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私は、体罰の責任を自ら取り自ら受牢した教師を見たことが無い。


体罰で無ければ、危険行為を止めれない場合があるのは、認める。

が、やはり非常手段であり、濫用するのは、劇薬を濫用するのとおなじなのである。


医師が劇薬を濫用して、殺傷すると、当然に罪に問われる。

同様に、

教師が体罰を濫用して、殺傷・自殺に追い込むと、当然に、罪に問わないといけない。
それを許すのは、「悪事を勧め教える」という素晴らしい教育になり、

生徒は、DVや、パワハラ・セクハラ等を、習得することになるのである。


そもそも「体罰」には、それが「脳を破壊する」危険性があるのだ。


脳を破壊し、かつ、生徒は命の危険を常に受け、教師は失職・逮捕や生活の破綻の危険と常に隣り合わせになる。
そんな「体罰」の容認は、それは誰の利益にも教育にもならないのである。



むしろ、現状の「体罰厳禁」は、教師も生徒も救われる状態になりつつあると言っていい。底辺

では、「崩壊寸前の底辺校」は、どうなのか?

ていわれると、もはや無用と言いえる。

なぜか?

そもそも「無理」してあがってきた生徒が、その強度なストレスに耐え切れない。
また「基礎の人間関係を築き方がわからない」となると、

これは教育よりも「福祉」「医療」の管轄のはずなのである。

むしろ「なぜに、医療や福祉に早くつなげないのか」ってのが、さしたる障害にならなかった体罰事案では問われる場合も多いはずなのである。

それをさぼり倒して「ちょっと叩いただけ」で豚箱に入るのは、正直職務怠慢だから仕方がないのである。

とわいえ、通俗道徳の天皇カルト国では、その経路やシステムは、皆無であり、


生き馬の目を抜く万人の万人に対する戦争
通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。

 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。

『外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ・・・』(出口なお 1837‐1918)

 「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。

天皇在る限りに、「底辺校」という「教育破綻」は、免れ得ないのである。


上記文抜粋
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いつまでも体罰がなくならへんのは処分が甘いからや 「身内」びいきやなく、こども第一で考えて

 【名将・鳥内秀晃の人間話 頼むでホンマ】相変わらず、世の中、納得のいかんことが多いな。静岡県裾野市の保育園で保育士が園児に虐待した事件あったやん。関わったとされる3人が逮捕されて(26日に処分保留で釈放)、最初は顔写真も実名も出とったけど、何で学校で起きた体罰事件は逮捕もされへんし、実名も、顔写真も発表されへんの?
 体罰って、同じことが学校の外で起きたら、立派な傷害事件やろ。昭和の時代ならともかく、いろんなことが厳しくなった令和になっても、暴力をふるう教師がいるのが信じられんな。ニュース見てると、「暴力はあかん」って教えられてきた若い先生まで手をあげてるって、どういうことや。しかも、罰も受けず、何かに守られてるのは腑に落ちんわ。

 大阪・桜宮高のバスケット部で起きた体罰問題※から今年で10年。文科省の統計によると、体罰による教師への処分は、ピークやった2013年に4000件以上あったのが、2年前には500件弱にまで減ってきてるわ。数自体は少なくなってても、完全にはなくなってへんし、表面化してなかったり、泣き寝入りしてるケースも含めたら、この数字は氷山の一角と見るべきやろな。

 先日、教職員向けの「生徒指導提要」が12年ぶりに改訂されたニュースがあったな。けど、「他の児童、生徒らの前で叱責する」が禁止条項って、当たり前の話やで。今さらの項目を加えるんやなくて、教師が体罰したら、すぐに校長が警察を呼んだらええんちゃうの。校内暴力が全国的に横行した当時、生徒が手を出したり、暴れたら警察を呼んどったのに、先生が同じことしても学校は動かへんって、おかしな話やな。問題を解決するために何が必要か、文科省にちゃんとした認識はあるんやろか。

 教職の免許を取るためには、当然教育学を勉強するやん。40歳で免許を取ったオレは「特別活動と人間形成」(山口満、安井一郎編著 学文社)という本で学んだんやけど、みんな同じように勉強してるのに、何で体罰するんか全く理解できひんわ。試験とかレポートをこなすだけで、大事な人の命を預かっている自覚があるのか、疑問やな。

 やっぱり、文科省、スポーツ庁、それから教育委員会の処分が甘いから、この問題は後を絶たへんのやと思うな。体罰教師が逮捕されて、有罪になったら、有無を言わさず教員免許を剥奪したらええんちゃうの。そうせんと、体罰は永遠になくならへんで。一体、誰のためにやってんの? 一番考えなあかんのは、子供のためやろ。彼らの成長を助けるためにやらなあかんのに、身内を救うことばっかり優先してるわ。それから教師や指導者は、子供にちゃんと「教え」たってほしいな。何かができひんかったり、分からへんのやったら、しっかり言い分を聞いてやって、言葉で伝える努力せな。頼むで、ホンマ。(関西学院大アメリカンフットボール部前監督)

