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飢えた地球を食べさせる

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


先に書いた再生型農場の説明を読めば、飢えた地球を食べさせるためには工業型農業が必要だという意見を払拭できると思います。長期的に見て持続不可能なだけでなく、短期的にも生態学的農業を上回ることはありません。しかしまた、この主張の数量的な証明を得るのは困難です。ほとんどの再生型農場では面積当たりの生産性を最大化する必要がないのです。

読者の中には、科学的な研究では有機作物の収量が慣行農法より少ないことを示すのが普通だと異議を唱える人がいるかもしれません。ここではこれらの研究が当然と見なしているものに注目する必要があります。小規模な混植農場の高い収量を測ることが難しいのは、そこでは卸売市場での売り先を見つけにくいような複数の作物を生産するのが普通で、地域支援型農業や産直市場を通して、時には貨幣経済によらず、地域内で消費されるのが普通だからです。さらに、伝統的な農業は二毛作や混作を行うことが多いので、有機栽培のトウモロコシ畑の収量は遺伝子操作のトウモロコシ畑より少ないでしょうが、トウモロコシ畑で豆やカボチャも一緒に栽培し、虫を食べる放し飼いの鶏が走り回っているなら、その総収量はどれほどでしょうか? 虫食いの果物や二級品の野菜を豚などの家畜に与えたらどうでしょうか?

最適な結果を得るには、長期の経験を、より適切に言えば数世代にわたる経験を、一つ一つの農場での親密な関係の中で応用することが必要です。有機農法と慣行農法の比較には慣行農法から最近転換した有機農園が使われることが多く、土壌や知識や農法を何十年にもわたって手直しし最高度に進化した有機農園が検討の対象となることはめったにありません。

生態学的に見て持続可能な方法で食料生産を最大化するには何がどのくらい必要かを、48ヘクタールの農地で有機野菜農家を営む私の兄に尋ねました。(今のところ、兄は農地全体の約1割しか耕作していません。)すると、彼らしく言葉少なにこう答えました。「200人ぐらいかな。」もし彼が、150年も繰り返し伐採されてひどく荒れた森を混農林業(アグロフォレストリー)に転換し、貯水池を作って魚を飼い、耕地を多年生植物と不耕起混作に転換し、放牧地に集中管理放牧し、堆肥発酵バイオガス発生器で熱と電気をまかなう…などすれば、現在の20倍以上の食物を育てることができるでしょう。でもこれら全てのことを実行するのに必要な200人が兄の所にいるわけではなく、季節によりますが1人から10人です。ですから、彼の仕事は労働時間当たりの生産を高めることを基本にしていて、農地面積当たりの高収量は求めていません。

このことは、世界中で小規模農場が大規模農場よりずっと高い収量を上げていることの説明になるかもしれません。ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが1962年に初めて見いだしたことですが、多くの国々でたくさんの研究がこれを証明してきました。最もよく知られた最近の研究はトルコの小農場に注目したもので、そこでは今も伝統的な自作農業の強い基盤が残っています[13]。トルコの小農場の生産力は、近代農法の受容がなかなか進まないにもかかわらず(というか、そのおかげで?)大農場の20倍に上りました。しかし、近代農業が世界を食べさせるという物語があまりに根強いので、OECDはトルコでの「土地の細分化を止め」「極度に細分化した土地を集約することは農業生産性を高めるために欠かせない」と表明しました[14]。

もちろん、小規模農場は大規模農場と同様に生態系を破壊する可能性もありますが、一般的には、最悪の破壊は工業的規模のとき起きます。小農家がはるかに優れているのは、土地を集中的に世話して、兆候を読み取り、柔軟に対応することです。

比喩的にも文字通りにも、私たちは土地に帰る必要があります。残念ながら、アメリカの政策はその逆を奨励し、世界中の巨大アグリビジネスの利益を積極的に追求してきました。幸いなことに、多くの国々、地域、農民たちがこの動きに抵抗しています。とりわけ、フランス、ドイツ、ベネズエラ、ロシアは遺伝子組み換え作物の栽培を禁止し、ロシアは国を挙げた有機農業への移行の一環としてその輸入も禁止しました。これは遺伝子組み換え生物だけに関わることではなく、それに伴っている工業型農業のモデル全体に関わることです。

