天皇は、日本の没落と死滅の原因。

より

上記文抜粋
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《日本はなぜ没落したか?》匿名の学者集団「グループ1984年」が発表した“すごい予言”

匿名の学者集団による没落の予言が時代を超えてよみがえる――。京都大学名誉教授の佐伯啓思氏の「『日本の自殺』を読み直す」(「文藝春秋」2023年1月号)を一部転載します。

「日本の没落」を高々と予言した

 本誌に「日本の自殺」と題する論考が発表されたのは1975年2月特別号であった。その刺激的なタイトルが当時の論壇に多大な刺激を与えたことは想像に難くないが、話題提供はタイトルだけのことではない。確かに70年代の初頭には、戦後日本を支えた高度成長の終焉という気分が広がっていた。成長よりも環境へと世論は風向きを変えており、74年の成長率はマイナスになる。また列島改造を掲げて登場した田中角栄はこの74年に権力の座から退場していた。

 世界を見ても、71年のニクソン・ショック、73年の第四次中東戦争から石油ショックによる先進国の経済混乱は世界同時不況やスタグフレーションを引き起こそうとしていた。日本もその混乱の渦に巻き込まれていたとはいえ、それほど強い危機感に覆われていたわけではない。まだ高度成長の余熱はあったし、アメリカの混乱をよそに、先端産業の競争力への期待も多分にある。そういう時代に「日本の没落」を高々と予言したのが本論文である。

 著者名に「グループ一九八四年」とある。匿名の学者集団である。グループ名から推測できるように、本書は、オウエルの『一九八四年』をもじって、10年後の日本を予測するものともみなされた。

 では10年後、どうなったのか。80年代の半ば、日本は85年のプラザ合意によって点火されたかのようにバブル経済へ突入する。若い女性を中心として高級ブランド品の消費ブームが沸騰し、人々は明かりに群がる蛾の群れのように不夜城で踊っていた。1人当たりのGDPでほぼアメリカと並ぶまでになり、文字通り、戦後の悲願であった「アメリカへ追いつけ」が現実化しつつあった。

 それはまた、世界的な経済混乱の70年代後半を日本は見事に乗り切ったことを示している(この時期の成長率は4.4%である)。この頃、日本は、半導体、自動車、家電、機械などの先端産業分野で世界を牽引するまでになり、日米間に激しい「経済戦争」を引き起こす事態となっていた。少し後のバブル期になるが、私は、何人かの経済系の評論家やビジネスマンから「このままでいけば、日本は全く向かうところ敵なし、一人勝ちになるぞ」というようなご宣託を何度か聞かされたことを思いだす。

 では本書はカッサンドラの予言にも似て、誰にも信じてもらえない陰鬱な予言だったのだろうか。決してそうではない。それどころではない。本論文を読めば、この「グループ」の高い先見性に驚かされる。しかもそれは、われわれが、あの虚栄の80年代を知っておればこそ、なのである。

日本の本当の課題はどこにあるのか

 75年に発表された論文は、2012年(平成24年)に『文藝春秋』3月号に再録され、また同年に文春新書『日本の自殺』として書店にならぶこととなった。2012年といえば、前年に東日本大震災や福島の原発事故に見舞われ、民主党政権下、政治も経済も社会状況も混迷をきわめ、この年の総選挙後に第二次安倍政権が誕生するというその矢先である。

 そしてその後また10年が経過した。この10年をどう評価するかは難しい。アベノミクスの評価も難しい。新型コロナの3年があり、ロシアのウクライナ侵略があり、米中対立があり、混乱は世界中をかき回している。だが世界情勢はひとまずおいても、確かなのは、大半の日本人が「日本の没落」をかつてなく強く感じ取っているということだ。「日本の一人負け」などという自虐的な嘆息も聞かれるが、このままでは「日本に将来はない」という悲観的気分がこの列島に広がっている。