 ※バスケットボール部の男子生徒(当時2年)が、顧問だった元教諭の男性(懲戒免職)から日常的に暴言、暴行を受け、それを苦にして2012年12月23日に自殺。

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抜粋終わり

私は、この体罰教師とそれを庇うの他の教師は「悪事をしても責任を取らず逃げ切る方法」を生徒に一生懸命に教えていると考える。

まあ「天皇家の責任回避法」で、戦後、日本の指導者層に広まった「日本人虐殺法」である。


まあ、これも「天皇が戦争責任をとらない」ことが大きな原因ですは。


あと、「底辺校は、言うことを聞かない」と教師がよくいうが、少し疑問に思う。


もう30年前以上になるけど、自分が学生の頃、「いじめ」を受けていたが、イジメない人たちには、そこそこ付き合えた。
それも学力が高く国公立大に行ける知力の子と、底辺校にいけるかいけないかの子とも付き合えた。

それでわかったのが、
底辺校の人でも、普通に話は通じるし、会話をしたら、その意図はわかりかつ理解してもらえ、交渉し意見を聴いて実行してくれる。

「なんで?」て思うこともあるが、話を聞けば「そういう考えか」とわかった。
で「でもこれこれした方が、もっといいやん」っていうと、それを取り入れてくれた。

こういう作業を、体罰を持ちいる教師は足りないのが、私には明白と思う。

そもそも「教師」って偉い人が上から目線で「罵倒・指示」したら、普通に反発を覚える人もいるのは、当然で。


すべての人に対等に接した劉秀
 劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
 劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
 劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
 劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
 明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
 ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。

 劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
 劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
 劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。

平等思想の源泉・戦場とユーモア
 こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
 一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
 優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
 またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。

そもそも「教師」が、生徒と同じく「法の下も平等」なのに、それに従わない。

そりゃ、底辺高校で暴力祭りになるのは、必然だはな。

正義のための反抗の意味もあるだろうな。{て、いじめや恐喝で行われたら、それは正義も糞も無いがな}

だいたい、教師が「対等の人間関係」を理解できない。最低限の礼節をとらない。
「君主・上に有る者は、礼をもって用い、臣下・従う者は、真心をもって働く」{論語}

なら、底辺校なら、当然に、肌身にその侮蔑を感じて、体罰を用いなければ、非常事態行動を辞めないことが多発するのは、必然なのですはな。

まあ、まさに「力ある者が、力なき者を食い物にすべき」という、奴隷教育である。


 第2の理由は日本人の奴隷教育です。
 奴隷教育とは日本では当たり前の次のような教育です。
・良い大学に入り良い会社に入るために勉強する
・成績が良いと褒められ悪いと叱られる
 これは成績が良いと価値があり、悪いと価値がないという価値観で、実は奴隷に対する教育なのです。
 本来の価値観は「存在だけで価値がある」です。

 日本人は「絆」は良いと思っていますが、元の意味は奴隷や動物を拘束する足かせ手かせで、マスクももともとは奴隷に着用させて個性を殺すためのものです。
 マインドコントロールされると情報が更新されにくくなります。

子供ころから、「奴隷教育」をうけ、さらにそれで罵倒や侮蔑されて、自尊心も知能もまっとうに発達できない。

なら、底辺高が、暴力の巷になるのは、必然なのですはね。


奴隷教育に「対等の人間関係」などそんなのは、存在しない。


だから、「平等であることこそが人の能力を最大に発揮できる」事が、日本人・・特に、教師・学校・教育に捨てられた人たちには、まず無いのだ。

天皇制に人間の平等は皆無。

中国の帝政でも
「皇帝・天皇がアホで暴政なら、犯罪者でも貧乏人でも外国人でも、庶民を食わせ生活を安んじれるのなら、皇帝を殺して、皇帝・天皇になっていい」
て究極の民主主義・人間の平等のからくりが有る。

でも

「天皇」は、国土を原爆で破壊し、住民を原爆と焼夷弾と特高警察・憲兵隊で殺し尽くしても無責任で無問題。

そりゃ、底辺高で、暴れないと、話が始まらないわけだ。



まあ「体罰は必要」なら、それで豚箱に入れば、間違いない。

けど、絶対に、体罰教師は、生徒・児童に身体・精神の障碍を負わせても、豚箱に入らず、賠償金も払わない。

て法の下の平等すら理解できない・対等の人間関係を築けない低能・無能で不道徳な教師は、
当然解雇で教員資格のはく奪は、当人の犯罪予防・生活の保護のためにも、必然の施策と導き出せるのだ。


まあ、体罰・奴隷教育・脳を破壊する教育を繰り返す、日本とその学校は、早晩死滅するので、

別に、死に至るまで、体罰を振るって、自分と生徒の脳を破壊し続けたら、いいだけの話なのである。


天皇家を殺し尽くして 日本人を救う


天皇の無い 蒼い空を取り戻す


慈悲と憐みに富む社会になりますように

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