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もしも、鳩が鳴いたなら。【第57回北日本文学賞3次選考通過】

 いつのまにかこんなところまできていた。わたしがたたずむのは白いたてじまで結ばれた横断歩道、ぱっぽぅ、ぱっぽぅ、のんびり鳩が鳴いている。信号待ちの交差点、吹きでるメロディに背を押されのろのろ進む。
 向こう岸には祈りを捧げるよう、黒い日傘がふたつ並んでいた。だれ? 風にはためかない、身にきっちりついたワンピース。そう、たしか、お葬式のときに見たのだ。横目で知られぬように会釈しながら。もしかしたら、遠い知りあいかもしれない、わたしは通りすぎてゆく。
 陽射しはわたしをこげつかせようとしていた。うなじに二の腕、さらけだした肌はことごとく、焼いてしまえとまっさきに火に包まれてゆく。またたきした。ゆく先にはもう、半分ほども溶かされた老婆が、駐車場の金網のフェンスに十指をからめ、かろうじて足腰たたせへばりついていた。
 白と茶がいりまじるとろとろのしずく、マンション一階には廃業になったレストラン、コードの切れた、のざらしですすけたみどりいろの公衆電話、かけたらどこにつながる、わたしのあの子にもつないでくれるの? 汗でぴっとり貼りついたデニムなんかはいてくるのではなかった。からからのアスファルトから蒸し立つ熱風に麦わら帽子が飛ばぬよう、きゅっとてのひらでふたをした。
 最寄り駅まではあと少し、あの歩道橋渡ったら見えてくる。ポケットで鳴る小銭は浮きでたさざなみ、だれかがいれてくれたのね。赤いポストの貯金箱にはなんにもなかった。てすりにはほこりがついていた。わたしのふれたところから、わたしのあとがついてゆく。ひび割れた階段踏みしめ、中空に浮いたわたしは四方にのびる脚の好きなほうへ、カアと現れたカラスは階段のおどり場を占拠する。
 生ゴミもお弁当ガラも転がってないよ、近くにある自然公園をねぐらに、腐った臭いをかぎつけ早朝から仲間を呼ぶかしこい子たち。もう、そんなに腐ってた? ねえ、あなたたち、悪口がきこえてるんでしょう? いったひとの顔を覚えてるんでしょう? じっと目ン玉あわせ、つつかれぬよう端っこをそろそろ歩く。
 ほんとにいくの? 自転車こいで数分先に住む隣人は眉ひそめそういった。毛並みのよい猫をでっぷりした腹の上に乗せ、つっかけたサンダルからはみでる太い足、赤いペデュキュアは先っぽがはげかけている。
 そうよ、いくの。胸張って答えるわたしに、へええ、そうなの、間延びした声で大げさにうなずく。首まわりのよれたTシャツはいたるところが黄ばみ、腐りかけた桃のよう。ねえ、あんた、名前は? このひとは最初からえらそうで、引っ越しの挨拶に、ええと、その、いいよどむ女を前にふふんとせせら笑う、もしかして、名前、忘れちゃったの? たったそれだけで、どうしてそうも勝ち誇る。はあ、まあ、ぼんやりしてるのねえ! スイカであんたの頭をかち割ってやりたい、あいにく手ごろなスイカはそのへんに転がっていなくて、では、さようなら、二度と会うまいと別れたのだ。
 大通りにでた。駅まではあと少し。もうすぐ見えてくる。テラス席のある美容室、結局一度も入らずじまい、寝そべるチェアのかたわらには干からびたモンステラ、お水を、のどがかわいてしまうね。出汁の匂いがむわっと香るお寿司屋さん、ランチタイムのにゅう麺がおいしくて、一度いったきり、またいこうねって思ううちにたどり着けず、さよなら、また、またね、わたしは駅へ向かう。
 蟻がなにかを運んでいた。はねが片っぽ食い破られた蝉の死骸、だいじょうぶ、ベランダに飛びこんで死んだふり、ふいに鳴いてわたしを驚かせたりはもうしない。たとえようもないほどに死んでいた。小さな子たちでも寄り集まったら何倍も大きなものを動かせる。きっと、巣穴でおいしくいただくのね、わたしまでちょっぴりおなかがすいてしまった。
