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力のパラダイム

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


気候変動が環境保護主義で最大の関心事になった今、持続可能性についての議論はますますエネルギーの話に集中していきます。生物多様性や生態系の健康とは違って、エネルギーを測るのは簡単なので、持続可能な社会とは持続可能なエネルギー源のことだと見なすように、数量で考える頭を誘惑します。エネルギーが量的な分析に馴染みやすいおかげで、私たちはエネルギーの問題を社会的・生態的な依存関係の網の目から抜き出そうとします。

私がエネルギーについての章に取り組み始めたとき、私自身の数量で考える頭はスッキリした数字を掘り下げて探求できるチャンスに飛びつきました。発電キロワットあたりの排出量や、「エネルギー収支比」[つまり、あるエネルギー源から得られるエネルギーとそのために使われるエネルギーの比]、様々な再生可能エネルギーの相対的な利益とリスク、予測の最高値と最低値などの細かなデータに、私は没頭しました。計算するのが義務のように感じ、エネルギー問題の「真面目な」議論には量的な根拠が必要だという考えに、私は無意識に影響されていました。私が知りたかったのは、持続可能なエネルギーに移行することが可能かどうかということでした。様々な情報源が互いに真っ向から矛盾しているので、読めば読むほど答は不確かになりました。私は気が散って落ち込んでしまいました。こんなことしていないでもう一回メールをチェックしよう。他の記事をもう少し読んでみようか。それとも『ゲーム・オブ・スローンズ』のドラマを観ようかな。一般市民が見せる無関心と受け身な態度が、私には理解できるようになってきました。その感覚は、一生懸命に研究している私が陥った状態と、どれほど違っていたでしょうか。私はその誘惑から逃げることがほとんどできませんでした。怠惰、抵抗、先延ばし…、これらはもしかすると問題ではなく、もしかすると何かの症状で、もしかすると迷宮の男に話しかける声が、「ともかく止まりなさい」と言っているのかもしれません。

私は立ち止まりました。すると、私の読んだ物の全てにおいて、投げかけられた問いの大きさは不十分で、最良のシナリオよりもっと良い答がありうることが理解できました。私たちがその選択に目覚めさえすれば、地上の楽園が待っています。生態系の危機は現在のコースを進み続けるために克服すべき課題ではなく、目覚ましのモーニングコールであるはずなのです。

再生可能エネルギーが実現可能な未来を約束することを示す(あるいは実現不可能だと示す)グラフやデータを本書で出さないのはこのためです。エネルギー収支比のような尺度は一見すると様々なエネルギー源を評価する簡潔な方法のように見えますが、この一見客観的な数字はたくさんの仮定や推定に基づいていることが多く、果てしない論争の種となります。エネルギー収支比は実際には理論より低くなりがちで、送電網への依存度を考えるかどうかの問題もあります。太陽電池の数字にはバックアップとなる化石燃料の発電容量の必要分を(現時点では)含めるべきでしょうか? 規模の効率と技術改良をどうやって考慮に入れましょうか? エネルギー技術と他の技術はどのように共進化するでしょうか? 社会のパターンはどう変わるでしょうか? ここで私たちが直面する問題は、炭素勘定の目標達成のために一つの生物種を生態系の網の目のような関係性から取り除く時と同じものです。複雑で相互に結びついたシステムを扱う場合、偏りのない数字などというものはありません。おそらくその理由のために、公表された太陽光発電のエネルギー収支比の数字が、下は0.83(つまりエネルギーの消費)[1]から上は14.4まで[2]、非常に幅広く異なるのです。ネット上にあふれているのは、将来は再生可能エネルギーへの移行が避けられないことを示す権威ある論証と、それが不可能なことを示す同じくらい権威ある論証です。これら二つの立場のどちらか一方を読むと、私はもう一方を信じたことが馬鹿らしく感じてしまいます。

気候論争の全てと同じように、エネルギー論争はより根本的な問題から注意をそらします。最も重要なことは、両方の側がともに疑問の余地なく受け入れていることにこそあります。エネルギー論争は、たくさんのエネルギーを(持続可能な方法で得られるなら)使い続けることが人類の利益だということを当然と見なします。現在の進歩の観念を当然と見なします。人間の幸福が向上したのはエネルギー消費拡大のおかげで、それが私たちを苦労からから解放し、一人が何千人分の労働力に等しいものを享受できるようになったことを、当然と見なします。大量の投入エネルギーを必要とする医療と農業の制度が善であるということを当然と見なします。要するに、私たちの知っている「進歩」が望ましく必要だということを当然と見なし、私たちの意思を物質界に押し付ける能力の拡大を進歩と結び付けているのです。

エネルギーは取るに足りない問題だという意味ではありません。私たちがエネルギーに執着するのには、量的な物の見方に上手く当てはまるという以上に、何か別のものが関係しています。食物以外のエネルギー源を利用して仕事をするというのは、ほとんど人間にしか見られません。50万年の間、人間は意図的に火を使って物質を作り変え、5千年の間、私たちは動物を使って田畑を耕し荷物を運び、数百年にわたって私たちは石炭、石油、ガスを燃やして工業技術の原動力としてきました。人間が地球に及ぼした大規模な影響は、エネルギーを仕事に利用したことが原因なのです。

