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成長の命令

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


いす取りゲームとお金のシステムの間には重要な違いが一つあります。ただこの違いは不安と競争を作り出す根本的な圧力を変えるようなものではありません。この相違点は「経済成長」と呼ばれるものです。説明のために、銀行から100万ドルを金利7%で千人に貸し出したという、単純化された経済を想像して下さい。めいめいが1000ドルを受け取り、10年後に2000ドルを返済しなければなりません。そもそも100万ドルしか作っていなかったのに借金は200万ドルなので、彼らの半数以上は数学的にいって返済不可能です。それが話の全てなら、いす取りゲームのように少なくとも半数の人々が破産する猛烈な競争が起きるでしょう。

実際には、一人1000ドルの最初の融資が支払期限を迎えると、ほぼ全員が返済できます。なぜでしょう? その理由は、銀行がその一人1000ドルをまた貸し出すことで追加分が出現し、さらに100万ドルが借金の合計に加わるからです。(しかし、このお金は平等に貸し出されるわけではありません。利子を付けて返済するだろうと銀行が思う人のところにだけ行きます。)新たなお金が絶えず生み出される(つまり貸し出されて出現する)限り、システムは動き続けることができます。貸し出しが滞るか、金利と同じペースで成長できなくなるだけでも、破産は避けられなくなります。そして悪循環が始まります。一時解雇と賃金カットが起きると、それが需要の落ち込みと価格の下落につながり、それが利潤の低下につながり、それが貸し出し機会の減少につながり、それがまた倒産と解雇につながる。これが不況と呼ばれるものです。

不況を防ぐためには、経済成長を止めてはなりません。現在のシステムは変えられないと考えられているので、左派・右派・中道の政治家がみな経済成長を支持するのは、偶然ではありません。どうやって実現するかは意見が分かれますが、それが必要だという点では一致します。そのとおりです。現在の金融システムには経済成長が必要なのです。

経済成長を政治家が疑問視することがほとんどないのは、その前提が非常に深く定着しているからです。それが、進歩的左翼が「持続可能な成長」という空想を魔法のように生み出し、生態系や社会を枯渇させずに人間関係をサービスで置き換え、自然を工業製品で置き換えることを、なんとか続けられると想像する理由です。

おおぜいの経済学者が(生態系以外の理由で)主張しているのは、私たちは経済成長の限界に近付いているということです[1]。残念ながら、現在の私たちの貨幣制度が急速な成長の中でしか機能しない本質的な理由は、十分な貸し出しを動機づけるため資本投資に対するプラスの利益がシステム全体で必要とされるからです。同様にして、貸し出しは貨幣創出の基盤なのです。新たなお金が絶えず作り出されなければ、借金を返済する手段が減少し、倒産、失業、富の集中が起き、所得の増加が見込めない中で一時的に借金を返済するため緊縮経済が必要になります。これが政府にとって容赦ない圧力となり、植民地主義や天然資源の搾取といった、経済成長を促進する新たな方法を見つけ出すよう求められます。現在、私たちは成長の限界に直面し、債務者が支払いをもう少し引き延ばすための選択肢は緊縮経済しか残されていません。

経済成長とは、お金と交換される商品とサービスの成長を意味します。したがって、インドの田舎の村やブラジルの伝統的部族の地域が巨大な成長チャンスとなるのは、そこの人々がほとんどお金を使わずに生きているからです。彼らは食物を自分で育てたり採集したりします。彼らは自分たちで家を建てます。彼らは病人が出ると伝統的な治療法を用います。彼らは自分で音楽やドラマを作ります。開発専門家がそこへ行ってこう言うのを想像して下さい。「なんという巨大な市場機会だろう! この遅れた人々は自分で食料を育てているぞ、ならば代わりに買えばいい。自分で調理もしているぞ、ならばレストランやスーパーの惣菜でずっと効率アップだ。空気が歌で満ちているぞ、ならば代わりに娯楽を買えばいい。子供たちが無料で一緒に遊んでいるぞ、ならばデイケアに入れば良い。大人に付き添われて伝統技術を学んでいるぞ、ならばこの社会は学校教育にお金を払えばいい。家が火事で焼けるとコミュニティーで集まって再建するぞ、ならば助け合いの絆を断ち切ってしまえば火災保険の巨大市場ができる。みんな社会的アイデンティティーの感覚が強く、そこに属しているという強い感覚を持っているぞ、ならば代わりにブランド商品を買えばいい。みんな楽しく満足しているぞ、ならば合法・非合法の薬物なんかを消費して、見せかけの代用品を買っていればいい。」

もういいでしょう、富のビジョンを見て私は少し目眩がしてきましたが、お分かりのことと思います。問題なのは、彼らがその全ての代金をどうやって支払うのかということです。簡単なことです。彼らは地域の天然資源と自分の労働を商品に変えてお金を稼ぐのです。熱帯雨林はヤシ油のプランテーションになります。山は露天掘り鉱山になります。川は水力発電所になります。住民は伝統的な生活を捨て、貨幣経済の中へ働きに行きます。数少ない人々は医者や法律家、技術者になるでしょう。残りはスラム街に移り住むのです。