 半分きったドーナツみたいなゲートをくぐり、おひさまを反射するステンドグラスのホールにでた。孔雀が羽ひろげたような、レース編みみたいな、何色に輝くかもわからない。まぶしさに目を細め、てっぺんに掲示された時刻表を見つめる。明滅するランプがそのときを告げていた。これで、たりるかな。ポケットからわたしは小銭をとりだした。どきどきしながら、切符を、一枚くださいな、ほの白い壁にそうっと呼びかける。うすっぺらいガラス越しに、あなたとわたし、ちらりと目があった。
 …………へいくんですか? どうしてわかったの。そうです。わたしはうれしくてほほえんだ。本当に…………でいいんですね? 帽子をまぶかにかぶった駅員は二度、念を押した。そうです。本当に…………でいいんですね? どうしてそんなにきいてくるの? 顔にでていたようだった。確認が、必要なんです。まちがっていたらたいへんですから。ほっといてよ、なんだっていいじゃない。ひきとめられているような、せっかくいく気になったのに。だんだんにいや気のさしたわたしは耐えきれず小銭を投げつけた。
 うるさい。うるさい。どこにいたってうるさいんだ。残った髪の毛をかきむしる。指の間に抜けた毛が、うるさいっ。地団駄ふんで、お月さまをぶった切った小窓からひったくるよう切符をつかみ、検札の穴さえすっぽかし、なめくじ這う湿った穴ぐらを走り抜けてはホームにおどりでる。
 ざあっと風が吹きこんだ。駅に隣接する駐輪場のそのまた横、木造の腐りかけた空き家から突きでた葉っぱはさくらの樹、刃のかけたはさみのような輪郭はわたしの頬を切り、陽に透けて重なりちっぽけな陰をつくる。息をととのえた。
 待合室にはだれもいない。ここから乗るのは、きょうはきっとわたしだけ。ほら、やっぱりいくので正解だった。たばこの吸殻が一本、落ちていた。ホームは禁煙なのに。みえないだれかに注意してやりたい、わたしはつま先でそれを蹴った。
 S字に蛇行するホームと電車のあいだ、幅の広い溝があいていた。…………から快速急行になります、お乗り間違えのないよう、ご注意ください、ください、さい。繰り返し到来を告げるアナウンス、もうじゃまものはどこにもいない。
 炭酸が息するようドアが開いた。もし。溝にはまってしまったら。もし。踏切に閉じこめられてしまったら。小さいころから、ずっと、ずっと、わたしはおびえていた。
 えんじ色のちくちくした座席は二列に並び、どんより前ならえ、なるべくなら窓際がいい、空が曇ればすぐにわかるから。頬杖ついてそとを眺める。座りをたしかめるよう、首をゆらしたら。ぽきりと骨が鳴った。シートのクッションは、お尻をのせてもすぐに沈んだりしない、わたしはへたりこんだおうちのソファを思いだした。わたしの重みを思案しながら、からだの線にあわせてじっくりくぼんでゆく。
 線路沿いにはたくさんのマンション。もう、会えないけれど、昔の友だちが住んでいたのを知っている。棟が多すぎで見分けがつかなくて、わたしは何度も迷子になり、友だちに迎えにきてもらった。
 パンツやブラジャー、タオルにTシャツ、てのひらサイズのビキニ、空気を入れたままのビニールプール。ベランダを泳ぐ洗濯もの、ふいにひまわりいろの屋根が目についた。こっちを向いた窓のなかには、木のようなものでつくられた船の模型が飾られていた。風がまわったら空に浮くのかな、でも、そんなに目立ったら火をつけられないかな、そんなのよけいなおせっかい、ヨットを吊ったおうちは静かに眠っている。
 ごう、うなる鈍い音たてじぐざぐに揺れるたび、頭に手をやった。飛んでかないようにしなきゃ、窓のそとはいつのまにやら深い海、波にさらわれたらくらげがしがみついて返ってこないから。帽子はこれっきり、わたし、もう、あんまりなにも持ってないよ。