人間にしか見られないことは、人間を決定づける特徴でもあります。私たちが生物種として何者であるかは、エネルギー源として何を使うかに深く関係しています。人が自然を支配するという古い物語の延長として、エネルギー使用量を未来に向かって指数関数的に増加させ、化石燃料を飛び越す原子力は、薪と雄牛を飛び越した化石燃料と同じくらい大きな飛躍だということを当然視します。

初期の原子力科学者の夢は空想だったことが分かりました。一人あたりのエネルギー利用率は第二次世界大戦後の指数関数的な増加を続けることなく頭打ちになり、多くの地域では原子力かどうかに関わりなく減少も始まりました。一人あたりのエネルギー消費はアメリカでは1970年代にピークを迎えましたが、石炭石油という古い技術が工業化で世界の隅々まで行きわたるのに伴って全世界では増加を続けこそしたものの、指数関数的には増えませんでした。エネルギー消費で20世紀に起きた10倍の増加を再現するにはほど遠い状態です。核融合のような「未来の」技術は、化石燃料革命が当たり前のことと教え込んだ指数関数的な成長を再燃させることにはなりそうもありません。私が生きている間ずっと、(高温)核融合は「数十年先」の技術であり続けてきました。

私たちに何が未来的と見えるかは、私たちが未来をどう理解するかにかかっていて、それは実際の未来よりも現在の状況と思想をはるかに大きく反映します。もし人間の進歩が自然を支配する力の進歩を意味するなら、それを可能にするため永遠に増大するエネルギー源が必要です。物質に本来備わった知性を否定する宇宙論でいう秩序ある世界は、人間がその秩序を押し付け、物質の構成要素を動かし作り変える能力に依存しています。私たちが自由に使えるエネルギーが多いほど、秩序を押し付けることのできる規模は大きくなります。

「上昇の物語」が語る人類の歴史は、混沌に秩序を、でたらめさに知性を、野生に文明を押し付ける能力が、これまで絶えず上昇を続けてきたというものです。この勝利の物語は現在では崩壊しつつあり、約束されていた技術の楽園は未来へと遠ざかり、そんな未来はけっして到来しないだろうと私たちは思っています。その反対に、地球の状況はますます悪化しており、多くの人々が文明の存続そのものを心配しているほどです。「自然の征服」はかつて持っていた胸躍るような特別の価値を失い、いまや私たちの多くはこの考えそのものを拒絶します。私たちの思い描く楽園の夢にドーム都市やロボットの召使いはもういません。その代わりに私たちが切望するのは、人間と自然とがエデンの園のように調和する世界です。

支配から参加へ転換すると、自然の働きに打ち勝つのではなく協力することによって生命をより良いものにできることを、私たちは理解します。雑草や害虫、病菌と戦い、土壌化学成分を絶えず支配することが必要な工業型農業というシステムを動かすには、大量のエネルギーが必要です。細菌を殺し、身体の働きを支配することに基づいたハイテク医療システムを動かすには、大量のエネルギーが必要です。力を基にしたシステムは大量のエネルギーを必要とします。それが物理学の基本原則です。この取り組み方が急性の外傷のような多くの場合に極めて有効である一方で、ほとんどの慢性症状ではエネルギーを集中させお金を集中させる方法はホリスティックな方法に比べると全く劣っています[3]。

「ホリスティック」な方法の条件とは何でしょう? それはあらゆるものが相互に結びついており、自己と他者は緊密に繋がっているという理解を利用することです。ホリスティックな方法は、あらゆるものに広がる知性の存在を認め、私たちがその知性と同盟を結べば、身体や土、森、海、地球の知性として現れるでしょう。

私はホリスティック医学の研究者ではありませんが、私個人の経験と他の人から聞いたところを合わせて、私は安価で自然な方法が多くの「不治の」病を治せると確信するようになりました。人間の身体で正しいことは、生態系の体にも、社会の体、国家の体にも正しいはずだと、直感が私に語りかけます。このどれ一つも、支配の技術を存分にかき集め、雑草やテロリスト、暴力、細菌などをきれいさっぱり根絶したところで癒すことはできません。ホールネスへと向かう本来備わった流れと仲間になることでしか、世界の癒しは実現できません。

出来すぎたたとえを使う危険を冒すなら、多くの代替療法がもつ共通点は、人体の自然治癒力を尊敬し、それを支配しようとせず、支え寄り添うことです。代替療法は力を基にしません。私たちがガイアの再生とホールネス(全体性)に尽くすなら、どんな奇跡が可能になるでしょうか? 私たちがガイアの器官をもっと強くし、ガイアの組織を解毒し、体液の詰まりを除くなら、何が可能になるでしょうか?

注:
[1] フェローニとホプカーク(2016)pp. 336〜44。

[2] コッペラール(2017)。

[3] 私はここで引用文献を示すことは控えます。もし疑わしいと思ったらご自分で探求することもできます。高血圧や心臓病のような分野では、数値を示し査読済された研究しか信用できない読者とってさえ、ヨガや瞑想のようなことのメリットを示す証拠は豊富にあります。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-paradigm-of-force/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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