 だが、どうしてなのか。何が問題なのかとなると答えは判然としない。人口減少が原因なのか、グローバリズムと情報化に乗り遅れたからか、改革が進まないからなのか、財政赤字が問題なのか、イノベーションの出遅れと生産性の低下が問題なのか、政府の失政なのか、企業家の意識が低いからか、古い習慣と規制のせいなのか、はたまた中国が悪いのか。毎月の論壇誌や新聞・テレビ等のマスメディアを見れば、ありとあらゆる犯人捜しが掲載され、その候補は出尽くしている。だとすれば、それぞれの犯人候補を断罪すればよいわけで、「こうすれば日本は復活する」式の勇ましい提言も次々と繰り出される。

 こんな状態が、長く見れば、バブル崩壊の90年代以降30年以上続いているのである。そして、実際には、そのけたたましいほどの百家争鳴がかえって事態を混沌とさせているのではなかろうか。「専門家」と称するものの見解が対立し、誰も確かな見通しを持つことができない。また、多岐の分野において問題はいくらでも指摘できるし、その分野の専門家もいくらでもいる。専門家のアドヴァイスのもと、政府も何らかの対策を打ち出す。だがすべてが場当たり的で、そこに全体像が見えないために、結局、何をやってもうまくいかない。30年にわたって「改革」が連呼され続けてきたにもかかわらず、ほぼゼロ成長で、政治への信頼は失墜したままだ。

 おそらく、本当の課題は、特定の分野にあるのではなく、それを全体として見る見取り図の欠如にあるのだろう。歴史や世界を見渡し、そのなかで日本の図像を描き出す指針がなくなってしまったのである。見取り図の描きようがないのだ。だから、財政、イノベーション、所得格差、福祉、高齢化、教育、災害、環境、エネルギー、少数派の権利、それに安全保障(防衛)など、いくらでも個別の「問題」は指摘でき、それぞれの分野で「識者」が持論を述べる。確かに問題は山積している。だが、それをトータルに見る「文明論」が欠如している。われわれは、いかなる文明の中にいるのか。この文明の現状はいかなるものなのか。こうした論点がすっぽりと欠落しているのである。

ローマ帝国の衰退を参照して日本を論じる

 そこで『日本の自殺』を改めて読みかえしてみる。本書の最大の特徴は、何といっても、「日本の衰退」を壮大な文明論的な観点から論じ、しかもその文明論としてかの「ローマ帝国の衰退」を参照するという創見にある。ローマ帝国の衰退は、ゴート族やペルシャ人などの外部の「野蛮」の侵攻によって引き起こされたのではなく、その内部からの自壊にあった。ローマの崩壊は、その都市化、領土の拡張、富の蓄積、大衆の消費文化や享楽などといったローマの成功そのものの帰結だ、というのである。

 言い換えれば次のようになる。ローマの成功は経済的豊かさと巨大な都市化をもたらした。だがそれこそが伝統的共同体の破壊と大衆社会化状況を出現させ、その結果、市民・大衆の判断力や思考力が衰弱し、「パンとサーカス」という活力なき福祉国家へと行き着いた。そのことが福祉コストの増大やインフレを招き、また放埓なまでの自由、エゴイズム、悪平等、道徳観念の欠如を蔓延させるという悪循環へとローマを沈めていったのである。

 しかもこれはローマに限らず、普遍的な文明没落の法則とでもいうべきものであろう。この文明没落のサイクルをローマ人は自覚することができなかった。したがって、ローマは蛮族による侵入ではなく、市民の「魂」の荒廃によって、つまり自らの「内なる野蛮人」によって崩壊した。自壊していったのである。

大人が子供に合わせようとする社会に

 ローマの崩壊についてのこの解釈は特に目新しいものではなく、モンテスキューやギボンのローマ帝国衰亡史を踏襲したものといってよいが、本書の白眉は、この「文明の没落観」を70年代から80年代の日本に重ね合わせて、驚くべき説得力を発揮した点にある。論文が掲載された75年に著者たちはすでに次のように論じていた。いくつかのポイントがある。