生態系の大惨事を回避しなければならない時に、根本的に異なる農業モデルへと移行するのは現実的でしょうか? 私の同僚マリー・グッドウィンはフィラデルフィア都市圏での食糧安全保障と耕作可能地を話し合うデラウェア・バレー地域計画委員会の会合に出席しました。議長を務める職員がプレゼンテーションで示したのは、世界の食料生産システムが機能停止した場合に、この地域の非常に多くの人々に食料を供給するため必要な耕地面積に対し、農地面積は全く足りないということでした。マリーが指摘したのは、芝生を含めれば全員を食べさせるのに十分な面積になるということです。その職員は真面目に取り合う気がなさそうでした。「不可能です。大勢に影響を与えるほどの食料を人々に自宅で作らせるなどできるはずがありません」と、その女性職員は言いました。

マリーが指摘したのは、アメリカでは第二次世界大戦中に「勝利の菜園(ビクトリー・ガーデン)」で野菜の40%が栽培され、生産量は9百万〜1千万トンにも上ったことです。イギリスではさらに高い比率でした。これが端的に証明するのは、何が可能で現実的かという観念がどれほど文化的な認知に依存しているかということです。文化的な認知は変化する可能性があり、変化しなければならず、常に変化しています。もし現実的という言葉が何事も同じに保つことを意味するなら、私たちはそこまで「現実的」であることを止める必要に迫られるでしょう。

いま私たちが破滅的なコースを進んでいることを考えれば、「現実的」をもっと正確に表す言葉は「運命論的」です。再びアイリーン・クリストを引用します。

運命論的な思考では、産業消費文明の軌道は決まっているように見え、そこから脱線せずに人類が脱け出ることは不可能に見えますが、それが暗に示すのは、未来の細かいことまで見通せなくとも、大筋では(良くも悪くも)ほとんど同じ向きで決まっているということです。運命論の予測では、人類史の(そしてそれに伴う自然史の)行方は、現在の動向がもつ勢いが必然的に展開してゆくものだということです。巨大な力が示す慣性のおかげで、運命論的な視点から見るなら、世界経済の拡大、消費の増大、人口の増加、土地の転用と搾取、野生動物の殺戮、種の絶滅、化学物質汚染、海の枯渇など現在のパターンは、程度の差こそあれそのまま展開を続けるでしょう[15]。

この地球に意味のある癒しをもたらすために、より多くの人々が食物を育てるようなことが「不可能」なのが不可能のままではいけません。私たちは全面的な文明の転換のことを話しているのです。

そうです、食料を自給すると同時に土地を癒すためには、一人あたりの食料生産にかける時間がもっと必要になるでしょう。家庭菜園の広い普及と、それを後押しする政府の政策が必要かもしれません。人口の1%ではなく、10%とか20%が農業に従事する必要があるかもしれません。全世界で失業が増加しているとき、これが問題となるはずはありません。

前進のモデルはロシアにあるかもしれません。2003年にロシアが公布した私有園地法は、市民全員に数エーカー[およそ数千坪]の無税の私有地を持つ権利を与えてガーデニングやレクリエーションに使えるようにし、ダーチャ[菜園付きセカンドハウス]やエコビレッジの運動を促進しました。2016年の時点で、小区画の菜園はロシアの食料の半分近くを供給していました[16]。しかし多くの先進国では、農業関連法令、都市計画法、建築基準法などのために、特に小規模農家にとって、生態系に配慮した農業を営むことは違法ではないにしても難しくなっています。たとえばアメリカでは、食品安全の懸念から家畜と作物を組み合わせることは禁止されました。アヒルがナメクジを食べたりニワトリが虫を駆除したりすることはもうできません。犬がウッドチャック[リス科でマーモットの一種]や鹿から畑を守ることはもうできません。大規模生産者の無責任な行動を防ぐために作られた複雑な規制は、書類作りをするコンプライアンス部門を持たない小規模農家にとっては法外な時間と費用がかかります。これらの規制は大規模生産者のために、そして多くの場合は大規模生産者によって作られました。新たに提案された規制では家畜を移動させるたびに書類が求められます。これは何千頭もの豚や鶏を舎飼い育成して、時たま一斉に移動するのなら問題ではありません。生態系に配慮する小規模農場では、数十頭の家畜とか家禽の小さな群れが常に移動しているので、法令に従うのは不可能です。

