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なぜ再生型農業は主流にならないのか?

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


炭素の枠組みからも、水の枠組みからも、生物多様性の枠組みからも、再生型農業は生態学的に筋が通っています。食物の生産性という視点から見ても理にかなっています。ではなぜ、高まる人気にもかかわらず、農業としても科学としても、再生型農業は主流から程遠いままなのでしょうか?

その理由は、深く染み付いた考え方や、経済的な制度、科学的な習慣と相容れないことに関係があるはずです。

ブラウンやゴーシュの農場では、絶えず変化する局地的に特有な条件に即応して数多くの再生型の農法を縦横無尽に組み合わせています。このことによって非常に難しくなるのが、どれか一つの農法の効果を分離して数値化することです。農法のどれかを科学的に実証しようとすれば、複数の実験園や対照園で他の変数を同じにすることが必然的に伴います。これは再生型農業の正しいやり方ではありません。標準的な農法を複数の土地区画に使うことができないのは、それぞれの場所が独特だからです。したがって再生型の農法を現在の科学的な手続きに当てはめるのは簡単ではありません[11]。さらに、ほとんどの農業研究に資金提供している農薬や肥料、遺伝子組み換え種子の会社には、自社の製品を全く必要としない農法の研究に出資する動機がほとんどありません。ですから、再生型農業の炭素隔離、保水力、生物多様性の恩恵などについてのデータは大部分が依然として裏付けの乏しいものです。

確かなデータが無いことは、再生型農業がデータに基づく政策の議論に加わる妨げとなります。環境政策が温室効果ガスの量的な削減目標に基づくものなら、量的な結果を簡単に出せないような農法をどうして推進できるでしょうか? 化石燃料からの排出に比べると、生物による地中炭素貯蔵の測定は、やろうとしても困難なものです。数値化がもっと難しいのは生物多様性や地下水涵養などの間接的な恩恵でしょう。

政策立案者がゴーシュの成果を取るに足らないと見ているわけではありません(彼の短編映像はCOP21で上映されました)。データに基づく現在の政策に移し換えるのが困難なのです。突き詰めれば、私たちはこれまでとは違う方法で世界と関わるよう誘(いざな)われているのです。データに落とし込むことができるのは死んだ物だけです。世界を生きていると見る文明では、やり方を選ぶとき異なる種類の情報を考慮に入れます。

再生型農業が示すのは単なる農法の変化にとどまりません。それはパラダイムの転換でもあり、私たちと自然との基本的な関係の転換でもあります。

再生型農業は自然を模倣し参加しようとしますが、支配しようとはしません。再生型農業のホリスティックな物の見方では、土壌の地力低下、雨水の流出、雑草、病害虫のような問題は、農家と土地との不調和の症状と捉えられます。それらの問題に戦争を仕掛けるのではなく、農家は土地との関係を深めていく中で、土の健康、水の健康、生物種の分布などを修復するように農法を手直ししようとします。

多くの面で、有機不耕起園芸や高度管理放牧のような再生型の手法が相容れないのは現在の農産複合体で、コストの予測可能な標準資材を投入し標準的な農法で作った標準的な農産物の方を好みます。再生型の手法にはそれぞれの場所が持つ細かい条件の詳しい知識が必要となります。オーストリアで上手く行く方法がカメルーンで成功するとは限りませんし、すぐ隣の谷とも違うかも知れません。昨年上手く行ったことが今年もそうだとは限りません。

土壌再生を最も活発にするために動物の群れを一つの放牧場にどれだけの期間とどめるかという公式はありません。農家がしなければならのいのは、条件を観察し、過去の経験に照らして考えることですが、彼自身はもとより父親、祖父、お隣さんが経験と試行錯誤から学んで積み上げた知識基盤を使うのです。同じように、畝間(うねま)の谷をどのぐらい深く掘るかとか、保水力を最も高めるために何を植えるかといったことに公式はありません。どんな被覆作物の組み合わせが最も良いかについての公式もありません。これらは全て文脈によるのです。つまり農家は単純労働者ではあり得ません。