 日本が達成した豊かさの結果、人々は精神の自立を失って、大量生産・大量消費に依存する万事「使い捨ての生活」へとなだれ込んだ。社会はマーケティング戦略に踊らされ、新奇なもの、一時のものに高い価値を与え、その結果、欲望はたえまなく刺激されて肥大化し、精神や生活の安定は失われる。
 また、大衆社会化は、豊かさを社会全体に行き渡らせたものの、その代償として、人間の思考力、判断力、それに倫理的能力の全般的衰弱と幼稚化をもたらした。こうした社会は、子供を大人に引き上げようとはせず、逆に大人が子供に合わせようとする。「適切なことと適切ではないこと」を見分ける繊細な判断力の欠如、他人の意見に対する尊重の欠落、過大なまでの自己愛。まさしくかつてホイジンガーが述べた現代文明の「幼稚化(ピュアリリズム)」そのものである(ホイジンガー『あしたの陰りのなかで』1935年)。

 さらに、情報化が、人々から直接的経験の感覚を奪い取ってゆく。マスコミの発達や大衆教育の普及は高度文明のあかしであるが、同時にそれは知力の低下や倫理力の全般的衰弱をもたらした。人々は、品質の悪い情報環境に取り囲まれて、皮相な知識や真偽不明のあやうい情報の受け売りに終始し、自分自身の直接的な経験をしっかりとみつめて自分の頭で物事を考えることを停止した。

 そこで、経験の希薄化に対して、記号的な世界が膨張する。人々は、マスコミによって見せつけられる膨大な記号的世界をいわば「疑似経験世界」とみなしてしまい、場合によっては現実とは似ても似つかない虚構の世界に身を委ねることになる。情報世界と現実世界の乖離は、現実生活において様々な不適応を引き起こすだろう。かくて社会的規模での「情報過多による神経症」が出現する。ここでもまた、情報化は、人々の思考力、判断力、それに情緒性を衰弱させ、文明のもたらす幼稚化と野蛮化をとめどなく拡大してゆくであろう。

 最後にもうひとつ述べておけば、文明の発達は多かれ少なかれ「平等主義のイデオロギー」を生み出した。ところがそれは、共同体を解体し、大衆社会化状況を作り出し、社会を風化し砂漠化してゆく。要するに、社会は砂粒のようなバラバラな個人の集まりとなって確かな秩序をもたなくなる。

「戦後民主主義」は「疑似民主主義」

 日本の場合、その典型が「戦後民主主義」や戦後の「民主教育」であった。たとえば、教育現場ではあえて成績のランクをつけず、人間の個性化や教育の多様化を排し、しばしばクラスの平均や底辺に水準を合わせた画一的教育が行われた。また、「民主教育」の推進者たちはエリート主義を否定したが、その結果として、たとえば「東大生もまた勇気あるエリート意識を喪失して幼稚化しつつある」。要するに、戦後民主主義の風潮のなかで、責任あるエリートが育たなくなったのである。

 戦後民主主義はまた、次のような特徴を示していた。第一に、それは、批判を許さない独断的で非経験科学的なドグマであった。第二に、それは、多元性を認めない全体主義的要素をもっていた。第三に、それは、もっぱら権利の主張に傾き、責任と義務を軽視した。第四に、それは、政治的指導者に対して強い批判を投げかけるものの、建設的な提案はしない。第五に、それは、エリート否定の半面として大衆迎合的であった。

 このように著者たちは主張している。むろん、これは民主主義そのものの否定ではない。戦後民主主義は真の民主主義ではなく「疑似民主主義」であった、と彼らはいう。真の民主主義は、決して大衆迎合をしないエリートや政治的指導者を必要とするのであり、社会集団や階層や意見における多元性を決して崩そうとはしないし、社会を画一化し、全体主義化するものではありえない。だが、日本の戦後民主主義のもつ平等主義(悪平等)のイデオロギーこそが、社会の均質化と画一化を推し進め、社会から活力をそいでいった。

 これが「日本の自殺」のプロセスだ。しかも、それは、ほとんど「文明の法則」とでも呼びたくなる歴史過程にほかならない。そこで著者たちはいくつかの教訓を引き出した。列挙しておこう。第一に、国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭したとき、経済社会は自壊する。第二に、国民は自分のことは自分で解決するという自立の精神をもたねばならない。福祉主義はそれを壊す。第三に、エリートが「精神の貴族主義」を失って大衆迎合に陥ったときに国は滅ぶ。第四に、年上の世代はいたずらに年下の世代にへつらってはならない。第五に、人間の幸福は決して賃金の額や年金の多寡や、物量の豊富さによって計れるものではない。人間を物欲を満たす動物とみなすとき、欲望は際限なく膨らみ、人は常に不平不満にとりつかれる。

