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進歩の意味

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


力を働かせるにはエネルギーが必要なので、エネルギー危機が私たちに呼びかけているものは、あまり力を使わない生き方です。それを人間としての幸福の退行だとみなすのは現代の偏見を反映しています。私たちを手招きしているのは、もうひとつの進歩のあり方です。

ホリスティック医療はハイテク医療よりエネルギー集約的どころか、その反対です。再生型農業は化学物質に依存する農業よりエネルギー集約的どころか、その反対です。親密なコミュニティーや拡大家族は単一家族家庭よりエネルギー集約的どころか、その反対です。さらに、こういう別の選択肢は現在のモデルよりも、良い健康、豊富な食べ物、高い幸福を作り出します。

したがって、持続可能性論争の中心的な問いは間違った問いなのです。「人類のますます増加するエネルギー需要をどうやって満たすのか?」という問いが含んでいる前提が、必ずしも正しいとは限りません。私たちは過去数世紀の西洋のモデルとは違う進歩のあり方へと転換することができます。

インドの女性が何年か前にこんな話をしてくれました。「私が育ったのは100人以上が暮らす家でした。おば、おじ、いとこ…、何世代も一つ屋根の下にいる家族でした。私たち子どもは、いつもたくさんの人たちと遊び、目にする大人はみんな私たちを愛してくれる人でした。」

「でもその後、すべては変わってしまいました。家族は豊かになり、今では結婚して所帯を持つとみんな家から出て行きます。村にはだれも残りません。私たちはみんな前よりずっとお金持ちになり、自分の家と車を持っていますが、私の子供の頃ほど幸せな人はだれもいません。夫婦げんかがあっても話を聞いてくれる人はいません。子育てを手伝う人もいないし、一緒に遊んでくれる人もいません。」

これと似たようなことが世界中で起きていて、都市化の波の中で進歩のイデオロギーと経済に押し出されて、小さな町や村はもぬけの空になりました。多くの人々はこのような進歩を必然的で望ましいものと思っています。中国の小作農とインドの村人にとって「明白なる運命」とは、アメリカ人のライフスタイルに到達することです。自家用車で走り回り、子ども一人一人に別々の寝室がある100坪の家に住み、何千キロも離れた場所で育てられた食べ物をスーパーマーケットで買い、デジタルメディアで楽しむ。電力網が風力発電でまかなわれ、自動車がエタノールや水素燃料か電気で走るなら、もしかすると可能かもしれないと楽観主義者は考えます。一方で、地球の様々な限界を踏み超えずに全員がこのようなライフスタイルを実現するには色々な難しさがあることを、悲観主義者は指摘します。

論争の中で見えなくなっていることは、このような結果が望ましいのかどうかという問いです。西洋諸国ではますます多くの人たちが望ましくないということに気付いています。「アメリカンドリーム」などという望みは消えつつあるのですが、それを勝ち取った人の多くは、じつは「アメリカの悪夢」だということに気付きます。私の住んでいるアメリカでは、5人に1人が鬱や不安で精神病の薬物治療を受け、自殺と依存症が過去最高を記録し、子どもの3分の1が虐待を受け、結婚の半数が離婚に終わります。このような苦しみは人種や階級を超えて広がっています。特権や成功があっても、この苦しみから逃れることはできません。

「夢」の破綻に気付いて、西洋諸国では多くの人々がそれを放棄しています。意識してそうする人もいれば、そうでない人もいます(重症の鬱から来る無気力症や依存症による現実逃避は無意識のボイコットのようなものと見なすことができるでしょう)。意識的にする人は、別の生き方を模索します。農的な暮らしをします。共同生活をします。デジタル・メディアを使うのをやめます。小さな家と少ない収入で暮らします。別の生き方を保ってきた文化から学ぼうとします。現在、彼らの多くは社会の片隅で生きていますが、そうである必要はありません。彼らは永遠の生き方への誘(いざな)いを体現しているのです。

エネルギー集約的な社会インフラを維持する方法を考えるのではなく、完全に作り替えることを考えるべきで、エネルギー消費を減らすことを理由にするのではありません。地域型、参加型、具体的、共同的なものに向けて、ホールネス(全体性)と共感に向けて、生態的関係の復元に向けて、価値観を転換することで、副産物として必然的にエネルギー消費を減らすことになります。私たちがもう力によって世界を支配し操ろうとしないなら、それは必然です。私たち自身が世界の一部であることを受け入れて、その展開にどうすれば参加できるのか聞き耳を立てるなら、それは必然です。