要するに、これが「開発」と呼ばれる一連の変化なのです。それは半世紀以上にわたって開発借款が資金をつぎ込んできたものです。それに伴っているイデオロギーが説くのは、お金と幸福は同じで、西洋のモデルに沿った発展は良いもので(あるいは必然的なもので)、ハイテクの生活は自然に近い生活より優れているということです。これらの前提に論理的な主張で反論するのは難しいのです。ふつう、それを捨て去るには、あまり開発されていない文化の中で時を過ごすことが必要で、そこで生きることの喜びと深さを経験し、近代化するとその美しさが損なわれるのを見ることが必要なのです。

「開発」という言葉は、他の人々は暗黙の進歩のスケールの上をあまり進んでいないのだという価値判断を含んでいます。したがって、開発を強制する金融システムが良いのです。そしてGDPを幸福の正当な尺度として受け入れるなら、それは本当に良いもののように見えます。何千万人ものインドの農民が、地場消費のための多様な生き物と共存した有機農業から、大量の化学物質と大量の水を使う商品市場向けの単一作物生産に切り替えたとき、測定したGDPへの寄与度は著しく上昇しました。なぜでしょう? 商品化する前は、食料のほとんどは、それを育てた拡大家族で食べるか、貨幣によらない相互関係のシステムによってコミュニティーの中を巡りました。残りは地域の非公式経済の市場で売られました。化学・機械化農業への移行には、機械、肥料、除草剤、殺虫剤、種子を買うために借金することが伴いました。その結果として、商品価格が下落し農民が借金を返済できなくなった時に起きた苦しみは良く知られています。何世紀、何千年にもわたり家族で守ってきた土地が銀行によって差し押さえられ、何百人、何千人もの農民が自殺しました。伝統的な生活手段が消えたので若い世代は急成長する巨大都市に移り住むしかありませんでした。陶工、道具屋、機織りのような職人の製品を、工業製品が駆逐しました。こうしてGDPの値が上昇したのです。

ふつうは、この状況を作ったのはモンサント社と銀行だとされ、企業の強欲という妖怪を思い起こさせます。憎しみや非難を向ける対象があるというのは確かに心地良いものですが、モンサントがインドで農薬と遺伝子組み換え種子を積極的に推し進めたのは確かです。そこから私たちが理解する必要があるのは、この企業が「近代化」というイデオロギーの海を泳いでいて、自分たちこそ人類に多大な貢献をしていると信じていることです。収量は増加し経済は成長している。我々は遅れた農民が近代に仲間入りして世界中の飢えた大衆のために食糧供給するのを手助けしているのだ。いつものように、この説得力のある数字に潜む問題は、次のような測定されないものにあります。

・地域経済パターンの急激な変化が引き起こす社会の混乱
・収穫としてカウントされることのなかった自給作物の消滅
・健康維持に欠かせない食生活の多様性
・水を大量に使う単一作物栽培で地下水が低下することによる将来の損失
・近代農法が引き起こす土壌浸食による将来の損失
・土壌と水の化学物質汚染
・長期にわたる土壌圧密と菌類の喪失から起きる損失
・スーパー雑草と殺虫剤抵抗性昆虫による将来の影響

よくあることですが、最も重要なのは数字から抜け落ちたものなのです。モンサントが棲んでいる近代化という物語はこれらの物事の不可視性によって可能になるのです。苦しみが数字の陰に隠れると、その同じ不可視性が、人間の自然な慈悲心が働くのを妨げます。もちろんモンサントだけのことではなく、開発という物の見方は私たちが生きているシステムに内在しています。それは「分断の物語」の一部で、人類が自然の上に立つ支配者に登りつめるという筋書きです。ほぼ普遍的なイデオロギーの特に革新的な実践者であるという点で、私たちはモンサントを称賛して良いかもしれません。モンサントの(あるいはシンジェンタ、デュポン、ダウ、バイエルなどのような同業者の)強欲を非難するのは、問題に誤った診断を下すことであり、病の起きる条件ではなく症状を攻撃するぐらいにしかなりません。その条件とは物語とシステムです。その内側では、モンサントで働く人々は彼ら自身を善玉だと思っていて、モンサント反対デモの参加者たちのことを妄想に満ちたヒッピーで物事が全く分かっていないと思っています。世界にこれほど利益をもたらしている作物学の進歩のために、何千人もの専門の科学者(科学者!)が研究人生をささげてきたのを、奴らは全く理解していない。我々が飢餓との競争を戦っているということを、奴らは理解していないのだ。

モンサントなどが活動するシステムと物語を理解すれば、私たちの活動の方向を、システムを作り変え物語を書き替えることへと向けることができます。戦いが必要な場面でさえも、相手が世界と自分自身をどう見ているか完全に認識して行動すれば、ずっと大きな効果を上げられます。

システムと物語は深く絡み合っています。近代化と開発のイデオロギーでは足りない場合、それに従うよう激しい経済的な圧力が掛かります。先に書いた銀行の例え話では、新たな1000ドルは誰にでも気まぐれに貸し出されるわけではありません。輪の中の他の人からお金を稼ぎ、利子を付けて返済できそうだと思われる人に貸し出されるのです。お金は利子を付けて返済する人に対する信用という形で生み出され、突き詰めていくと新しい商品とサービスを作り出す活動に加わることがその源になります。それが意味するのは、社会の関係性はサービスに作り替えられ、自然の富は工業製品に作り替えられるということです。それが開発というものです。

注:
[1] 生態学の議論によらずに経済成長の時代が終わったという主張は、ゴードン(2012)を参照。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-growth-imperative/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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