 戦後日本は、確かに、物質的にはめざましい再建を果たしたが、道徳は荒廃し、魂は荒みきっている。日本はその個性を見失って茫然と立ち尽くしている。このように本書は述べるのである。

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抜粋終わり

何故に戦後日本が没落したか。

ここまで偉そうなことを言わんでもいいのです。そこそこあってますが。

アホだから


だけです。

天皇 という「上官責任」が無い糞外道を崇拝するアホ。

バブルの時にも、農林水産業・教育・福祉・医療には、まだ問題が山積していた。
それに投資して「次の不景気と、好景気にそなえて投資する」って馬鹿でない限りに、「まあお賽銭」程度でもしているはずが・・・。
それに気づかない超馬鹿が、「学者」だの「有名経営者」だの「経団連」だの「財務省・経産省」で、国家のトップが、そもそもアホ。


で、そもそも「天皇とその国家」には、福祉の概念が無い。


東京都の福祉を破壊したのが、天皇。なら最初から「天皇」ってやつの国家には、福祉など存在しないってのの証明である。

はやく天皇家を殺し尽くさないと、日本人は消滅だな。

上記文抜粋
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『自助努力』『自己責任』、『自主防衛』が基本的主張なのに、・・・『個人の武装』を主張しない政府自民党や「右翼」は胡散臭い

不思議な事に日本では国家の武装を主張する人(軍隊や戦争を否定する日本国憲法9条の削除とか改正論)はいても個人の武装を主張する人は一人もいませんが、これは主張が一貫していない。物事の根本を理解しておらず基本的に間違いである。
何故なら国家の武装(自主防衛)の基本思想は、他人に頼らず『自らを自らが守る』ことである筈で、それなら国家の武装の必要があるなら、それ以上に個人の武装が必要になる。2010年12月01日 | 憲法 マックス・ウエーバーと 「九条原理主義」


週刊新潮 2022年12月22日号の全国紙への広告文

コロナワクチン「不都合なデータ」徹底検証(★注、週刊新潮に次ぐ太文字タイトル)

追加接種推進の陰で超過死亡増加の謎 
一体何が起こっているのか・・・ 接種後死亡1908件を評価不能で逃げる政府・厚労省の怠慢 
接種者の方が感染者になり易い不思議 
一流科学誌「サイエンス」に「自然免疫を抑制」という論文 
季節性インフルエンザ並みに下がった致死率 今こそ考えるべき追加接種 子供への接種の是非

選挙で自公密着の深層「池田大作」かくも長き不在で公明党の落日

・・・・・・中略・・・・

「the bird is freed」(鳥は放たれた)

参議院議員選挙の2日前の7月8日「消えた弾丸」安倍殺しを契機に始まった(30年間封印されていた)反日カルト団体「統一協会」と政府自民党のズブズブの関係が暴かれる。
ところが、もっと政府自民党とズブズブの関係にある破壊的カルト宗教創価学会(公明党)はマスコミが怖がって見ざる聞かざる言わざる「知らぬ存ぜぬ」で押し通す。挙国一致の大本営発表で完全隠蔽されていて福岡市で起きた悲惨な小児餓死事件のマインドコントロールの真実が大手メディでは語られることは無かったのである。
イーロンマスクのTwitter買収によって、今までのドナルド・トランプ大統領やコロナウイルスやmRNAワクチンの永久凍結の解除処置に合わせて今回週刊新潮がとうとう恐ろしい新コロmRNAワクチン記事を書くことが出来て、大手全国紙が新聞広告を掲載した。

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もっとも驚く大ニュースとは

驚愕的なコロナ解禁「週刊新潮」広告の隣に掲載された「週刊文春」広告では、初めて「マインドコントロールしたママ友は創価学会員」を示唆する文言が書いてあった。とうとう「統一協会」バッシングを突破口にして新しいステージに突入しているのである(★注、対象物が巨大で分割出来ない社会科学では、すべての「物事の優先順位」こそが一番大事だった)