 そうだった、ポケットのなかから飴玉をひとつ取りだす。サイダーのレモン味、奥歯で噛みしめたらシュワっとはじけた。ぎりぎりまでゆっくり舐めて、泡かき消すのがいつもの食べ方、壊さないよう舌でもてあそぶ。
 通路の後ろのほうから、となりに座らないで、ゆったりしたいでしょう? ささやかな願いもむなしく、がらがらの車両のなか、どうしてかわたしのそばにくるのはだあれ。
 ボールペンのインク使い切るためのらくがき、わんわん描かれた輪が、てんでばらばらに散った輪郭は姿変えようと深呼吸、どうやら、ひとではない。大入道のようなそれは、とがった耳のような細長いつつの先からしゅうと空気もらしてはのろのろ収縮し、ボストンバッグくらいの大きさに、いや、それでもまだ足らないからと余分なかたまり削ぎ落とし、身近なものになりきろうとする。わたしといっしょ、とろける煙のままでいたらいいのに、空にまぎれて遠くへゆけるよ。
 最後に残った、米粒くらいの飴玉の残骸はわたしに溶け、靴で踏んだあとのねじれた鼻先、どこかで見たのだ、うねった細長い舌で巣穴を吸いつくす。アリクイだった。
 ねえ、蟻を食べるの? そうね、食べるんじゃない。なんてったってアリクイなんだから。食べるでしょ。ねえ、服を着てるの? 薄茶にすすけた白い毛皮に、黒い肩ひもがはしっている。そうかもね。動物園て、くさいね。そうね。ぼくたちも、くさいのかな。お風呂にはいらなきゃ、くさいわね。
 ねえ、きっと、わたしたちうまくやっていた。だって、こんなにもたくさんの座席のなか、たったふたりきり横並びになって、おしゃべりなんかしなくても通りすぎる景色に目をやって、おなかがすいたらご飯を食べて、虹色にひかる花を見つけたら、きれいね、きれいねってうなずきあって、にぎったおててはちいちゃくて、鉄棒をにぎった砂の匂い、ぷんとくさい足のうら、シャワーで砂ぼこりを流してからリビングへと、何度あらってもくさくて、あしゆびの間も、爪の間もしっかり洗いなさいって、ごめんね、ごめんね、なんだか、わたし、まぶたが重くて、ひっついて、うとうとしてきた。
 次は…………。次は…………。お忘れもののないよう、ご注意ください。あっという間についてしまった。
 握りしめた切符はてのひらの熱でふやけている。なまぐさい、潮の香りがした。わたしが降りるまでドアは開いている。
 このまま線路に降り、向こう岸に渡るのがいちばんはやい。こっそりずるしてやろうかな、快速急行の止まらない停車駅にいるのはわたしひとり、ねえ、となりに話しける。さっきのあいつ、違う駅でおりたのか、自動ドアが空気の抜ける音たてたときに、すうとすり抜けた、白地に黒いベストを着たような毛皮は消えていた。
 もうわたししかいないんだ。わたし、どこへゆくんだっけ。洗濯ものをたたんで、たちあがったら、次になにをしたいか忘れてしまった。わたしは、いっしょうけんめいに頭を悩ませた。お忘れもののないよう、アナウンスが響いた。
 とにかく、降りなきゃ、灰をかためたような、白っぽい、でも黒いつぶつぶのまじった匂い、先の見えない階段はホームの中央から空へのびていた。幅のせまい階段は、ちぢんでしまったわたしの足でもぜんぶは乗り切らない。
 しょうがなくつま先立ちに、もつれながらも転がるゴム毬のびよんとした弾力になりたい、さっき食べたあまい飴玉の溶け残った砂糖かす、舌でこそぎ取ろうとますます奥歯にはさまって、まっしろなホームだった。
 どっちへゆけばいい、きょろきょろするうちに、後ろから忍び寄る、きっぷをちょっきん、おかえりなさい、先ほどとはうって変わって柔和な笑みの駅員は前髪そろえるような優しさでぴかりと輝くはさみを入れた。あ。ありがとうございます。いいえ。駅員は軽く、うなずいたようだった。あの、もし、もしも。打ち明け話をぜんぶ、背をなできいてくれそうな、話しかけたわたしに駅員は変わらずほほえんだ。どうか、しましたか? 正面きって問われたなら。
