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人口

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


「私たちは何者になりたいのか?」という問いが具体的な意義を持つのは人口抑制の問題で、そこでもまた量的な思考が私たちを誤った論争に引き込みます。この問題に寄り道する主な理由は、環境問題について何か記事を投稿すると必ず「口に出せない重要問題」、つまり人口増加のことを私が無視しているという旨のコメントが返ってくるからです。結局のところ、私たちがどれだけ環境に優しい暮らしをしたところで、地球は際限なく増え続ける人口を支えることはできないが、もし私たちが人口を、たとえば1900年の水準まで減らすことができたなら、現在の消費のパターンがほとんど問題にならないのは明らかなように見えるではないか。

ああ、ここでもまた地球規模の数値を削減できさえすれば救われるという単純化話法です。

しかし、よくある単純化話法と同じように、人口に固執すればもっと根本的な問題が見えなくなります。その一つに資源消費があります。もし誰もが平均的なアメリカ人と同じペースで資源を消費したら、持続可能な世界人口は約15億人となります。もし誰もが平均的なグアテマラ人のライフスタイルで暮らしたら、現在の人口でも持続可能になります。そしてもし、誰もが伝統的なインドの村人と同じように生態系と調和した暮らしをしたなら、地球は150億人以上もの人々を養うことができるでしょう[5]。ほとんどの推計では地球の環境収容力を80億から160億人と見積もっていますが、専門家の中にはこの範囲から大きく外れた数字を出している人もいて、下は10億人以下から上は500億人まであります[6]。

私たち自身の資源消費について話すのはやめにして、「あちら側」の人たちの生殖を制限する方が、確かに気は楽でしょう。ほとんどの先進工業国では既に出生率が人口置換水準を下回っているので、人口の議論は低開発国に責任を押し付けます。

GDPや二酸化炭素濃度と同じように、何を計算に入れ何を無視するかは、計算をする側の利害を反映することが多いものです。政治力によって強制されると、何を計算に入れるかという選択は往々にして力を持たない人々の利害を踏みにじることになります。GDPが他の形の富を見えなくするのと同じように、温室効果ガスの物語が気候とは明らかな関係を持たない自然の生き物の価値を低く評価するのと同じように、人口脅威論は世界で最も弱い立場の人々を特に標的とした疑わしい政策を生み出しました。

人口抑制運動は優生学運動と歴史的に密接な関連を持ってきました。20世紀初頭の科学的合意では、近代技術のおかげで自然選択が行われなくなったので、人類の遺伝子は劣化の危機にあるとされていました。かつて自然が我々のためにしてくれていたことを、いま人間が意図的に行う必要がある、つまり劣等種族を取り除かなければならない。警告の鐘の音は鳴り響き、行動が手遅れになるまでに時間はほとんど残されていないのだ。

ホロコーストの後、露骨な優生学のイデオロギーは時代遅れになりましたが、その衝動は優生学が標的にしたのと全く同じ人々へと向けられる人口抑制政策に移し替えられました。アメリカで人口抑制が最も活発に行われたのは先住民に対してでした。1960年代と1970年代にはネイティブアメリカン女性の避妊率は25%を上回りましたが、事前の説明と合意がないことは普通で、多くの場合さまざまな形の圧力のもとで行われました[7]。避妊手術が最も盛んに行われたのは、1970年の国勢調査でネイティブアメリカンの出生率が多数派の白人を上回ったのを受けた1970年代前半でした。避妊と産児制限は効果を上げ、1980年までにはネイティブアメリカンの出生率は半分以下に下がり、人口置換水準をはるかに下回るまでになりました[8]。そこまで徹底的ではないにしても、同様の避妊運動はアフリカ系アメリカ人女性、プエルトリコとメキシコ系の女性、アジア人、囚人、精神病者、白人貧困層に対して行われました[9]。

飛び抜けて最大規模の人口抑制策は、先進国世界の外側でアメリカ政府の強い後押しによって実施されたものです。集団避妊運動、強制的な子宮内避妊具の挿入、中絶の強制、その他もっぱら有色人種の女性に対して行われた方策の卑しむべき歴史は、多くの書物のテーマとなってきました。人口抑制に対する批判は技術ユートピア論とポストコロニアル論に大別できます。(ここでは、自説をまくし立てる中絶医や悪辣な国連の陰謀家たちの狂気の悪巧みに固執するたぐいの批評は無視します。)

技術ユートピア論の批判は人類の優越性にはどんな限界もないのだと主張します。人が増えれば増えるほど、問題解決につながるイノベーションが活発化するので、増加を続ける人口は地球にとって問題ではないといいます。人間の創造性は無限なので、私たちを押さえつけようとするイデオロギー(たとえば、ガイアの生き物すべてに価値を認め敬意を払うなど)は、すべてある種の「反人間主義」なのだといいます。人口抑制運動は有名な慈善基金やシンクタンク、アメリカ政府から資金提供を受けて推進されましたが、その背後にある人種差別的な動機と帝国主義の地政学的な計算を十分に考慮し、物議を醸しながらも厳しく批判したものの例として、ロバート・ズブリンの書いた『人口抑制ホロコースト』[10]があります。