テレビのワイドショーで大々的に取り上げられていた特異な凶悪事件の裁判なのですから、当たり前ですが大手マスコミ記者が大勢傍聴していたのである。ところがフリーランス記者を含む全員が怖がって一切合切、(在日知識人の河信基以外は)誰も彼も「創価学会」を何も報じないヘタレなのですから腹が立つ。(人間として生まれた限りは一人の例外も無く必ず死ぬのである。自分が死ぬことが、そんなに怖いなら記者を名のるべきではない)2022年12月13日 | 政治 「新聞休刊日」妙に恥ずかしいニュース

一度身に付いた知識や教養、経験を誤らさせるのは困難だが「物事の優先順位」は簡単に混乱する

「お前たちは間違っている」今までが間違っていたとの左翼護憲派のオルタナティブな「逝きし世の面影」ブログが何度も繰り返し主張している基本的命題なのですが、
自然科学では正誤が、哲学や宗教では善悪が何よりも大切である。しかし対象物が巨大で分割出来ないし結果が現れるまで時間がかかる社会科学では、正誤も善悪もそれほど大切ではない。それどころか些細な正誤や善悪に拘る分だけ余計に「間違いの迷宮」から抜け出せなくなるのである。(★注、悪賢い詐欺師は見え透いた嘘では騙さない。小さな真実の欠片を「真実の全部」であるかの如く装って大勢を騙すのである)
社会科学で一番大事なのは、何が物事の主題で何が些末な枝葉であるかの「すべての物事の優先順位」なのである。たぶん、「消えた弾丸」の安倍殺しには何の意味も無くて、単にみんなが騒ぐことだけを目的として猫だましの赤いニシン(わざと間違いに誘導する偽の手掛かり)で、冷静になるだけで自ずと真実が見えてくる。

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抜粋終わり

嘘ばかりいうのが、帝政日本=天皇。

天皇には嘘しかない。

天皇は悪魔である。

天皇と言う嘘の本山を頂点とする、帝政日本。

知識人も天皇と言う妄想を信じることで、ようやく知にアクセスできる。ので、天皇の家畜になるのが、日本の多くの知識人なのである。

その狂気の源泉の「天皇」を破壊し尽くせば、日本人には栄光の未来しかない。

さもなくば・・

より

上記文抜粋
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中国の大手ポータル/ニュースサイトの網易は25日、韓国は中国に起原を持つ花火などを、自国の伝統文化であることにしようと動いているとして批判する文章を掲載した。同文章は、日本にも同様の行為があると論じた。以下は、その抄訳だ。なお、日本人読者のために、若干の情報を追加したことを、お断りする。

■花火や爆竹に危険性があるのは事実だが、中国の文化でもあった

わが国の花火や爆竹は、2000年以上の歴史を持つ。しかし花火や爆竹は2014年以来、安全面を理由に規制が厳しくなり、全面禁止に向かっている。2022年末までに、中国で花火や爆竹の禁止政策が制定された都市は138カ所に達する。

爆竹による火災はこれまで何度も発生してきた。安全上の問題があるのは事実だ。また、2006年1月には河南省の林州市内の花火工場で爆発事故が発生して16人が死亡した。それ以外にも、死者を伴う花火工場の事故は繰り返し発生している。花火や爆竹の製造を規制することは非常に大切だ。

ただし、花火と爆竹には歴史と文化が伴っている。各種の祝日や結婚式など祝いの場では、ほとんどの場合に爆竹が鳴らされてきた。特に春節(旧正月)の時期には、年間使用量の5割以上の爆竹が鳴らされた。新年を迎えるに当たっては、どの家も玄関を開けてまず爆竹を鳴らした。北宋の政治家で文人だった王安石(1021-1086年)は「元日」という詩に「爆竹の音の中で一歳が過ぎれば、春風はとそに暖かさを送り込む」などと表現している。

これが、われわれの生活文化だった。爆竹や花火は封建的な悪習ではなく、伝承文化の一部だった。それが全面的に禁止されつつあることは残念だ。中国では結婚式や春節の雰囲気を出すために、電子爆竹が使われるようになってしまった。

