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いす取りゲーム

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


私たちが高度成長・大量廃棄社会からの移行について話すとき、数量的ではない進歩の概念について話すとき、すぐさま経済の問題にぶつかります。生物圏が活動し続けるようにするための「選択の前提」の現実性について話すなら、私たちの選択を決定づけるのは、まさにその現実性の真髄である「お金」なのが普通です。お金が地球の癒しにとって友であることはほとんどありません。現在のシステムでは、生態系を保護するよりも破壊することで作られるお金の方が多いのが普通です。森林破壊、油田採掘、魚の乱獲、不動産開発のための湿地帯の干拓…、この全てをお金の力が動かします。でもなぜでしょう? お金が単に悪いのでしょうか? 人間はただ強欲なのでしょうか? 私たちは永遠にお金の力と戦い続けなければならないのでしょうか?

このあとの例え話は、これらの問いに対する答がノーであると示しています。

ほとんどの読者は「いす取りゲーム」を知っていると思います。進歩というゲーム場で巨大ないす取りゲームがあるのを想像して下さい。千人の人々と950脚の椅子があります。みんな輪になって踊っていますが、音楽が止まると大急ぎで席を取ります。間に合わなかった人はゲームから退場し、次の回は950人とおそらく903 脚の椅子で進みます。

ではゲームをもうちょっと面白くしてみましょう。あなたが負けると、ただ退場するだけではありません。あなたは住む家も失い、自分の子供に与える食べ物と医療のどちらか一方だけを選ばなければなりません。あなたと愛する者の命がかかっています。ゲームが始まります。みんな不安な状態に置かれ、いちばん条件の良い場所を得ようと画策します。音楽が止まると狂ったように急いで椅子を確保しようとし、ひじ鉄を喰らわして、やりたい放題に競り合い、椅子は強く速く幸運な人のものになります。

この場の外で観察しているのは、経済学者と、生物学者、政治家、神父の4人です。経済学者がこう言います。「あれが見えますか。あれが人間の本性というものだよ。みんな他の人全員を犠牲にしてでも自分の利益を最大化しようとする。」

「そうだね」と生物学者がうなずきます。「適者生存が実際に起きているのが見て取れる。強く、素早く、冷酷な者だけが生き残るのだ。それが人間の本性だ。」

政治家が言います。「人間の本性に歯止めをかけて礼儀正しく振る舞うように、法と秩序を課すことのできる人がここにいて良かったじゃないか。」

神父が言います。「私があそこへ行ってお互いに仲良くするように教えましょう。」

でも、このやりたい放題は本当に人間の本性なのでしょうか、それともゲームのルールが作る副作用なのでしょうか? もしもそこにいるのが千人の人々と、椅子は千脚だけれど形や大きさが様々で、ゲームはその人にぴったり合った椅子を探すというものだったらどうなるか、想像して下さい。そのとき「人間の本性」はどんな風に見えるでしょう? 柔らかい椅子が好きなのは誰でしょう? 固いのが好きなのは誰? 足が長いのは誰? お尻が大きいのは誰? ゲームの流れは全く違って見え、たくさんの話し合いと共同作業が必要になるでしょう。ぴったり合った椅子を探すために、別の構造が現れるでしょう。それでも多少の競争は残るかもしれませんが、ゲームのルールに織り込まれたものではないでしょう。

元のゲームでも構造が現れるかもしれません。時には強い人が自分のほかに友だち1人か2人分の椅子を取るかも知れません。小さなグループを作り他のグループを押しのけて椅子を取るかもしれません。他人を思いやる人は自分自身が座るチャンスを犠牲にして、赤ちゃんを抱いた若い母親が座れるようにしてあげるかもしれません。他の人たちは(自分の椅子を確保した後で)もうちょっとお互いに仲良くして強く押し合わないようにと忠告するかもしれません。しかし、このゲームのルールはその寛大さが自己犠牲であるということを必然的に伴っています。あなたの取り分が多ければ私の取り分は減る。それはゼロ・サム・ゲームであり、本当のところはマイナス・サム・ゲームです。

いす取りゲームは現在の経済システムにぴったり一致しています(重要な違いが一つありますが、後ほど議論します)。私たちのシステムではお金は融資によって生まれ、またその融資には利子が伴っているので、いかなる瞬間でも存在するお金より多くの借金があることになります。したがって、いす取りゲームと同じように、けっして足りることのないお金をめぐって全員がお互いを相手に競争することになります。「強く速く幸運な人」が「椅子」、つまり物質的安定を享受するため必要なお金を取り、弱く不運で恵まれない人は取れません。

さらに想像して下さい。950脚の椅子の輪は均等に配置されていません。椅子がまばらに置かれている場所があって、それは黒や赤や茶色の人々がいる区域になっています。彼らは輪の中で椅子が密に置かれている所に行きたいと望み、貧しさの原因は人種差別だと理解します。でも彼らが気付いていないのは、彼らでなくても誰か椅子を奪われる人が必ずいるということで、その理由はこの結末がゲームのルールに作り込まれているからです。黒や赤や茶色の貧しい人々には貧困の原因が人種差別と見えるのは間違いありませんが、むしろ本当は誰かを貧しくするしかないシステムの症状であり手段なのです。私たちでなければ、彼らが貧しくなるのです。そこで様々な派閥が自分の区域に他より多くの椅子があるような輪を作ろうとし(これは現実世界では、資源の帝国主義的支配に相当します)、新たなレベルの競争を生み出し、人種差別、国家主義、帝国主義につながる条件を作ります。