農業以外では、生態系が必要とするものと合っていない法令が他にもあります。小さな家は建築基準が求める家の大きさを満たせません。コンポスト・トイレや中水アクアポニックス[魚の飼育と水栽培の組み合わせ]を使う家でも高価で不必要な浄化槽を設置しなければなりません。

私たちの社会を生態系の癒しと合致させるのは実現困難なことではありません。私たちの認知と優先順位と法律に変化が求められているだけです。物事を同じに保つために戦うことをやめ、私たちが自然に合わせるなら、自然が向かう先はホールネス(全体性)です。

国家政策と国際政策のレベルでは、再生型農業への移行は多大な政治的意思とリーダーシップを必要とするでしょう。現在多くの農家は借入債務が限界に達しているので、農法を転換するあいだ低収入が2〜3年続くことに耐えられなくなっています。転換を助けるために何らかの公的補助金が必要です。これを成し遂げるのに最も良い方法は既存の補助金を割り当て直すことではないかと思います(多くの国々で農業はすでに多額の補助金を受けています)。アメリカでは、農業補助金の約85%は上位15%の大規模農場に支払われています[17]。年間の農業補助金は、アメリカでは少なくとも200億ドル、EUではさらに多額に上ります。その半分を使うだけで、毎年10万戸のアメリカの小規模農家が3年にわたって10万ドルの移行補助金を受けることができます。これは食料供給の混乱を起こさない程度のゆっくりしたペースですが、生態系に大きな変化をもたらす速いペースでもあります。この計算を書いた紙ナプキンを、私は喜んでアメリカ連邦議会に提出しますよ。

つぎに労働問題がありますが、これは問題にはなりません。ここでもまた既存の資源の行き先を変えるだけで良いのです。若者の失業率はアメリカでは少なくとも10%で、ヨーロッパでは20%近くもあります。さらに、世界各国の政府、特にアメリカは、膨大な予算を費やして若者を軍に入隊するよう勧誘し、兵役を義務化している国さえあります。アメリカの労働者階級と貧困層では、多くの人々が理想主義的な奉仕の欲求から兵役を選びます。違法薬物を売る以外にお金を稼ぐチャンスがないことも一因です。残念ながら、この理想主義は「世界に自由と民主主義をもたらす国、アメリカ」のような時代遅れになりつつある物語に依存していますが、実際にはこれは帝国主義を隠す作り話です。帝国の時代が衰退に向かうとき、このような物語は力を失い、軍の内部、特に若い退役軍人の間では、忍び寄る皮肉な見方に負けつつあります。私がうぬぼれた提案をしてもよいのなら、生態系の癒しと地球上全ての生命への奉仕に専念する「エコ部隊」を創設し、世界への奉仕と経済的安定という二つの要求を同時に満たすというのはどうでしょう?

生態系の癒しは双方向に働きます。植物、動物、土や水を扱う仕事には強力な治療効果があります[18]。園芸療法やガーデン療法のような治療様式は、落ちこぼれの若者や、受刑者、退役軍人、慢性疾患のある人々に目覚ましい成果を示していますが、健康はホールネス(全体性)であり、断絶は病であると理解するなら驚くことではありません。特に精神状態は自然との触れあいで改善するので、このほとんどは「自然欠乏症」の症状だという見方の信ぴょう性が高まります。注意欠陥・多動性障害(ADHD)や、鬱、不安のような状態は、その人が定期的に有意義な形で自然界と触れあうと、改善するか完全に消失することが多いのです。個人の癒し、社会の癒し、世界の癒しは手を取り合って進みます。


注:
[13] ウナル(2008)。

[14] モンビオ(2008)。

[15] クリスト(2007)p. 54。

[16] ロシア連邦(2018)。

[17] スミス(2016)。

[18] この主張は文字通りの意味で明らかなように思えますが、査読済みの立証を読みたい場合は、手始めに曽我ら(2017)を。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/feeding-a-hungry-planet/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸



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