人間の創造性はどんな問題でも解決できるという前提をさらに進めるためにズブリンが引き合いに出すのは、全世界の飢饉を防ぐとともにポール・エーリックのようなマルサス主義者の恐ろしい予言を未然に防いだとされる「緑の革命」です。しかし、緑の革命は、機械化され化学物質を大量使用する農業を世界中に広めましたが、生態系と社会に破滅的状況をもたらしました。達成したとされる収量の増加には疑問の余地があり、いずれにせよ持続不可能なものです[11]。前章で書いたように、生態系に配慮した農法は工業型農業を上回る成績を上げることができます。ともかく、飢餓は政治と経済の問題なのであって、入手できる食糧の総量が問題なのではありません。19世紀インドの恐ろしい飢饉はイギリスへの穀物輸出の高まりと同時に起きました。バングラデシュでの1974年の飢饉は一人あたりの穀物生産が1973年よりも多かったにもかかわらず起きました。1943年のベンガル大飢饉の主な原因となったのは、その地域への穀物の輸入を禁じたばかりか域外へ穀物を出荷したイギリスの政策でした[12]。1984年のエチオピア飢饉は、内戦のさなか食糧支援が中断され反政府勢力の支配地域で報復のために穀物が焼かれたために起きました[13]。これら全ての例で、干ばつなどの自然災害が最後の決定的な一撃となりました。

全世界の食料生産は、あらゆる人間のお腹を満たすのに必要な量をはるかに上回る水準をこれまで長らく保ってきました。数量で考える頭では飢饉の原因は食料の不足だということになりますが、少なくとも近代の例では、すべて不平等な分配のせいで起きています[14]。アメリカは世界一豊かな国ですが、全食料の40%が食べられずに廃棄され、6人に1人が食事を満足に取れていません。世界的に見てもこれと同じ基本的な真実が当てはまります。間違いなく、飢えに苦しむ人すべてを食べさせられるだけの食料が廃棄されていて、この他にもバイオ燃料や芝生、動物飼料の栽培のために膨大な面積の豊かな土地が使われていることを忘れるわけにはいきません[15]。人口抑制で飢餓は解決しないのです。

だからといって、地球が無限の人口を支えられると言いたいのではありません。それが示すのは、私たちが直面する基本的な問題は、根本的に技術的な性質のものではないということです。緑の革命という形の技術は私たちを飢饉から救いませんでしたし、地球工学という形の技術も私たちを気候変動から救うことはないだろうと私は主張します。このどちらも、数量というカルト宗教の現れです。

人口抑制に対する批判のもう一つは、ディープエコロジーとポストコロニアル思想に根ざしています。あるレベルでは、汚い野蛮人が無制限に繁殖するのを防ぐという、古い人種差別的・帝国主義的な物の見方があります。これほど露骨でもないものに、フレデリーク・アプフェル・マーグリンが「開発主義フェミニズム」と呼ぶものによる、近代生活様式の押し付けがあります。彼女は次のように書いています。

個人主義とそれが価値をおく自己統制についての近代ブルジョアの認識は、そのような人生を生きていない全ての人々を逸脱した「他者」へと変え、正しい規範的な行動を教育するか、そうできない場合は強制することが必要だと考えます。セラピスト、教育者、医師などの職業人が、例外なく当てはめられる合理的で個人主義的なモデルとなります [16]。

開発主義フェミニズムは女性の進歩の特徴的な規範を掲げます。育児と村の生活への束縛から解放されて職業的有給雇用の世界に入り、個人主義的な自律性にとってお金が極めて重要なものとなります。コミュニティーが解体し女性が夫の扶養家族となる近代の文脈では、このような自律性は非常に望ましいものです。でも低開発国での豊かなコミュニティーの生活という文脈では、束縛からの解放はコミュニティーへの依存を雇用主とグローバル経済システムへの依存に置き換えるだけです。村の社会で大きな力を持っていたかもしれない女性は、労働を提供するグローバルな制度の中ではほとんど無力です。したがって「女性のエンパワーメント」を人口抑制政策の根拠にすると、人生がどんなふうに見えるべきかという規範的な西洋の観念を認めることになります。そのような社会は自分たちの社会と同じようになるべきだということを当然視します。それこそが「開発」の本質なのです。

同じ開発のイデオロギーが大量消費、資源依存の生活様式に向かって世界を推し進めていることを考えると、人口原理主義から派生したこの考えに疑いの目を向けたくなるのも無理のないことです。

飢餓や気候変動といった人口抑制政策のよくある根拠を捨て去ると、私たちは別の問いに向き合うことになります。私たちはどんな世界に生きたいのか? 地球が500億人の人口を支えられると論証することはできるでしょうが、そんな地球に私たちは生きたいと思うでしょうか? 私たちが強制されて人口増加を食い止め押し戻すことができないなら、生存の必要性とは別の理由からそうすることはあり得ないのでしょうか?

