泣くときは、泣くがよろし・・・愛する者の死に泣き崩れるのは、礼である。。。。

想念は病 現実は薬

上記文抜粋
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人は想念によって元気になることも多いですが、大体はダメになっていきます。想念の行きつく先は病であり死である場合が多いです。

気持ちが落ち込むと何もできなくなる人がいます。誰にでもそうした面があるのも事実でしょう。

そんな時、私たちはつい、気持ちの落ち込みがなくなったら何でもできるのに、、、、と思うのですが、果たしてそんなことあるでしょうか。

心の中に盛り上がる不安、恐怖、あきらめ、、、それで現実の歩みを止めた時だけ、本当の地獄が訪れるのですが、私たちは自分をかわいがり過ぎるため、恐怖や不安持つ自分を大事にしてしまいがちです。

不安や恐怖は自分でも理解していない理由があってそうなっているのですから、深い心理を探れればかなり楽になるわけですが、そんな分析のようなことは、滅多にできるものではありません。

そんなことよりも、不安や恐怖はそのままにしておき、不安や恐怖を抱きつつ、現実のやるべきことを行うのがベターな気がします。

タイトルにある現実は薬とは、人は気を入れて何かを実行している時、あらゆるエネルギーが入り、あらゆる問題の解決につながるように進む気がします。気がするというのは、証拠などないのでそういう言い方しかできないわけですが、人間の存在は、今自分がいること以外にないので、必ずそうなっていると思うのです。

人間の仕事は、現実の目の前のやるべきことを、心をこめてていねいに行う以外に、何か他にあるのでしょうか。今、おこなっていることが、自分の存在証明なわけで、行うことの中にはもちろん思索もありますし、想念上の創作ももちろんあると思います。(具体的行動だけを指しているのではありません。思索も思いも同じです)

それらは、ただただ喜びであって、現実を生きる人に与えられる特権です。だから、人は生きていたいのです。生きて何かしていることが、最上の喜びであることを、どこかで私たちは知っているので、死を恐れるわけです。

しかし、どんなに死を恐れても、それまでは必ず生きられるのですから、生きることは、死の不安や恐怖にすくんでしまう態度とはかけ離れているはずです。

今を生きているこの事実は、死の恐怖が入り込まない純粋なものです。想念にとらわれて現実の行為をストップさせてしまう時に問題が発生するわけで、そうなると私たちは死に捉えられたことになります。

生きているうちは生きてやる、、、その姿勢が正しいと思いますし、生きているうちは生きるとは、目の前の今のやることをていねいに、意識的に取り組みこと意外にないということです。

もっと高尚な悟りの世界があるのかもしれませんが、そうしたものを求めても大体は欲の上乗せ程度のことにしかなりませんので、目の前の大したことでないように思えることを、ていねいに取り組むことであらゆる問題は解決しないまでも、問題自体がなくなるのです。

これ以上の悟りもあるのかもしれませんが、そんなものは私は欲しくありませんし、目の前のことを丁寧に意識的に行うこと以外で、今の混乱しきった世界から私たちが救われる道は無いように思います。

歩く時はちゃんと歩こう、、、その時には歩くこと以外は存在しない、、、それが喜び。食べる時はちゃんと食べよう、、、その時には食べること以外存在しない、、それが喜び。話す時はちゃんと話そう、、、その時には話すこと以外存在しない、、、それが喜び。悲しい時はちゃんと悲しもう、、、その時には悲しみ以外存在しない、、、それが喜び。怖い時はちゃんと怖がろう、、その時には怖さ以外存在しない、、、それが喜び。悔しい時はちゃんと悔しがろう、、、、その時にはくやしさ以外存在しない、、、それが喜び。

この世が、そして自分が生きていることが、本当に面白く感じる道は、これ以外にないと私は思いますし、これさえあれば、宗教も何もいらず、だれもが幸福に生きることができるようになると思いますし、きっと多くの人が、今よりもずっと健康になるように思います。

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抜粋終わり

王陽明が「親が死んで、悲しみのあまり泣き崩れるのは、正しい。それが「楽」なのだ」みたいなこと言っている。

儒学者なので、「親の死」と限定しているけど、愛する者が亡くなりそれに泣き崩れるのは、正しい事なのだ・・・

しめやかな葬儀・・・ばっかりなのは、それは社会が「欺瞞」と「偽善」だらけだから・・・

だから、葬儀すら、、すたれていく。

これも

「欲があるものは、結果しか見えない」{老子}

てことだ。

天皇カルトと似非坊主の作った、偽りの「作法」には反吐が出る・・・くさった作法なので、廃れていく。。

で、葬儀もまともに行わない社会は、ある意味で「生者」もぞんざいにあつかう。そんな社会が自滅していくのは、当然に思う。当然日本が消えてなくなるのも自然なのであります。


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