脱都市化し、再局地化し、規模縮小し、技能を再教育し、土に帰り、コミュニティーで暮らす理由が、エネルギー消費の低減や温室効果ガス排出の削減である必要はありません。このように結果として生まれる数値化可能なメリットは、健康のバロメーターではありますが、その本質ではありません。そうする理由は、私たちを幸せにする繋がりを復元し、一人一人との関係、自然の生き物たちとの関係に立ち戻り、「相互共存(インタービーイング)の物語」に沿った生き方をすることであってもいいのです。私たちの存在を作るのは関係性だと、その物語は説いています。

脱炭素社会やトランジション・タウン運動の評論家には、再生可能エネルギーに切り替えようとしても、その他のことを全て同じに保ったままでは無駄なことが良く分かっている人はたくさんいます。それでも多くの人は、社会の移行(トランジション)を気候危機やエネルギー不足という緊急事態よりも下に置きます。よく言われることは、「これまでの生活水準を維持することはできず、切り下げに備えねばならない」とか、「脱炭素社会への移行に必要なことの実施を始めよう」などです。彼らは選択を必要より下に置きます。もしも、第7章で示したように、私たちが無理強いされても生態系に優しい未来を取ることはないとしたら? もしも私たちが進んで選び取ることが必要だとしたら?

多くの人々はもうその道を選んでいて、逆風となる既存の社会経済基盤の中でも可能な限りのことをしています。「私がアメリカの実業界を辞めてパーマカルチャーデザインコースを取ったのは、他に仕方がなかったからだ」などという言葉を、私は聞いたことがありません。個人の危機がその選択の条件を作ったという可能性は大いにあります。手堅い生活より美しい生活を大事にする選択は、その時まで手の届かないものだったのかもしれません。ある種の崩壊が古い物語を一掃するまで、それが選択肢に入っているということを知らなかったのです。選択肢を作り出すのは私たちではありません。私たちは選ぶ側に過ぎないのです。

いま私たちの上に合流する複数の危機が、新たな選択のチャンスを私たちにもたらします。私たちの目前に迫っているのは、生活の質の切り下げではなく改善なのです。私たちの「生活水準」は落ちるかもしれません。水準というのは量的な尺度で決まるものです。より大きなホールネスの中に生きるという選択は、一人あたりの床面積、消費エネルギーの総熱量、移動距離の総キロ数、支払った医療費総額、国際商取引の額、依頼した託児サービスの時間数、購入した加工調理済み食品の量、年間の伐採木材の総量などのようなものを減らすという選択でもあります。でも、豪華一戸建て住宅の生活が去年までの小さな家より幸せだとは思わないなら、子供たちをベビーカーに乗せて集団活動に連れて行く方が屋外で他の子供たちの群れと自由に遊ぶより幸せだとは思わないなら、親しい友人を歩いて訪ねるより飛行機で行くのを選ばないなら、私たちの選択はより美しい世界に向かって積極的に「イエス」と意思表示しているのであって、厳しい現実にやむを得ず屈するのとは違います。

私たちの前にある選択を考える一つの方法は、価値観を量から質へ転換することです。数量化することは支配することであり、世界の無限の多様性を標準単位に落とし込むことです。世界を我が物にすることであり、私たちの尺度に従って整理することです。こうして世界を概念的に牢獄に閉じ込めることで、実際に世界を囲い込むことへの土台が作られます。残念ながら、あらゆる監獄社会で、監守は囚人にもなります。こうして私たちは「もっと、もっと、もっと」と際限なく求め続ける罠にはまってしまったのです。

『心の中にある実現可能なより美しい世界』で私は次のように書きました。

醜いものがいったいどれだけあれば、美しさの欠如を埋め合わせることができるでしょう? 冒険映画をいったい何本観れば、冒険の欠如を埋め合わせることができるでしょう? スーパーヒーロー映画をいったい何本観たら、自分の大切さを表現できなくなってしまったのを埋め合わせることができるでしょう? ポルノをどれだけ見たら親密さを求める心を満たすことができるでしょう? 娯楽がどれだけあったら遊びが消えたことを埋め合わせられるでしょう? それは、無限に必要です。経済成長にとっては良い知らせですが、地球にとっては悪い知らせです。さいわい、この地球にも、壊れてしまった社会組織にも、もうそこまでの余裕がありません。私たちを縛っている習慣を手放すことさえできれば、人為的な欠乏の時代はもうすぐ終わるでしょう。

もっとお金がありさえすれば幸せになれると人々が考えるのと同じように、エネルギーをもっと大量に確保することができさえすれば世界の問題を解決できると私たちは考えてきました。ああ、それならできそうじゃないか!

