「自己責任論」「通俗道徳」は、カルトの温床である。
韓国の宗教事情を知ると、文化の異なる国に占領されると文化は内部崩壊するのだなぁとしみじみする。
— 福廣 (@anchorworks1971) October 29, 2023
キリスト教には先祖供養はないです。死んだら審判まで待機するから(そやし、復活のために遺体がいるのです)。でも、昔からやっていた儒教祭祀を捨てられないから、でも、儒教で先祖は五代まで。あと金がかかる。先祖が苦しんでると言うのは仏教の先祖供養の亜流。整合性がない。だのに、受け入れてしま
— 福廣 (@anchorworks1971) October 29, 2023
うのは、自分の人生がうまくいかないことを「苦しんでる先祖のせい」にできるから。それで金を捧げてよくなるのかというと、認知も行動も変わってないのにうまくいかない。でも、信仰が足りん、お前の背負っているものが重いからと言われるとまた金を積んでしまう。嗚呼!
— 福廣 (@anchorworks1971) October 29, 2023
昔からやっていた儒教祭祀を捨てられないから、でも、儒教で先祖は五代まで。あと金がかかる。先祖が苦しんでると言うのは仏教の先祖供養の亜流。整合性がない。だのに、受け入れてしまうのは、自分の人生がうまくいかないことを「苦しんでる先祖のせい」にできるから。それで金を捧げてよくなるのかというと、認知も行動も変わってないのにうまくいかない。でも、信仰が足りん、お前の背負っているものが重いからと言われるとまた金を積んでしまう。嗚呼!
再度載せるけど。
これって、つまるところ
「通俗道徳での、「努力即成功」ができないと、悪徳の烙印を押される」ってことから、逃げるため・あるいはその無謀な迫害からの脱出のために、「先祖のために自分が不幸」って決めつけることで、「自己責任論」で掛かる、不当な弾劾からの自責から逃れれるので・・・
自己努力・自己責任だけで、成功するわけがない。
それを「全部お前の責任」ってなると、自責して自死するとか、カルトに走るのは、当然な話になる。
――安丸さんは、勤勉に働くこと、倹約をすること、親孝行をすることといった、ごく普通に人びとが「よいおこない」として考える行為に注目します。これといった深い哲学的根拠に支えられるまでもなく、それらは「良いこと」として考えられています(だからそれは「通俗」道徳と呼ばれます)。
…(中略)…
安丸さんは、こうした通俗道徳の考え方がひろまったのは、江戸時代の後半であると言っています。江戸時代の後半に市場経済がひろがり、人びとの生活が不安定になったときに、自分で自分を律するための基準として、こうした思想が広まったというのです。
通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまいます。その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人びとは冷たい視線を向けるようになります。そればかりではありません。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力しなかった人である、ということになります。経済的な敗者は、道徳的な敗者になってしまい、「ダメ人間」であるという烙印をおされます。自分自身で「ああ自分はやっぱりダメ人間だったんだなあ」と思い込むことにもなります。これは支配者によっては都合のよい思想です。人びとが、自分たちから、自分が直面している困難を他人のせい、支配者のせいにしないで、自分の責任としてかぶってくれる思想だからです。こうした通俗道徳の「わな」に、人びとがはまってしまっていたことを、安丸さんは指摘したのです。――
努力が成功を保証する・・・て訳が無い。
「学問が、成功を保証するか」と孔子が弟子に聴かれて、それの判断を孔子はしなかった。
第一、孔子の門弟筆頭の顔回は餓死同様な病死で、早世した。
三国志の名軍師荀彧の息子の荀サンが
「成功するのは、その人の志向と努力が、時代・時勢に合致しただけ。成功したからと言って、その人が偉い・賢いとは、断定できない」
と言っている。
時代があえば、発達障害で障害者とされている人たちも、高度成長期とかは、普通に雇用されて、なんとか就労出来ていることも多かった。
今の過酷な就労環境では、少しでも空気を読めないと「障害者枠」でなければ、過去なら「大過ない」程度の発達障害でも、健常者枠での雇用は至難になっているし。
逆に、障碍者枠で、多くの障害者を以前より雇われることになった・・てそれでも就労を望むの人からしたら、少数の椅子でしかないが・・。
また、発達障害とか障害とかは、自己の努力だけでは如何とも出来ないことが多い。
それを「自己責任」言われても、無理な話・・・
そりゃ、国家・社会の不備を問えず、時勢の合わないことも指摘できないとなると、先祖を怨むか、邪教を信じるかしかないようになりもする・・
仏神を信じ、儒家的な倫理観なり思想を持てば、それなりに社会・国家に「突っ込み・糾弾」をするようになる。
下の者に直辞がなくなれば上の者は悪事を隠し立てするようになります。
人民がはばかってものを言わなければ、 上の者におごった行為があります。
昔、明君が上にあれば、下に直辞が多く、君が善を好めば、民がものを言わないことがありませんでした。
「下が忌みはばかって物を言わないことがなくなり、
当路には民に怨まれる政治がなくなり、
通人も窮人もそれぞれの分を守り、
賞罰が公平であり、
人には それぞれの待遇が与えられ、
国家間の侵伐がない。
そのようであれば、人民はその政治に安んじ、諸侯はその道義に帰服し、国を安んじたといえるでしょう」
その土台の信仰と思想を、通俗道徳・明治維新で、破壊される。
となると、統一教会だの、ソウカなり、耶蘇とかのカルトが跋扈するのは、必然なのだろうな。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。
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