 なんでもありません。てのひら見せてうそはついていません。学級会でクラスのみんなのまえ、宣言したような、わたしは、ほんとうのことをいっていたろうか。なんでもありません。なんにもいえるものはなかった。さよなら。さようなら。いってらっしゃいと手を振られた。うん。わたしは肩から腕まわし振り返した。
 改札のそとへ一歩踏みだす。さらさら流れる砂浜、せっかくだからとスニーカーを脱ぐ。ぶかぶかで、歩くたびにかかとがこすれる。はだしでゆこう、もう、なんにもこわくないから。親指の爪からしんしんと、くるぶしまでの浅瀬がひろがっていた。
 雑居ビルが立ち並ぶ通りにでた。目抜探偵、ご用はこちらまで。くんとカールしたまつげが迫る黒いひとつ目の看板、飽きもせずてっぺんからこちらを見張っている。いつか、依頼してみたら。わたしにもだれかにきざまれた過去があったかな。
 しっぽの生えたマイクの看板、高らかにその身を差しだして、飲めよ歌えよと享楽うながす。歌が、歌がへたくそで。はっぴばーすでぃも鼻歌でごまかしていた。
 お高くとまったバレエ教室、盗み見たガラスの隙間からは頼りないバーが一本生えていた。それでもつかまっていたら。わたしもトゥ・シューズをはけたのかな。
 横断歩道のきれぎれにかすれた白線、ぼんやりにじんでは波打ち際にお寄りください、手の甲埋めつくすしわしわのちりめん皺、精緻に描くのはもうやめた、投げやりになった蜘蛛の巣を陽のひかりがうっすらなぞりながら揺れている。
 泥団子の仕上げにまぶすまじりけのないさら砂を蹴散らす。熱された塩水は生ぬるい。そうだ。沸かしたやかん、家をでるとき麦茶のパックを買い忘れてしまった、もうもどれない、のどが渇いたとなげいてももうおしまい。ごめんね。ごめんね。
 しぶき上げるよう、わざと大股に闊歩する。三つ折りの裾はじんわり湿り、少し濃い青になって、そのうち消えてゆくから。
 …………返却期限が、すぎていますので、ただちに、ご返却ください。ひややかに告げる留守番電話、明滅するランプがまぶしくて毛羽だったタオルをかぶせた。黙って。しずかにして。てのひらサイズの文庫本、読もう読もうとしおりの位置だけずらして置き去りに、どんなタイトルだったかも忘れてしまった。
 とうもろこしをかじって歯の抜けた少年が歯を拾い集めるため旅をする、そんな話だった。かわいそうに、茹でたとうもろこし、ちょっとかじっただけでぽろと歯が抜けたのだ。しなびた稲穂いろの実と、前歯はかたちがよく似ていて、はらっぱのなか落ちたら見分けがつかなくて、一本抜けたら次から次へと飛びだして、もう帰らないよ、まってまって、少年は虫とり網で追いかける。見つかりっこないのに。さよならも告げず彼は旅にでてしまった。ぴょんぴょん跳ねる歯はどこまでも駆けてゆく。
 揚げたてのコロッケを売るはずのなかむら屋、乾いた衣のかすが風にさらわれる。ひたひたしたたる海流のした、うっすらレンガが入り組んだ迷路模様、さまよいながらくるぶしを冷やす。商店街とそのままに掲げるアーケード、はがれかけたペンキはきっと打ち捨てられる。ドライフラワーが軒先でひそひそ話、枯れたカスミソウに道路の真ん中ふさぐ花屋のバケツ、みんな空に溶けてゆく。
 ほの白い月が浮かんでいた。まんまるお月さまが天頂に、さみしくならないように三日月の、十六夜の、上弦の、ばらばらに散った月の影、空にひとつではなかったか。ゆったりまたたきするわたしのせい? つかめるはずもない、のばしたてのひらの先、爪はいつのまにか短く切りそろえられていた。
 白い部分がよく見えるようゆったり育ててきたのに、赤んぼが小さなハサミで刈り取られるよう、薄い桃色の際、ぎりぎりまで丁寧に切られている。ああ、もうマニュキアを塗れないんだ、爪を塗るのがへたくそで、透明なトップコートだけを塗っていた、薬指にはめていた指輪も落とされてしまった。
 かかとをわざと揺らす。さざなみがまとわりつくしわになって、幾重にも薄い波紋を重ねてゆく。と、ま、れ。の白抜きの文字、だれもいない交差点で変わらぬ信号を待つ。鳩はもう鳴いていない。
