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水を癒す

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


炭素中心の気候物語では、生態系を癒す取り組みも、直接に炭素を隔離しなければほとんど注目されません。私が主張しているように、もし気候の安定を保つ上で水の重要性が炭素と同じかそれ以上なら、この状況は変わらなければなりません。

私の説明した再生型農業の手法が全て水循環に多大な恩恵を生むのは確かなことです。ブラウンの牧場がもつ毎時200ミリの雨水吸収能力とは対照的に、慣行農法の農地では大雨の水のほとんどが(表土とともに)流れ去るか、地面に水溜まりを作ってすぐに蒸発してしまいます。すると雨水は地下水まで届くことがありません。

一般的な法則として、土にとって良いことは水にとっても良いのです。水循環の健康は土が健康であることの喜ばしい副産物です。

水の健康を回復するというはっきりした目的のために考えられた手法もありますが、そこでは土作りが喜ばしい副産物となるかもしれません。このような手法は砂漠化する地域では特に重要で、砂漠化の進行を止めたり逆転させたりするのに役立っています。

インドは水不足に最も弱い国の一つです。地下水を灌漑に使いすぎた結果、地下水面は急激に下がり井戸は涸れました。典型的な解決法は井戸をもっと深く掘ることですが、これは明らかに近視眼的な対応です。でもラジャスタンでは、「インドのウォーターマン」と呼ばれているラジェンドラ・シンが引き起こした運動が、何千年も前からある技術をよみがえらせローテクの貯水施設を作りました。この施設を構成しているのは、雨水を貯留し地中にゆっくり浸透させる貯水池「ジョハド」と、小さなため池を作る土のダム、大雨の後の水の流れを緩め地下水へと浸透する水を増やす砂防堰堤です。彼の仕事は「好循環」を起こします。水がたくさんあれば植物がよく育ち、それが土壌浸食を減らし、それが水の浸透を促進し、それがまた地下水を増やします。農業の生産性も高まるので、土と同じように、農村人口が都市部へと流出することがなくなります。現地の労働者が増えればジョハドやダムを維持する能力が増します。シンの考えたことは何千もの村々で実施され、何千もの保水事業が続けられ何百万本もの木々が植えられています。この地域では流れがなくなっていた5本の川が復活し一年を通して流れるようになりました[19]。

シンの仕事と関連する概念に「保水修景」があり、これは棚田のように等高線に沿った起伏を作り、雨季に降った雨を受け止めて流れ去るのを防ぐとともに地下水に浸透させる池を利用します。私が保水修景に初めて出会ったのはポルトガル南部のタメラ・エコビレッジで、その地域では砂漠化が進んでいて、かつて一年中流れていた川が今では季節的にしか流れなくなっていました。埃だらけで茶色の風景の中を何時間も車を走らせタメラに着いた私は、爆発するような緑に圧倒されました。果樹や畑や森林がいくつかの池や小さな湖を取り囲んでいましたが、これは干ばつに苛(さいな)まれていた真夏のことでした。私が最初に抱いた疑いは、地下水を汲み上げて使っているのではということでしたが、それは違いました。水は昨年の冬に降った雨を、土のダムで堰き止めた湖に蓄えたものでした。私の二番目の疑いは、このコミュニティー(その大部分はドイツ系移民)が傲慢不遜に景観を作り変えたのではないかということでした。「湖を配置する場所をどうやって決めたのですか?」と私は尋ねました。彼らは水がどこに行きたがっているか理解できるまで何年もしっかりと観察して決めたと答えました。この態度は、どんな手法やシステムを実施するにも、その前に必要な自然界との親密な関係を示しています。

保水力によって雨が海へと戻る動きを緩め、「水の完全循環」が完結します。この言葉は、優秀だが物議をかもすオーストリアの科学者ヴィクトル・シャウベルガーが提唱したものです。これに対する水の半循環では、水は海から蒸発し、雨として陸に降り注ぎ、川に流れ込んで最後には海に帰ります。水の完全循環では、雨は地中にしみ込み数週間から数十年という時間を過ごした後、泉となって湧き出します。20世紀前半に活躍したシャウベルガーは、早くから森林破壊を批判し、これが水の完全循環を断ち切る犯人だと認識していました。

