を束縛するような精神医学や偏見から抜け出し、周りと相談し、個人のかかえている問題に対して、共同的に研究し、ともに解決をめざしている

という見方もできる。これは自治の定義にはまっているのではないか。つまり、「障害者」になるということ自体が自治の実践ということができる。

障害に関する問題を患者自身がどう解決するか、あるいは社会(健常者側)がどう働きかけるかということに視点が向けられがちだが、患者同士や人間同士が自治の実践を行うことで一歩進んでいくのではないか。

それは先に述べたように、患者自身の生きやすさにつながるだけでなく、健常者に対しても意識の変化を促すものである。さらにいえば、健常者も障害者の「自治」の実践を見ることで、ほかの自治の実践に生かしていけるのではないか。

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