 いつになったらゆこう。ほんの一メートルほどの申しわけなさそうな十字路、角にはほこりまみれの薬屋さん、色あせた洗剤の箱がアルミラックのてっぺんにあった。粉をすくうスプーンはひび割れたプラスチック、がさごそすきま風が吹く。
 向かいにあるのは古いおうちを改装したカフェで、恥ずかしげもなく往来に面した椅子のうえ、湯気の立つコーヒーをどうぞ。そんなところに置いたらだれも座れないよ。間違えて踏んだらどうするの。だめだよ、はやく飲まなきゃ。いっしょうけんめい叫んでるのにぜんぜんとどかない。
 おそるおそる車も自転車も三輪車もなにもかも通らぬよう、みぎ、ひだり、あおぎ見て渡る。かわりに飲んであげなきゃ。よけいな使命感に駆られるのはどうして。膝を蹴り上げる、まて、まて、まて。届くはずもない、気づけば大盛りのキャベツが名物のお好み焼き屋まできていた。
 ふいに影がよぎった。黒地のオーバーオール、ああ、さっきのあの子。よつんばいになりながら、しぶき上げ悠然と道路を横切る。突きでた鼻先で蟻を食うという、きっと巣穴を探している。
 錆びたすべり台に、片側にばかり身を寄せるシーソーひとつ、小さな公園があった。線路脇の、急行が通るたびに砂が舞い、ごうと空鳴らす。犬猫の糞尿にまみれた砂場、はげた地面には雑草すら生えやしない。ねえ、餌なんかないよ。なんにも食べられないよ。
 ぼくの歯を知りませんか? 歯を追いかけた少年は。レンガ造りの街のなか、まぶかに鹿撃ち帽をかぶった男に尋ねる。肩でふうわり風をおこすコートを着こんだ探偵きどりのみじめったらしさ。きっとあっちだよ。あてずっぽうの推理を真に受け、冬の森へと突き進む。歌をうたう妖精たち、ふぶく雪に身を凍らせ、あしゆびも指先もまっかっか。むらさき色のしもやけになって、ぱんぱんにふくれたらひとつめの関節までも曲げられない。ひらひら積もる雪のしたを掘ったのだ。
 春に咲く花の根のとなり、皮つきやぶるようそこで眠っているはずだから。つめの間に湿った土が入りこんで、いくらけずってもとれやしない。どろどろに濡れた雪は指先から皮膚のした、青く流れる血脈さえもちくちく凍らせる。ねえ、どこにもなかったよ。とちゅうのみちで靴が脱げてしまった。少年ははだしでいう。だったらあっちだよ。パイプくゆらせ男はうなずく。鼻からもくもく煙をだして、川沿いの工場は薄桃色の煙突をしていた。
 まわり続けるエスカレーターはキャンプ場で聴いたバードコールのさえずりを奏でる。細長い板チョコレートをレンガのおうちのように積んで、てのひらに収まる四角い木切れには挿しこまれたねじひとつ。えぐるようひねってやる。耳に障るかん高い叫び声、小鳥に成りかわってなかまを呼ぶ。ぽつんと頬を殴るなにか、帽子のないどんぐりが落とされていた。枝と葉の重なるあたり、透明なひとがたがむしっているのだろう。
 ぼくの歯を知りませんか? かさかさの葉っぱを一枚ずつめくる。顔だす蟻さんは知らんぷり。ぱらぱらつぶてになるどんぐり。傘なんかあるわけもない。手近なビルに逃げこんだ。がしゃんと閉まるエレベーターのなか、何階にいきますか? けだるそうなボタンに急かされる。どこでもいいからはやく、押したらぴかと光るから、七十九階のボタンを押そうとして、でも奥に押しこんだらだめだ。よけいに見つからないじゃないか。ちくしょう、背を照らす鏡をにぎりこぶしで殴る。えい、えい。ひび割れたらよかったのに。
 えい。ひじから先が通り抜け、冷えた風が吹いた。泳ぐ指先は空をつかむ。おせっかいな重力はぐんぐん背をのばし、止まらないエレベーター、降りなきゃだめなのに。しかたなしにと鏡の向こう、どんとぼくを突き飛ばす。落ちながら浮いていた。
 S字にゆがんだ線路、快速急行が走っていた。みどりいろの急斜面には黄色い屋根のおうち、けたたましく転がるボール、だれも拾いにいかないからどんどん離れてゆく。地につま先がつきそうに、バタ足しながら空のきざはし駆けあがる。