私たちの社会は戦争思考に慣れっこになっているので、人口増加への解決法が産児制限なのも不思議ではありません。問題=人口、理由=赤ちゃんが多すぎる、解決法=赤ちゃんが生まれるのを防ぐ。実際には、避妊法を利用できるかどうかは出生率にとって決定的な要因ではありません。出生率に非常に大きく影響するのは、(1)女性の教育と(2)死亡率です。前者は豊かさ、社会的安定、家父長制からの脱出を表す代理指標です。(頭の悪い田舎女を「教育」して子供の少ない家族を望むようにすることが必要だ、というのではありません。)死亡率については、大人になる前に死ぬ子供の数が多ければ、親やその文化はたくさんの子供を望むでしょう。平均寿命が延びれば、1世代から2世代のうちに出生率は下がります。

現在多くの先進国では出生率が人口置換水準より低くなっています。人口置換水準は1組の夫婦に約2.1人の子供です(子供ができる大人にならない者がいることを考えなければ、この数字はちょうど2になります)。いくつか例を挙げれば、執筆時点でアメリカの出生率は1.87です。ウルグアイとチリでは1.81です。ロシア、カナダ、中国では約1.6です。ドイツでは1.44、日本では1.41、ポーランドでは1.34、韓国では1.25、台湾では1.12です[17]。このほとんどは平均寿命が長く乳児死亡率が低い地域です。一方で、出生率が最も高いのはほぼ全てアフリカの国々で、その平均寿命は世界最低レベルです。アフリカ以外の国々で上位40までに入っているのはアフガニスタン、イラク、パレスチナだけで、そこは生命の不安がある場所です。

戦争と経済が引き起こす生存の不安と、女性の家父長制支配をともに終わらせることができれば、高い出生率は速やかに歴史の彼方へと消えていくでしょう。強靱な社会がバランスの取れた人口を維持するのは、強靱な自然生態系がバランスの取れた気候を維持するのと同じです。エネルギーについて、「どれだけあればいいか」を問題にするのは間違っています。正しい問いは、健康であるための基本的な条件をどうやって作るかです。エネルギーの分野では、高度成長と大量廃棄のモデルから、別の種類の進歩が可能となる定常状態モデルに、私たちは移行しつつあります。人口の分野では、高い出生率と高い死亡率の成長モデルから、ここでもまた低い出生率と低い死亡率の定常状態モデルに、私たちは移行しつつあります。文明は相変化の只中にあります。気候変動と生態系の限界は、通過儀礼の触媒となるのです。

注:
[5] 私はこれらの数字をグローバルフットプリントネットワークが提供する国別データから取りました。インドの村人のデータはデメンジ(2018)の『ラダックの自給的農家のエコロジカル・フットプリントの測定』から取り、アルキ・サスポール地域で一人あたり1.12グローバルヘクタール(gha/cap)、シンゲラ峠地域では0.69 gha/capという値でした。後者の値を使って計算したところ、持続可能な世界人口は約180億人であり得るという結果に至りました。

[6] 人間の環境収容力の研究のメタ分析については、ファン・デン・ベルフとリートベルト(2004)を参照。技術、農法、資源利用のパターンに関する基本的前提によって推計は大きく異なります。

[7] ローレンス(2000)。

[8] 同上。

[9] コ(2016)。

[10] ズブリン(2012)。

[11] 確かに対照比較では、化学肥料を施し、除草し、害虫を駆除した単一作物栽培の実験区は好成績を上げるでしょう。でも商品穀物の生産量を問題にするのではなく自給農業全体を考えた場合、この問題は曖昧になります。

[12] ホートン(2010)。

[13] クレイとホルコム(1985)。

[14] 昔なら悪天候と自然災害が簡単に飢饉につながったのは、輸送手段が未発達だったので、ある場所の余剰で別の場所の不足を補うことができなかったからです。たとえば、ヨーロッパ北部を襲った1315年の飢饉で地中海沿岸は影響を受けませんでしたが、需要を満たすだけの食糧を輸送できるインフラは存在していませんでした。

[15] 動物飼料は人間が食べる動物の餌となるだけにとどまらず、そこから得られるカロリーとタンパク質の量は人間の食料となる作物を植えた場合に比べて非常に低くなります。食肉生産は大量の飼料を必要とするものであってはなりません。

[16] アプフェル・マーグリン(2012)p. 147。

[17] データは『CIAワールドファクトブック』より。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/population/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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