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野生を世話する

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


私が説明した再生型の手法が根ざしている物の見方と関係の仕方は、文明の外で何万年も続いてきたもので、文明の中にあっても潜性の遺伝子として、未来への種子として残ってきました。

この節の題はキャット・アンダーソンの著書の題名『野生を世話する(Tending the Wild)』から取ったものですが、その本では植民地化される前のカリフォルニア先住民と土地との関係を説明しています。狩猟採集民は手付かずの「自然」の中に住んでいただけだという神話をアンダーソンは打ち壊し、先住民の領地の中では生物種と生息場所の成り立ちに意図的で継続的な影響を与えていたことを論証します。白人移住者の素人目には野生と見えた風景の全てが、それとは程遠いものだったのです。アンダーソンはこう説明します。

萌芽更新、剪定、耕起、種蒔き、草取り、焼き畑、穴掘り、間引き、選択的収穫によって、彼らは個々の植物の望ましい性質を伸ばし、有用な植物の数を増やし、植物コミュニティーの構造と構成を作り替えました。カリフォルニア全体にわたり多くの種類の植物を定期的に焼くことで、狩猟動物にとって居心地の良い生息地を作り、茂みを無くし、大火事の危険を減らし、食用作物の多様性を増大させました。このような収穫と管理の方法が全体として、植物の持続可能な収穫を何世紀も、おそらく何千年にもわたって可能にしました[21]。

魚や狩猟動物、野生植物から作った食物の途方もないほどの恵みと、そこからインディアンが怠惰な生活で食べているように見えたことに、白人移住者が目を丸くし、ジョン・ミューアが野の花畑の果てしなく広がるカリフォルニアのセントラル・バレーを輝かしく賞賛して書いたとき、彼らが実際に見ていたものは、何世代にもわたり丹精込めて世話を続け、洗練された庭園だったのです。アンダーソンが聴き取りをした長老によると、ネイティブアメリカンの文化では「荒野」というのは良い概念ではなく、世話の行き届いていない土地のことであり、守り、改良し、命を育てるという務めを人間が果たしていない土地のことを意味していました。

「手付かずの」荒野に住む怠惰な原住民という認識が、どれだけ領地への侵入を後押ししたかは簡単に分かります。どうせ原住民はただそこに住んでいただけで、土地を開発したわけでもなく、とくに何をしていたわけでもないのだ。それは土地の無駄だ。この野生のイデオロギーは、征服のイデオロギーと一体のものです。

ヨーロッパ人移住者の目に自然のままの荒野と見えたものは、じつは何千年にもわたる意図的な人間の影響が生み出したものでした。それを荒野とか「処女地」と呼ぶことで、そこを占拠し、耕作し、「開発」し、「改良」する自由を移住者に与えてしまいました。

この態度は今でもブラジルのようなところで害をもたらしていて、先祖伝来の領地に権利を確立しようとするアマゾン川流域地帯の部族は、昔からその領地を占有していたことを証明しなければなりません。これが難しいのは、彼らが土地に刻んだ印は政府が見て簡単に分かるようなものではないからです。彼らは常設の農場や住居を作りませんでした。「野生」というイデオロギーは彼らが土地と結んだ関係の双方向性を見えなくします。

現代の自然保護活動家が人間の影響を最小限にしたいと言いさえすれば良いのは、工業時代に私たちが目にしてきたような人間の影響は、環境を気づかう人が見たら恐怖にたじろぐほどだからです。私たちは「足跡を残さない」という倫理を掲げていれば良いのかもしれません。私たちはこんな未来を思い描いていれば良いのかもしれません。人類はドーム都市や宇宙コロニー、仮想現実の中に引きこもり、自然はかつての全体性(ホールネス)を取り戻せるようそっとしておき、見せ物や娯楽の場としてだけ自然と関わり、全く影響を与えない幽霊のようなものとして自然を訪れ、観察はするけれど参加することはない。

『野生を世話する』ではこれとは違う展望が示され、産業社会が私たちに植え付けた認識から解き放ってくれます。影響を全く与えないのではなく、良い影響を与えることを提案します。足跡を残さないのではなく、「美しい足跡を残す」「癒しの足跡を残す」ことを提案します。「私たちを含んだこの全体の、健康と調和、進化のために、私たちが果たすべき正しい役割と働きは何なのか?」と問うことを提案します。