自分自身と自分のグループがより多くの椅子を取ることに誰もが集中しているので、ゲームのルールを疑問視することはなく、それが変えられるとも思いません。

それがどう展開するか、その寸評があります。マシュー・デスモンドの鋭い本『立ち退かされて』によると、いまアメリカでは何千万人もの人々が収入の50%、あるいは70%とか80%を家賃として支払っていて、その暮らしは、ただ一度でも健康危機や車の修理があれば地獄への急降下に飲み込まれ、家の立ち退きに始まり極貧生活に至り、行き着く先は家庭崩壊、刑務所、ホームレス、あるいはもっとひどいことになります。それを冷酷な大家さんのせいにしたくもなるでしょうが、実はその冷酷さはシステム全体から発しているのです。それは上から下まで利己心の最大化を基にして成り立つシステムで、そのため私たちが他人を自分の役に立てるための道具として扱うことを求めるのです。「冷酷な大家さん」は、直接的ではないにしても、他の人々と同じ基本的な経済的不安定にさらされています。不況や株価暴落があれば、大家さんも極貧へと転落するかもしれません。しばしば、建物の所有者は建物管理を外部委託している不動産会社で、そこもまた自分の債権者に借金を返すためそこそこの収益率を維持するよう圧力を受けているのです。システムの根底にいるのは巨大な機関投資家で、可能な限り高い利益を上げなければ企業から資本を引き剥がします。原因はこの強欲だとしてもいいかもしれませんが、最大の機関投資家はほとんどが年金基金で、教師や消防士などの労働者の退職後の資金を確保するため十分高い収益を必死に追い求めているのです。

冷酷さには必然的に非人間化と搾取のシステムを伴います。思いやりが過ぎれば、倒産する可能性はひじょうに高くなります。あなたの椅子はありません。

左翼の人々は地球が苦境に陥っている原因を企業とその幹部のせいにするのを好みますが、それはシステムが作り出した者たちで、構造的に決められた役割を実行しているのです。たしかに、企業には多少なりとも一般市民の利益のために振る舞う余地がいくらかはありますが、がむしゃらな収益事業から遠く離れすぎれば、会社は市場の鉄則に直面することになります。もっと冷酷な競争相手に潰されるか、小さなすき間市場に逃げ込むしかなくなるでしょう。それが、役員室での倫理教育や瞑想が企業全体の行動を根本的に変えると期待するのは愚かだという理由です。

企業の定款を(限定的な条件や収益を義務づけ、一般市民の利益に貢献することを求めるように)改革する運動は、正しい方向への一歩ですが、私たちの知る企業は歴史の不幸な偶然などではなく、「ゲームのルール」と全てを規定する物語の必然的な結果とに自然に適応したものだということも理解する必要があります。それは予言が現実化したようなものです。合理的な利己心という教義は、人間にとって正しくありませんし、正しかったこともありませんし、これから正しくなることもありませんが、それこそが予言だったのです。企業はそれを現実化するための手段なのです。それは利己心というイデオロギーの頂点として現れたものです。

企業の行動は、原因と結果を引き離す人為的な欠乏の経済システムの中で人々が一般的にする振る舞いの、本質を抜き出して拡大したものです。企業は多くの人間よりずっと冷酷ないす取りゲームのプレーヤーであり、したがってこのゲームに秀でています。それでも、あなたや私が一番得をしようとするときには同じ基本的な冷酷さを再現するのです。車にガソリンを入れたいとしましょう。全く同じ品質とサービスに対して、あるガソリンスタンドは別のスタンドよりリッター10円高いとしましょう。品質もサービスもあなたに分かる限りみんな同じです。どちらを選びますか?「そうですね、もし私が安い方を選んだら、公正な利益にならないし、従業員に適正な給料を出せなくなるでしょう。私は高い方を選びます」などと思うでしょうか。多分そうは思わないでしょう。はっきり言えば、これが本質的には企業の行動なのです。企業は、命と物を自己本位の価値の追求に従属させるための、高度に発達した歴史的な手段なのです。私たちが苦しみの原因として名指しするものの多くがそうであるように、それらは現在の危機の原因というよりは症状なのです。

これは、会社や個人が持続可能な活動を取り入れるよう最善を尽くすのを止めさせようとするものではありません。このような選択は「普通」という物語の変化に寄与します。上手く行かないように見えるときでも、システムと理想の間にある矛盾をくっきりと浮き立たせます。より良い倫理や精神性が、ゲームのルールを変えたり、持続可能性が逆らって進まなければならない流れを反転させたりすることはないでしょうけれど、冷笑されることの多い「企業のマインドフルネス」運動や「意識の高い資本主義」、役員室での瞑想には価値があると、私は本当に思います。彼らはただ精神性を隠れ蓑にして従来どおりの活動を進めているだけだと批判者たちはいいますが、もしこのような活動がまったく真の力を持たないのなら、それは本当でしょう。誠意を持って行うなら、それは反対の影響を生みます。従来どおりの活動が難しくなるのです。簡単には答えの出ない面倒な問いを引き起こします。組織とその人々にとっての危機を引き起こすのです。そして、それは良いことです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/a-game-of-musical-chairs/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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