再生型農業システムが上手く働くためには、他に同じもののない固有の存在として土地と関わることが農家には求められます。土地の求めるものや土地の気分を聴き、見て、感じなければなりません。アラン・セイボリーは裸足で土地を歩いて意識の下に埋もれている情報を拾い上げます。土地についての知識は一生をかけて蓄積され、何世代にもわたって蓄積されて、地域文化の一部となります。そのような関係とは全く異なるのが工業型農業で、たくさんの土地区画のそれぞれを窒素・リン酸・カリウムの量や酸性・アルカリ性などで表現できる標準単位として扱います。再生型農業は標準化と規模拡大を目指す工業生産モデルを拒否します。

土地との親密な関係から始まる食料システムは社会の中で現行のシステムとは異なる位置を占めるでしょう。一つには、要する時間が多いので、人口のより大きな比率が農業や園芸に携わる必要があります。

現在、農業で生計を立てているのはアメリカの人口の1%以下にまで減ってしまいましたが、1850年には3分の2、1880年には半数、つい1955年には10%でした。絶対数を見ても、農業人口は1910年の約3千2百万人をピークに90%減少しました[12]。他の国々でも似たような傾向が見られます。人口統計学者と気候思想家はこれが続くのを当然視するのが普通です。たびたび目にする見解は「2050年までに世界人口の70%は都市に住むようになるだろう」というようなものです。

地球と正しい関係を保って暮らしたいのなら、この傾向を変えなければなりません。都市化は自然の法則などではなく、人類進歩の必然的段階でもありません。経済的・技術的な条件が、中でも農業の機械化と商品生産への転換が、都市化を推し進めます。都市化は私たちの根っこを引き抜くことと同じで、何世代にもわたる文化の深い記憶を持つ場所からの断絶であり、大地からの隔絶です。そうですね、都市の役割も確かにあります。都市の原形が地上から消え去ることはないでしょうし、そうなるべきでもありません。都市は文化が醸成する美しい大釜、人間が極度に集中することによってしか不可能な製品を生み出す錬金術の坩堝(るつぼ)にもなり得ます。しかし多くの人々にとって、呼んでいるのは大地の方です。じっさい、都市化の傾向はすでに一部の先進国で反転の兆しを見せています。2014年アメリカ農務省の統計では、若い農家の数が2007年から増加を始め、長年の傾向が逆転しました。

より多くの人々が農業に関わろうという呼びかけに対して、反論はこのように言います。「言うのは簡単だよ、あなたは恵まれた仕事に就いていて農家の仕事がどれほどつらく骨の折れるものかを知らないからね。」私が兄の農場で長時間の肉体労働をして過ごしていることを別にしても、この反論はいくつかの面で間違っています。工業型農業という文脈での農作業は、小規模で多様でエコな農場の農作業とは非常に異なるものです。後者では作業も多様であり、豆を摘み取ったりトラクターを前に後に運転したりといった作業を何時間も何日も続けるようなことはめったにありません。工業的農場では、作業は工場労働とほとんど同じで、単調な繰り返しの非人間的なものです。その最終段階が人を機械で置き換える文字通りの非人間化であるのも驚くことではありません。技術の台頭で変質した労働を当然とするならば、労働を脱却するという技術ユートピアの夢は非常に魅力的なものと映ります。

「上昇の物語」の中では、大地への回帰は退行と見なされるでしょう。労働から離れ、実体から離れ、土から離れて進歩していくはずでした。その物語では、天は地よりも好ましく、高い方が低いより好ましく、きれいなほうが汚いより好ましく、精神は肉体よりも好ましく、最も高い社会階級が最も大地から離れています。現在の最新式コンピューター制御ロボット水耕栽培野菜工場はその当然の帰結です。再び田畑を敬(うやま)い、長らく遠ざかっていた実体世界と再び一体になるという変化がどれほど大きなものか、お分かりになるでしょう。

都市化の進行という予測は、まさに変わるべきものを当然と見なしているのです。


注:
[11] 同じ論点がホリスティック医学にも当てはまります。一人一人の身体は独特なので、 本当のホリスティック医学は標準的な診断と治療の複数分野にまたがり変数を制御して検証することに積極的になれません。

[12] スピールメーカー(2018)。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/why-is-regenerative-agriculture-marginal/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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