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即興は「揺れ」と「枠」

僕は「即興」が得意でも豊富な経験があるわけではない。
ただ最近、昔は感じ得なかった見方が出来るようになった気がしているので、少し書いてみようと思った。

即興という言葉は、演劇、音楽、ダンスで頻繁に登場する。ごく簡単に言えば「決まった枠の中で自由にパフォーマンスすること」である。演劇なら「ここはコンビニで、あなたは店員でレジにいて、あなたはお客さんで入ってきて。店を出ていくところまでやろう。よーい、スタート!」と、最低限の設定を与え、後は目の前で進行する物語を見守る。俳優はその設定の範囲内で動く。演技力が求められるのである。
演技力というのは「らしさ・あるある再現力」である。店員はレジ打ちや品出しをしている。深夜なんかはワンオペで、品出しをして客がレジにいるのに気付かず、呼ばれて急ぎ足でレジに戻ったりする。客は入口から入ってきて、品物を見て悩んだり、トイレを借りたり、ポイントカードを会計後に出して煙たがられたりする。そんな多くの人が「わかる」と思われるような行動が、そのような人間「らしく」見えるので、「演技力が高い」と評価されるのだと思う。誇張しないモノマネである。また、店員や客という社会的立場の設定でなくとも「あなたは、ビビりです。さあこの椅子に座って」というだけで、俳優は、椅子の周りをぐるっと一周するとか、恐る恐る座ろうとするとか、「ビビり」らしい行動を思い浮かべながら演技をすることだろう。その演技力にストーリー展開を任せてみるのが「即興演劇」なのだ。

「鶴瓶のスジナシ!」を観たことがある人はいるだろうか。1998年から2014年にやっていた(らしい)。僕は放送ののちに、何かしらの映像で見たことがあるが、スタンダードな分かりやすい即興芝居だった。ある回は洋服店の舞台セットが用意されていて、小栗旬が服を触っていると、試着室から鶴瓶師匠が試着していた客っぽく出てくる。小栗旬は本当は客を演じるつもりで服を触っていたのだが、お互い配役を決めずに始めているので、自分は店員をすべきだなと切り替え、咄嗟に「服を商品として触る人」になった。それがあまりにも自然だったので、観客は配役のすれ違いがあったことに気付かなかった。

即興演劇は、ストーリーが決まっていないのにストーリーが進んでいく面白さがある。「らしい」登場人物は、「らしく」動いていく。その過程で見られる演技力に感心したり、時折覗かせる俳優自身の素っぽさに笑ったりする「揺れ」が「即興」の良さなのだ。

即興はダンスにもある。一番イメージしやすいダンスは、音に乗せて身体を動かすあの、ダンスだろう。ダンサーたちは音楽があれば、勝手に身体が動き出す。本能に近い感覚で、そのグルーヴ感を全身で表現する。
僕はたまに、ダンスバトルを見る。音楽がランダムに流れ、たとえ知らない音楽でも、その場で踊って見せる。音にハメたり、歌詞に寄り添ったり、難しい技を決めたりしてアピールし、どちらが良かったかを決めるのである。まるで振り付けがあるかのようで、最高に熱い。
ダンスには「コンテンポラリーダンス」というものも存在するが、この領域では、あまりに沢山の表現方法があるので(それら全て含めてコンテンポラリーと言われるせいもあるかも)、代表的なイメージを述べづらい。あまり馴染みがない人が見れば「これ何してるの?」と思われる作品も多い。ただ、何かしらのテーマを基に、身体を使って表現するものであることは間違いないと思う。その身体の様子や対応していく様子は、演劇と同じく「揺れ」が存在する。

ダンスバトルと併せて、ラップバトルの話をしてみたい。
日本では、若者を中心にヒップホップ・ミュージックの人気が高まっている。その中で「即興」が分かりやすいのがラップバトル(MCバトル)である。ラップのやり方の1つとして、即興でビートに乗せてリリック(歌詞)を紡ぐ「フリースタイル」がある。そのフリースタイルのスキルを競うのがラップバトルなのだが、やはり対戦相手や対戦者のコンディションで「揺れ」がある。バトルという形式は「揺れ」を最大限に引き出す場である。だから面白い。

ところで、ラップバトルは基本、開始前に「○バース○小節」と決めて開始する。その限られた「枠」の中でどのようにスキルを見せるかというのが重要になってくる。これはダンスも同様だし、演劇についても設定や場所の「枠」がある。「揺れ」を強調してきたが、「枠」も即興に大切な要素であることを強調したい。自由だけど「枠」があるのである。

あとは音楽。中でもジャズは特に「即興」のイメージが強い気がする。曲の途中にソロパートがあって、奏者ごとにパフォーマンスを行い、あるタイミングで皆ぴったり曲に戻るのである。心が通じているかのように鮮やかで、僕が大好きな瞬間である。音楽はそもそも「揺れ」ばかりである。全てが均一なものが良ければ、打ち込みの音で良いわけだし、音に奏者の「揺れ」が感じられるから魅力的に聴こえるのだと思う。

僕は少しだけドラムを習っているのだが、その先生がこう話してくれた。
「知り合いに、すごく優秀なドラマーがいて、譜面通りに、本当に機械のように正確に叩く完璧なドラマーがいる。勿論、僕(先生)は彼には到底及ばないけど、意外と彼は選ばれない」
もしかしたら僕らは、表現に人間っぽさを求めているのかもしれない。

即興でやっているように見えても、テンポキープするとか、コード進行が決まっている中で音を紡ぐとか、何かしら「枠」が存在するはずである。もし読者が音楽関係者なら、教えて欲しい。

「揺れ」と「枠」。このように言葉を並べてみると、この2つはなんだか対照的な印象を持つ。動的なものと静的なもの、はみ出すことと整うこと、という印象である。この2つを行き来するのが「即興」なのかもしれない。その2つを両輪として蛇行運転する車両に乗り合わせた乗客が「観客」なのである。結果的にどこに行きつくのか分からない冒険をするから、魅力的なのだと思う。

ところで「即興しまーす」と言って、素人が動いてみせたところで、あまり評価は得られない。「即興」には「枠」があるのであり、それは「土台」でもある。洗練された職人技術がキラリと光る瞬間が最も美しい。

即興を難しいと感じる人は少なくない。それは大抵、目の前で起きていることを脳で理解しようとしているからだと思う。もう少し身体を楽にして、火をぼーっと見るような感覚とか、ダンスフロアで音に身体を預けるような感覚とか、そういう見方をしたい。理解して欲しければ、それなりに丁寧に説明されるし、そうでなければ「感じて!」ということである。でもそれされ、言われないと出来ない人が多い。そのジャンルに縁のない人は特に戸惑う。誰にでも広く楽しんで欲しいというのであれば、主催者側はそういったケアが不可欠だ。逆に理解して楽しみたい人は、音楽を勉強してみるとか、何か創作をしてみるとかすると、見えないものが見えてくる。僕はまだ「このコード進行やばい、痺れるね」と言われても分からない。でも楽しいのは、耳だけじゃなくて五感全部で聴く意識が、少しずつ生まれているからだと思っている。

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