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無縁、公界、楽を読む

伊豆で合同会社アラハラスヤッホという小規模林業の会社を経営しながら、山を偏った視点で捉えなおす試みをしています。

今回は網野善彦さんの「無縁、公界、楽」を読みつつ考えたことを徒然。

駆け込み寺に櫛を投げ入れれば追手から逃れられる。
子供の遊びのような話だけれど、女性から離婚ができない時代においての数少ない女性がとれる行動の一つだった。
女性にとって不遇の時代だったんだなということも思いつつ、駆け込み寺の治外法権っぷりにおののく。制度を超える存在として無縁があった。


本を読んだ後、無縁について眺めている。

権力、血縁、主従など、あらゆる分かち難い関係性からの、個人としての無縁。
現代において、これらの縁を切ることは一見簡単だ。だけど制度的に取り込まれた縁切りは無縁とは呼べない。
社会制度を超えて存在する人々。ある意味では人でありながら人ではない存在たち。
力、穢れ、聖、神。非人で異形なものたちが世の中を闊歩する。無縁はそういう世界観に属する、もしくは属さざるを得ない存在たち。
中世の日本はこんな存在たちに困りながら押さえ込もうとしながら、受け入れたり力を借りたり、存在を保証したり真似したりしている。なんだか社会制度があらがえない何かの流れを受け入れているような感じもする。この扱いきれないエネルギーを竜と呼んでいたのかもしれない。
扱いきれないもの、異形のものは社会が落ち着くにつれてどんどん取り込まれて弾かれて差別されて見下された。現代の無縁はホームレスなのか。

無縁が無縁としていられた、その根拠に神が見える。
無縁を通して神が現れていた。無縁を通して神を見ていた。
穢れ、暴れ者、芸能、職人、僧、童。
違う世界に焦点があっている。
そこに神を見ている。

アジール、公界、楽などフィールドとしての無縁。
聖域と、自治区と公共、大きく三つの意味合いがあるように思う。
心が躍ったのは、寺に駆け込むことを森林に入ると言っていた、という文面。
山や山林自体のアジール性が、行き詰まったこの現代の妄想だけで終わらずに、1000年前と繋がっていたことに心が踊る。
公界の中では敵味方のない中立的な場を設定していたことは興味深い。
商業的、宗教的に力を持った公界は、領土を広めようとするような動きはあったんだろうか。イメージとしてはないように思う。
戦いの世の中で、別のレイヤーで世の流れを見ていたのではないか。

聖域というと原始的な呪術性をベースにした不可侵の領域のイメージが湧く。神性を外在化させることで、神性の存在をコミュニティで共有した。
この本の中ではブッダがちらつくけれど、どうもそれだけじゃなくてアミニズムも感じる。
ブッダは1人で他者であり自分だけど、アミニズムは自在の形で全ての存在の中に神性が現れる。

ブッダにしてもアミニズムにしても、どちらも外在化した神性であって、そこから自分自身の神性を捉えてきた。あらゆる聖なるもの、神社や巨石、ピラミッドなどの具体的なものから、柏手など動作も含めて。
その形や動作が、神性への入り口となって自分の神性に入っていく。
僕はその形や動作を「装置」と呼んでいるけど、装置が古くなってきたので、新しくする必要性を感じている。無縁、というよりは非人の世界への開かれを、ちょっと広げる必要性。でも装置を介することは若干回りくどい。

現代はゲリーボーネルさんのいうI am意識のように、直接自分の神性を捉える時代性に移行するタイミングなんじゃないか。とも思う。

アジールと家が結びついた時、人々は所有することでアジールを感じていたんじゃないか、とふと気づく。
あらゆる所有は自分の聖域を、自由と豊かさを得ようとする営みなのではないか。

無所有である無縁は、何を所有しようとしていたのか。
縁を切ることで、無縁という安全空間が生まれていた。安全空間というよりは、干渉から離れている状態といった方がより本質に近いのかもしれない。
世の中から離れることは、生きることから離れることでもある。生から離れた生き方。
生から離れることで、逆に力を身につける。よくわからない、制御できないエネルギーである竜と共にあるような。

では逆に、無縁や非人でなければ竜と共に生きていないのだろうか。
そうではないと思う。全ての道はローマに通ず。
全ての人の中に竜が見える、そしてその源泉はその人自身であるというような世界への「装置」はどこにあるんだろう。

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