保水は都市部でも実現でき、透水性舗装、植樹、雨水収穫、家庭用雨水タンクを使います。このような対策をしないと、都市は周辺コミュニティーと生態系に多大な被害を与える可能性があります。ロサンゼルスは1913年にシエラ・ネバダ山脈の雪解け水を取水し始めて悪名高い南カリフォルニア水戦争を引き起こし、今もこの地域の水資源の大半を使い続け、水供給のため毎年10億ドルを費やしています。その一方で、同市は雨水排水システムによって水を捨てるために5億ドルを掛けています。他の多くの地域と同じように、ロサンゼルスは多すぎる水と少なすぎる水、つまり洪水と干ばつの両方に悩まされています。どちらかが起きればもう一方が後に続きます。洪水と干ばつはどちらも雨水の吸収率が低いことの結果です。保水は「スロー・ウォーター」とも呼ばれますが、洪水と干ばつの両方を改善し、砂漠と都市の両方に再び緑をよみがえらせることができます。

牧場や都市で可能なことは巨大な規模でも可能です。最も目覚ましい砂漠緑化プロジェクトの一つに中国北部での黄土高原流域復旧プロジェクトがあり、映画製作者のジョン・D・リューによって広く知られるようになりました。この地域の黄土高原は黄河文明の揺りかごとなり、古さにおいて上回るのはメソポタミアだけですが、どちらも同じ運命に苛まれています。リューによると、西暦1000年までに森林破壊と持続不可能な農業によって青々とした森林と草原は乾ききって浸食された荒れ地に成り果て、適度な雨が降るにも関わらず砂漠のように見えます。その訳は、降った雨の95%がすぐに流れ出してしまい、巨大な浸食谷を作り、黄河の名前の由来ともなった水の色を作ります。

復旧プロジェクトの結果はリューの撮影した驚くような実施前後の比較写真で見ることができ、土地は文字どおり生き返りました。この変化は膨大な労働と予算と計画の賜物です。地域住民に求められたのは、小さな土のダムや段々畑など保水のための仕掛けを数多く作ることでした。住民たちは木を植え、植樹に適さない斜面は使うことを止め、羊や山羊の放牧を制限しました。肝心なのは、住民たちがプロジェクトの計画にも緊密に参加し、労働には助成金が支給され、復旧した地域で土地使用権が与えられたことです。最終的には、3万5千平方キロ(ベルギーと同じ広さ)の土地が約5億ドル(約5百億円)の費用をかけて復旧されました。風景を一変させたこの変化を言葉だけで十分に書き表すことはできませんが、リューの映画はルワンダ、エチオピア、ヨルダンなどの国々で同様のプロジェクトを始めるきっかけとなりました。

このようなプロジェクトが示すのは、人間の集団的な意思を地球の治癒力に調和させるなら何が可能になるかということです。数量ではなく美しさに向けて集団的な選択をするなら何が可能になるかを示しています。ここには但し書きがあって、意思が必要なのです。積極的な選択が必要なのです。そうでなければ、私たちは惰性が向かう方向に滑り落ち続けるでしょう。

このようなことは地球規模でも可能でしょうか? 上手く行くでしょうか? 現実的でしょうか? 私たちの知っている社会が永久に続くことを是とするなら、答はノーです。変わらないと見えたものを手放す覚悟ができているなら、答はイエスです。10年間で5億ドルというのは、たとえばその約3千3百倍に達する全世界の軍事予算に比べれば微々たるものです。軍事支出のたった10%を水域の復旧に振り向ければ、黄土高原規模のプロジェクトを330か所で行うことができるでしょう。地球が私たちに要求しているのは、それほど大きなものではないのです。

そうですね、最後の文はちょっと不誠実だと認めましょう。地球は私たちに大きな要求をしているのです。地球が求めているのは、私たちの文明の根本的な優先順位を変えることです。地球が求めているのは、地球を聖なるものとして見ることです。地球が求めているのは、地球を生きているものとして見ることです。地球が求めているのは、私たちの文明と全ての制度をこの見方に従って作り直すことです。貨幣、政府、法律、技術…、全てが変わらなくてはなりません。それこそが、生態系の危機が本当に人類にとっての通過儀礼である理由です。

注:
[19] アハメド(2015)。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/healing-the-water/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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