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【観劇レポ】"人間"を描いた舞台 劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター」

観劇レポ、ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」(劇団四季・京都公演)です。

地元京都で公演してくれるということで、計3回観劇に行きました。

1幕もののノンストップ舞台。舞台セットはシンプルな彼の地の荒野のみ。劇団四季の「劇団」としての力を見せつけられるステージです。
ちなみにこの舞台、結構傾斜がきつそうなので、その上で踊って跳ねて歌ってるカンパニーの皆さん、ほんまに凄いと思います。僕なら即足腰痛めると思う。

ストーリーは、イエス・キリスト最後の7日間を描きます。僕はキリスト教にも、世界史としてのイエスについても特別明るいわけではなく、ユダの裏切り、ローマ帝国とそれに怯えるユダヤの民、イエスに尽くすマグダラのマリアなど、要素としてはある程度知っている、という程度。だからこそ、演劇エンターテイメントとして、ある意味素直に観劇しました。

音楽

ミュージカルといえば音楽。劇団四季作品でお馴染みのアンドリュー・ロイド・ウェバーによる音楽でストーリーが紡がれます。

ジーザス・クライストを題材にしているということで、パイプオルガンとか賛美歌とか、そういう系統の荘厳な音楽を想起しやすいですが、この作品は「ロックオペラ」。
ジーザスもユダもめちゃくちゃシャウトするし、わりとゴリゴリです。そしてどこか昭和歌謡のような雰囲気もある気がします…これは訳詞の影響かな?

ミュージカルコンサートなどでは、ジーザスのソロ曲で中盤のヘソ曲、「ゲッセマネの園」が有名だと思います。非常に複雑難解な曲で、ジーザスの悩み苦しみに音符がついたような、ミュージカルらしい大ナンバー。

多くの名もなき群衆

この作品は、ジーザスとユダ、そしてマリアを中心に描かれてはいますが、その時代に生きた人々の描かれ方に目を惹かれます。

ジーザスやユダなどのプリンシパルキャストを中心に見ると、愚かで弱くて、それでいてその声を無視できない圧力が一定ある、そんな民衆。
ジーザスを散々担ぎ上げておきながら、ひとたび失望すれば石を投げ罵声を浴びせる。ここに人の弱さ、人の世の辛さを感じざるを得ないのですが、一方で背景にあるローマの圧政を含みおくと、そんな過酷な世界での一筋の光だったジーザスにすがりたい気持ち、その唯一の希望が絶たれた時の絶望は理解できる。

演劇としては、やはり劇団四季の力と言う他ないですが、アンサンブルの方々の力強さは一級品。シンプルなセット、衣装の中でひときわ「当時の人たち」としての存在感が目立ちます。

ジーザスに円になってすがりつくところや、ジーザスを担ぎ上げて手を振るシーン、闇市など、アンサンブル映えする曲はやっぱりいいなと改めて感じました。

プリンシパル以外のキャラクターだと、ジーザスの使徒たちや、ジーザスを敵視する司祭たち、ヘロデ王、提督など。
司祭たちはテノール、バリトン、バスと男声の豊かさと裏腹に、ジーザスへのおそれと敵対心に満ちていて、ヘロデ王は1シーンの登場ですが、唯一拍手が起こる場面でもあり、珍しくやや陽気な音楽と併せて印象に残りやすい。

個人的には、提督が心揺れ動きながらジーザスをムチで打つところが、何度見ても辛かったです。初見時は、ジーザスを救ってやりたいと思いながら、民衆を抑えられずムチ打つ姿が情けなくも感じましたが、為政者としてはやむを得ないよねと、段々理解してきました。

ひとりの人・ジーザス

宗教観はいったん置かせていただくと、あくまでこの作品はジーザスを一人の人間として描いています。

冒頭のシーンでこそ、奇蹟の力の片鱗が見受けられますが、図らずも民衆を期待させ導くような立場になっている現状に悩み、人々の期待という重圧に苦しみ、神に対する怒りにも似た告白を叫ぶ、一人の青年。

ミュージカルの多くはエモーショナルに、表情も声色も豊かにストーリーが展開されることが多いですが、終盤では特に表情がほとんど変わらず、セリフも数少なくなる中で、運命を受け入れる様子を見せつけられる。語らないことで語られる心境、という点で、「演劇」としてのミュージカル作品だなと思います。

ラストの十字架に架けられるシーンは、文字通り息を呑みますし、ムチ打ちのシーンは本当に痛々しい。十字架に架けられて、手足を杭で固定される時も、金槌の音に併せて痙攣したように手足を動かされていて(たぶん)、言葉が正しいか分かりませんが、リアル、でした。

「裏切り者」のユダ

ユダと言えば、裏切り者の代名詞。ジーザスを裏切ったことからその汚名として現代まで語られる存在ですが、この作品を通じてユダを見ると、観れば観るほどにユダなりの苦しみや愛を感じることができます。ジーザスと同じく、彼もまた一人の悩める等身大の人間ということ。

ジーザスを神格化せず、一人の人として敬うからこそ、「一人の人」から離れていくかのようなジーザスを憂う。愛したジーザスを裏切ることを自分に課した神を呪い、舞台をのたうち回りながら叫ぶ姿は観ていて苦しい。

余談ですが終盤、どこぞの世紀末のアタタタみたいな格好で、宇宙人みたいな女性アンサンブルを引き連れて観客に語りかけ(歌いかけ)てくるのが、この作品のユーモアというかファンタジー要素というか…初見時はびっくりしました。びっくりというか、呆気にとられた。しかもこの時の曲(「スーパースター」)、めちゃくちゃ頭に残るんですよね…。そこまでの90分くらいを一瞬忘れるくらい「どうしたユダ?」という言葉が頭をよぎりました。
観劇2回目以降はそんなことなかったですし、ユダが現代人(観客)にこの物語の顛末を投げかけるというのは、作品として重要なパートだなと腹落ちするに至ります。

マグダラのマリア

ジーザスの母たる聖母マリアでなく、ジーザスに寄り添ったとされる女性のマリア。一説に娼婦といわれ、冒頭でもユダに卑しい的なことを言われます。

悩めるジーザスに「苦しむのはおよしなさい」と語りかけ、彼にささやかな癒しを与える存在。ジーザスへの「愛」を自覚して「こんなことってあるの」と歌いますが、彼女の愛は、古語的な「可愛い」に近いような気がしていて、いわゆる情動や恋愛とは違うと思います。憐れで愛しい、そんな感じ。

それがなんだ、と思うかもしれませんが、ジーザスを神格化している民衆、そしてそれに苦しむジーザスにとって、人として愛でられることの意味は大きいと思うんです。
そしてそれはユダも同様。マリアはひたすら寄り添い、ユダはジーザスを救うために裏切った。
ユダの裏切りの方がフィーチャーされがちですが、見ようによっては「ただ寄り添っただけ」で、「やり直すことはできないのですか」と歌うマリアも、ジーザスのためにもっとできることがあったのでは?と考えることもできる気がします。

総括

というわけで、JCSの感想でした。貴重な京都での公演は早くも終わってしまいましたが、これからジーザスは全国を巡ります。人間がもつエネルギーを感じ取れる作品なので、日本各地でそのエネルギーを放ってほしいです。

そして劇団四季の作品は、わりとサントラが出ているのですが、この作品は(たぶん)出ていない。これを書いている途中で、YouTubeに公四季さんがプロモーションとしてナンバー集をアップしてくださっていたので、宣伝しておきます。

地元での公演があれば、ぜひ観てみてください。

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