もしかすると豪邸と自動操縦の自家用ジェット機をみんな持つようになるかもしれません。そうすれば幸せになるのは間違いないでしょう。

実際には、豪邸と自家用ジェットを本当に持っている人でさえ、他の人より幸せということはありません。鬱や不安の段で私が書いたように、金持ちがこのような疾患になる可能性は他の人と同じくらい高いという主張が私のでっち上げではないことを確かめようと、私はネットで調べました。あなたも調べ物をするときはこうするでしょう。正しいに違いないことを定め、次にその証拠を探すのではありませんか? ともかく、私は『なぜトップに登りつめた人が鬱になるのか』[4]と題するフォーブス誌の記事を見つけました。明らかに、鬱は最高責任者の間にも蔓延しています。それは道理です。あなたが「達成」するまでは、自分が幸せではない原因は大きな家や高級車、クルーザーや自家用ジェットがないからだと思うことができます。そういう物を手に入れたら、お次は何でしょう?

このことを論じる必要はほとんどありません。幸せが「もっと、もっと、もっと」から来ないのは分かりきったことです。そのことを個人としては理解しています。しかし集団としては理解していません。公共政策はより多くを求めることを当然と見なします。

そのことをうまく説明してくれるものがあります。私たちの経済システムは無限の成長を必要とするのです。したがって、量的ではなく質的な価値観を基にして選択するには、根本的に異なる経済システムが必要になります。単に個人的な選択のことを言っているのではなく、人々が選択するための前提条件を変えることも必要なのです。

これは停滞を呼びかけているのではありません。進歩の仕方はたくさんあって、その全てが際限ない規模拡大を必要とするわけではありません。力の技術という観点からは、確かに現在主流となっている文明はこれまで世界で類を見ないほど最高度に発達したものです。それまでのどの文明よりも、多くの仕事をするために多くのエネルギーを使います。でもそれが破壊し、隅に追いやり、吸収してきた多くの文明は、他の仕方で高度に発達していました。身体のエネルギー論や、夢を見る技術、建築の美学、意識の涵養、景観の管理などの理解です。それぞれの文化は現在の私たちがほとんど気付いていないような人間の能力を探求し開発しました。その多くは、あらゆる大義と範疇で「分断の物語」に浸りきっている者にとっては不可能に見えます。その物語が解体すると、このような能力が再び視野に入るようになり、私たちは知識の源として隅に追いやられたものへと本能的に向かいます。このような種類の進歩には現在のエネルギー消費を維持することなど全く必要ありません。その反対です。「相互共存の物語」での進歩は、現在の環境ではとても起きる見込みがありません。空調の効いた住居、デジタル化された人間関係、長距離の通勤、工業的に加工された食品、物の生産からの疎外、身体と切り離された仕事…、すべて有り余るエネルギーが可能にしたもので、これらは今私たちが次の段階へと進歩する妨げになっています。

あなたはどのように進歩したいですか? どの未来があなたのあこがれるものに一番近いですか? 巨大画面の薄型テレビにロボット掃除システムを備え車3台が入る車庫があって自家用ヘリコプターで行き来できる150坪の家ですか? それとも、天然素材でできた神聖な形の小さな家を取り囲む庭に命があふれ鳥の声でにぎわい、小道で繋がる近くの家々にあなたが深く気づかう人たちが住んでいるコミュニティーですか? これを望むのはあなただけではありません! あなたは自分の意識を、かすかなエネルギーに対する感覚を、その地域の植物や動物の知識を、感情的知性を、本物の人間関係を「開発」したいと思いますか? 多くの人々はこういう種類の進歩に飢えています。それを隅に追いやることなく、社会が集団として支援し推進したらどんな社会になるか想像できますか? このような進歩が、エネルギーや原材料の消費を増加させなくても実現できることは確かです。その反対に、より多くを求めると別の形の進歩に必要な注意と優先順位の移し替えを妨げてしまいます。


注:
[4] ウォルトン(2015)。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-meaning-of-development/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸



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