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豊かさへのトランジション

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


悲観論と楽観論が争う再生可能エネルギー論争の中、どちらの側からもばかにされたような感じがした後で、もしどちら側に付くかと迫られたなら、私は「楽観論」の側を取ります。特に太陽電池は、パネルの価格が下がり、新たな蓄電技術が成熟し、エネルギー効率が改善しているので、多くの業界専門家の予測よりずっと速く成長していると私は思います。さらに、ビジョンは人間の意思の力で実現できると私は信じています。可能性は絶えず積極的に関わることで現実になります。もし人類が持つ創造性を再生可能エネルギーシステム構築のために結集したなら、必ず実現するでしょう。現在この分野では創造性の爆発ともいえる状態が起きています。シアノバクテリアから作るバイオ燃料、鉄道車両を使ったエネルギー貯蔵、熱貯蔵、バイオガス発生器、多層構造の太陽電池などです。

再生可能エネルギーの未来は手の届くところまで来ていますが、それでユートピアが来ると期待するのはやめておきましょう。再生可能エネルギーへの全面的なトランジション(移行)が可能だとしても、それが問題の解決には全くなっていないことに気付くだけです。燃料を転換しても、人間の不幸や地球上の生態系破壊の奥深くにある前提条件が変わるわけではありません。いわゆる「グリーンエネルギー」が、むしろ生態系の崩壊を加速することを、大規模水力発電ダムや工業的バイオ燃料の例が示しています。土、水、生物多様性など、生態系の癒しとして別の側面に目を向けなければ、生物圏の状況は悪化を続けるでしょう。社会的・心理的な不幸の根本原因に対処しなければ、持続可能なエネルギーによってさらに多くの不幸を持続させることになります。

同じ忠告が、従来の見解では非現実的として退けられるようなエネルギー技術にも当てはまります。主流側の読者なら、従来の科学が認めないエネルギー源からエネルギーを引き出す、いわゆる「フリーエネルギー装置」や「オーバーユニティ装置」を信じる巨大なサブカルチャーの存在に驚くことでしょう。このサブカルチャーでは人々の多くは高い教育を受けていて、熱力学第二法則のような基礎的な科学原理を知らないわけではありません。しかしまた、このような装置の信ぴょう性を問題にするのは誤った問いです。フリーエネルギー装置は、もし存在するとしても、太陽電池(これも一種のフリーエネルギー装置ですが)や石油よりも大きな救いとはならないでしょう。豊かさは心の状態であって、社会的な関係が作るものです。技術は道具に過ぎません。人為的なお金の欠乏に代表されるような、欠乏を作り出すさまざまな人為的システムを捨て去ることができれば、私たちは新しい技術などなくても今すぐ豊かさを手にすることができるはずです。

この問題に寄り道をしたのは、私の信頼度を落とす危険があるのは承知の上ですが、最も核心にある問題はエネルギーではないという重要な点を説明するためです。エネルギー技術は私たちを救いません。フリーエネルギー装置のことを、現実の問題から注意をそらす現実逃避の空想だと非難する人々の言っていることは、そのような装置が本物だったとしても正しいのです。その装置は現在の世界には相応しくありません。もしその時が来るとすれば、それは私たちが「自然に対する戦争」を終わらせ世界を力で支配する野望を脱却したときで、言い換えるなら、その装置を欠乏に対処するために使う必要がなくなって初めて、それは私たちのものになるのです。その目的は現在の文明のあり方を維持し強化することではありません。今の私たちには風力や太陽光のようなもっと謙虚な技術があり、それがもつ限界が私たちに成長パラダイムを考え直すよう促しているのです。

従来の考え方では豊かさは量で決まると捉えますが、実際には豊かさは配分によっても決まり、それはつまり関係性によって決まるということです。お金を見ればこのことは明らかで、わずかな人々にとっては超金余り状態、大多数にとっては貧困という時代です。大恐慌いらい、経済と通貨供給は成長してきましたが、その成長のほとんど全ては上位1 %のふところに入りました。量が増えても豊かさは増えませんでしたし、中央銀行にお金があふれていても実体経済の土壌に浸透することはありませんでした。 同じように、年間総雨量が増加しても砂漠化が進んでいる場所がたくさんあるのは、ここでも破壊された土壌が撹乱された水循環の引き起こす集中豪雨を吸い込むことができないからです。食糧も計算上では地球上の需要を満たして余りある量が存在していますが、ひじょうに不平等に配分されているので半分近くが廃棄される一方で、子どもの5人に1人が飢餓に苦しんでいます。この全てを見ると、豊富なエネルギーということを考える時、エネルギー源と量ではなく、適正な配分と規模を主眼にすべきなのかもしれません。

現代の環境思想家の多くは私たちの文明が化石燃料から再生可能エネルギーに移行しつつあると捉えています。もうひとつ、中央集権的システムから分散型システムへの移行があるでしょう。再生可能エネルギー源には分散型のシステムに適したものが多くあります。屋上ソーラーパネルや集落用バイオガス発生器なら可能ですが、屋上石炭火力タービンや集落用原子力発電所は不可能です。アフリカでは、広大な地域で送電網を建設することなく屋上ソーラー発電を導入しています。

分散型エネルギーは再局地化というもっと大きな流れの一部で、その場所の土や水、生物相、文化との親密な関係に私たちを連れ戻すのに必要なことです。エネルギー消費と同じように、世界を標準単位に作り替える流れはほとんど頭打ちになりました。農業でも、経済でも、技術でも、それぞれの場所が唯一無二だということを改めて受け入れることが必要です。それが場所に命を吹き込むのです。循環が一回りしている局地的なシステムが、鉱山から埋め立て地へと連なる地球規模のシステムを置き換えなくてはいけません。確かに、人類文化の様々な側面の中には、惑星系が変わらないように地球規模であり続けるものもあるでしょうけれど、一般的に言えば、癒しが意味するのは失われた命の環を新たなものにすることです。

人類が何を作り出すかは、私たちに着想を与えるビジョンと、行為に意味を吹き込む物語で決まるのです。様々な代替エネルギー戦略の実現可能性を議論することで、話の焦点と基になる物語は狭すぎる範囲に限られてしまいます。エネルギー危機は、それが関係する生態系の危機と同じように、私たちが支配から参加へのトランジションを実現するチャンスなのです。そのときエネルギーは量ではなく関係性の問題になります。

あらゆる生き物と同じように、私たちはいつも環境を変えるためにエネルギーを使いますが、自然とパートナー関係を結ぶ時代には、人間の進歩にますます多くのエネルギーが必要だという概念が時代遅れになります。私たちがエネルギーを獲得する方法と、その使い方をどのように選ぶかが、より大きな選択の一部になります。それは、私たちがどんな世界に生きるべきかという問いです。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/transition-to-abundance/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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