 あれ? ブランコに腰かけていたわたしはふと頭に手をやる。かぶっていたはずの麦わら帽子、からっぽになっていた。どこで落としてしまったのか。はっとカラスのくちばしに頬をつつかれる。お尻のポケット、鈴鳴らす小銭も消えていた。
 駅で買ったのは一枚の片道切符、お金がないと電車には乗れないよ。どうしようどうしよう、のばした足を折り曲げて、またのばして、振り子になってブランコをこぐ。そうか、でも、帰らなきゃいいんだ。いったきりでもだいじょうぶ、帰り道が同じなんて、そんなのもうそだから。てっぺんまできたら錆びたくさりから手をはなして、てのひらになすりつけられた鉄臭い汚れは舐めたらどんな味になる、飛び降りるタイミングをこっそり探しながら。
 ふわふわの雲のうえに寝転がって、そんなゆめを抱いていた。ひょいと乗せたつま先はあっけなくかすれ、腕をぶんと振ったらはやく走れるから、ぼくはどんどん夕陽に引き寄せられる。頭押さえつけられゆがんだ輪は手をつなぐフォークダンス。のびちぢみしながら燃えている。
 高架橋にのしかかるまえに、まって、まって、とがったどんぐりの帽子、ちくちく足裏から道案内、たどっていけば目印になるよ、ふいにホームのベンチに置き忘れた虫取り網が浮かんだ。ぐねぐねに曲がる竿の、狙った向きと真逆に網をかけるいやなやつ。でももういいや。線路の落としものをすくい取るのに使われる、そのほうがいい。真正面から鼻のあなに風がどんどん入ってきて、苦しくってぼくは息ができない。
 直接見たらだめだよ。目がつぶれるよ。そうだ、陽に溶けるかもしれない、それでもいい。まるい輪っかをくぐった。背の低い書架が並んでいる。太くうねったみどりのみのむし、パンケーキを焼く熊、てぶくろを買いにいくきつね。ぱらりとページをめくったら。跳ね上がる永遠の少年、ぱじゃまの子どもたちと空を飛んでいる。背にはられたラベルは七色の虹のおすそわけ、手垢のべっとりついた切れ端は黒くよれていた。中央図書館の二階は絵本がいっぱい、左巻きのかたつむりは長生きなんだって、理科の授業でせんせいがいってた。ぽつぽつ降りたらおとなの本、ぼくはぶ厚い百科事典の「は」を背伸びして引き抜いた。
 わたしは自転車をこいでいる。さくらみち、石に刻まれた遊歩道、ばさばさにのびた木々はあおぐあの日のうちわ。かきまわすだけかきまわして、ぴったり冷えきる前のぬるい匂いがした。ひとひらの葉が降りる。湿った夕陽いろの、まだらになった葉っぱには小さな虫食い、水けの失われたそれは、もう木陰をつくらない。
 えいっとブランコからお尻を浮かせて、砂場の向こうに着地したはずだったのに。道路に寝そべって空を見たのだ。タイヤがアスファルトを蹴るたびに、お尻が持ち上がった。飛んでいたのはまばたきを二回、する間、あとはどんどん落ちてった。
 川沿いのさくら並木は大雨がきたらご用心。真っ赤に塗られた地図、ちゃぷちゃぷ浮かぶ車輪は、ふたり入ればぎゅうぎゅうの湯船にあそぶレストランでもらったおまけのおもちゃ。お水をね、スコップですくってね、ここにいれるの。からまわりしながら水落とすかんらん車、きょうは赤いろ、きのうはみどり、むらさきいろの日もあるよ。夜になったら明日のお天気を知らせている。
 風雨にさらされたチェーンは濁っていて、油をさしても元にはもどらない。充電をする電動自転車はとっても便利で、わたしはすいすいどこへでもゆけるのだと思っていた。
 ペダルを踏むたびきしきし歌う小鳥、窓辺の手すりにきていたつがいのあの子たち。ガムテープで補修されたワイヤーのバスケット、陽に焼け黄ばんだ文庫本はどんどんめくられてゆく。