■韓国人は中国の文化を「自らのもの」として盗む、日本人もだ

端午の節句から伝統服、漢字や印刷術など、韓国はことごとく、われわれに先んじようとしてきた。これらの起原が中国になるのは明らかだが、韓国人は、「自らが長年利用してきたので、すでに自らの本性」になったという論理を少しばかり展開している。

そして韓国人は「花火」の分野にも手を伸ばしてきた。韓国は2020年、国連のユネスコで燃灯会の世界遺産登録が承認された。燃灯会は韓国全体に広がる風習で、旧暦4月8日の仏陀の誕生を祝う由緒ある仏教行事だ。そして行事の特徴は花火と花灯籠だ。

燃灯会は新羅時代(紀元前57年-935年)に始まり高麗による統一時代(918-1392年)に定着したとされる。朝鮮半島は古くから断続的に中原(中国中心部)に統治されており、文化の融合は避けられない。

韓国の燃灯会の世界遺産登録は、どう見てもわれわれの顔をひっぱたく行為に思える。さらにひどいことに、韓国人は中国の慣習を自分たちのものにして「逆ギレ」をする。例えば、中国の時代劇の「如意芳霏」について、韓国人ネットユーザーは「韓国の習慣を盗んだ」と批判した。

韓国人が「起原」についてどのように主張しようとも、われわれは「受身」で応戦してきただけだ。われわれは韓国人が文化を奪うことに対して、何もしてこなかった。ただ、少しばかり焦っただけだ。いや、焦りもしなかった。韓国でも燃灯会はそれほど盛んでなくなったが、燃灯会はいまだに世界無形文化遺産のままだ。なお、日本では今では囲碁をやる人がほとんどいないのに、日本人は五輪に際して囲碁文化を宣伝することになった。

■原因は中国人にもある、自らの文化を尊重しなかったからだ

われわれの文化は、われわれ自身が重視していないからこそ、日本や韓国に盗みの機会を与えているのだ。われわれは春節や中秋節など伝統的な祝日をほとんど重視しなくなった。春節には花火をやらなくなったし、親戚や友人を訪問することもしない。清明節に(亡くなった家族や先祖に捧げるために)紙を燃やすこともなくなったし、中秋節にも家族全員が集まらない。端午節は商業施設をぶらつく日になった。むしろクリスマスや感謝祭の方が盛り上がるぐらいだ。

われわれの元に、伝統的祝日の形式は残ったが、内なる文化はなくなってしまった。

一方で、日本人と韓国人はわれわれが捨てた文化を重宝している。中国の伝統文化を盗み、大きな成果を挙げてきた。中国人は深く考えねばならない。われわれは西洋文化を尊び、われわれの文化は失われつつある。

中国でこれ以上花火が禁止されたのでは、中国の花火を韓国が自国の世界無形文化遺産として登録することになる。確かに花火や爆竹には害があるが、制御することは可能だ。私は花火や爆竹の生産と、祝祭の際の使用を支持する。これは私たちの文化の一部だ。われわれが失ったら、本当に他の国の文化遺産になり、われわれのものではなくなるかもしれない。

今から50年後には、中国人の子らが「花火は韓国のもので、中国のものではない」と言っているかもしれない。そうなれば、実に大きな皮肉だ。そうはなってほしくはない。(翻訳・編集/如月隼人)

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抜粋終わり

中国が自分の文化を棄損したことを後悔している記事。

それは、日本にも当てはまる。

明治維新で、伝統的日本文化はその思想の部分を大破された。これも天皇と維新志士と言う売国奴と、米英とバチカンの詐術による。

それから大東亜戦争で、「戦争遂行」の名の元、日本文明は破壊し尽くされた。

挙句に、敗戦で、天皇家の命惜しさに、全土が米国の植民地になって70年。

数十年後には、神仏の信仰も、日本の諸芸や芸術も、「金欲しさ」に天皇家とそのセレブどもに売却され、日本人は絶滅し、日本は、日本以外にしか存在しなようになる。

これは「天皇」が有る限りに、確実な未来である。

死にたくなければ、天皇を壊せ

天皇家を殺し尽くして 日本人を救う

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


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