 すべる紙は薄くて平べったくて、は、は、は、は、いつしかおお笑いになった。めくってもめくっても歯がない。は・じめまして。は・っぱがおちた。は・やくして。抜き忘れたしおりならそこにあるはずだった、ぼくは後ろの頭から床に倒れこむ。その拍子に「は」の百科事典がいつか当たったバレーボールのようにしたたかに鼻の頭を殴りつけた。
 …………返却期限が、すぎていますので、ただちに、ご返却ください。館内放送は、ぼつぼつした雑音とともにそのときをぼくに突きつける。図書館をでて西へ五百メートルほど進んだら、骨焼き場があるのだ。もくもくのぼる煙は焚き火じゃないよ、ひとの燃えかすだよ、住宅街の洗濯ものにまぎれ空にのびてゆく。
 ぴかと光るステンレスのピンチ、ひとつずつはずしながら湿っては毛がいねむりするタオル抱え、ベランダのサンダル、台風のときにいくつも飛んでった。こまごめピペットで吸った水溶液、シャーレの真ん中にある蟻の死骸に向かってひとたらし、あふれる水流に間に合わなくなったら、厚く皮むいたあとのぽっかり浮いた指紋のたてじわ、おそろいの青いホースでどんどん降らせて、雨だ雨だとはしゃぎまわるうちに傘の骨をいくつも折った。
 錆びた骨組みはねじれてよれて、きちりと封をしたダイレクトメールには二度とならない。ぼくはびしょ濡れになっている。あさ、起きたら顔を洗うときの面倒な水の臭さ、沸かしたやかんからポットに熱湯うつし替えてふたを忘れたら。左手の甲をひどくやけどした。
 ぽつぽつ雨粒がぼくに溶けるたび、ぼくはびっしり点描された砂粒になってゆく。ひとさし指のさかむけを爪ではさんでむけば一本の細い線になって、甲から手首、腕をしゅるしゅる通りすぎて、ぼくの首根っこまでやってきた。ぱらぱらになるよ、どっかにいっちゃうよ、もう帰らないから。ぱかと開いた胸は白いおしべとめしべに支えられて、おへその裏から細く赤いリボンがのびてきた。は、がなくともおなかがすいたらそれで食べればいい、もう探さなくてもいいよ、は、なんかいらないから。
 一字書いては消し、消しゴムのかすと2Bの鉛筆のあとばかりがいつまでもあざやかなぐしゃぐしゃの便せん、ポケットのなか、しわになり半分に折れた封筒にはべたべたわたしの指紋がついている。もっと、はやくに書けばよかったのだ。いつか書こう、ときがきたら、いいわけばかりするうちに、ずいぶん遅くなってしまった。はやく、ポストにいれて、それでおしまいにするのだ。ごめんね、もうすぐ、手紙がとどくからね。
 石で積まれた巨大なジェンガ、ところどころ歯抜けになっていた。ぽかりと空いた隙間からちょろちょろ水が流れだす。てっぺんから足許へつたったら、またすぐ元にもどって、いつまでも止まらない。
 かわりにわたしが自転車からおりた。じょうろの点々とつまようじで開けた穴から降りそそぐ水滴はねじれてよれて、映りこむまわりの、豆腐みたいな市役所、ひとつところを指す花時計のビオラは枯れている。
 フルートを吹くおじさんがいたのだ。ばさばさ餌求める鳩ですらつっつくつっつく、コンクリートの地面にうっすら生えた雑草の生えぎわ、お菓子の屑がないか探しながら寄り添っている。
 尺八を吹くひともいた。ときにはダンスを踊るひとも。陽がゆったり寝転がる噴水広場では、みんな、窓のあるトイレのような、ひとりきりの時間を楽しんでいた。
 あいつらは汚いから、ぜったいにさわっちゃだめだよ。おうちの伝書鳩、給餌しながらけしてふれぬようにしていた友はいう。
 さあゆこう、飛び立つ一羽に連れられて、白い羽がわんさか空にまじってゆく。かなた泳ぐ鳩を追いながら、わたしはサドルを押しやる。
 横倒しになった車輪は酔うほどにまわしたコーヒーカップ、もうペダルにつま先は届かない。
 歩いてゆこう、わたしは中央図書館をめざす。すっかり海はひいていた。ぺたぺた響くのはわたしの足音、乾いた地面には土踏まずのない平坦なわたしの足裏、しゅうと風に消えてゆく。


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