技術と文化を形作る手と頭脳と心という力強い資質が、私たちにはあります。これらの資質は私たちだけのためにあるのではありません。「生命」の全体性と進化に奉仕するためにあるのです。

私たちの資質を文明としてこのように活用してこなかったのは確かです。産業革命前の人々でさえ、中東などの地域の砂漠化を引き起こし、北米・南米大陸の大型動物を消滅させるなど相当な打撃を与えました。大型動物の消滅と同時に植生の劇的な変化も起きました。マンモスやマストドンなどの大型動物の絶滅によって、大陸の多くの地域では森林がサバンナに取って代わり、これとともに全体的な生物多様性[22]と栄養素の供給が激減しました[23]。もしかすると、北米大陸への新参者がこの大陸に残された生物資産の保護と拡大に特別な注意を払うことを学んだのは、この絶滅という悲劇を通じてのことだったのかも知れません。

誰かが先住民だからといって、その人、その文化が地球と互いに有益な調和の中に生きる方法を知っているとは限りません。それは各々の文化が学ばなければならないものです。さらに、発達の一つ一つの段階で新たな学びが必要になります。

大型動物やその他の動植物の絶滅は、必ずと言って良いほど人間の新天地への定住に続いて起きました。オーストラリア、南北アメリカ大陸、ニュージーランド、マダガスカル、ポリネシアでは、どこもこれが起きましたが、人為的な生態系破壊はある意味で避けられないことを示し、これは人類の犯行能力の増大とともにますます加速しました。でも最終的には、これら全ての地域で人々は自分の住む土地との平衡状態に達しました。ほとんどの場所では、その後の両アメリカ大陸の生物資産が示すように、豊かで多様な生態系を持つ平衡状態でした。このことが示すのは「破壊者、人類」を超越した別の可能性で、私たちは失敗から学ぶことができ、私たちの資質を成熟させ別の目的のために振り向けられるということです。

もしそうなら、故郷と呼ぶ土地と水を持続可能な形で世話し豊かにしてきた先住民から学ぶことが、私たちにはたくさんあります。この学びは、実際の手法からの学びを伴うこともあるでしょうが、それよりも、そもそもそのような手法を生みだしたメンタリティーを受け入れることが中心となるのは、1万年前の環境とか、たった500年前の環境でさえも、永遠に失われてしまっているからです。そのメンタリティーは私が「相互共存(インタービーイング)の物語」と呼ぶ世界観の産物で、その物語はいくつもの先住民の多様な神話を一つに結び付けます。より実際的には、自然との間にその場所にしかない親密で敬意を持った関係を作り出すことを意味します。長期にわたる注意深い観察と相互作用を自然と交わすことで、「この川には何が必要なのか?」「この山は何を求めているのか?」「この土地は何を夢見ているのか?」といった問いに対する答が、私たちに聞こえ始めるのです。

このような種類の質問に答えるには、科学的であってもなくても、長く親密な観察が必要となります。どの土地を小さな群れで放牧し、どの土地の放牧を完全にやめて保護すべきかを判断する確実な公式はありません。どの外来種を「侵入種」として駆除し、どの種を新たなバランスに役立てるため受け入れるべきかを判断する確実な公式はありません。

後者の問いは、生態系の損傷を逆転させ在来種を復活させようとする復元生態学者と、復元という概念の背後にある前提を疑問視する「新生態学者」との間の論争に反映されます。科学作家のジャネット・マリネリはこの分断を次のように説明します。

森林その他の生態系の復元がますます重要になる時代に、復元科学という主流のパラダイムは根幹から揺るがされています。大陸へのヨーロッパ人の到来以前の状態へと土地を戻すことを、明記されることは希であっても基本的目標としている復元生態学者が、いま議論を戦わせている相手は新生態学者と呼ばれる人々で、環境保護思想における「在来種が一番」という考えに異議を申し立て、地球でますます優勢になりつつある在来種と外来種の混じった「新規生態系」を支持します[24]。

この文章が言外にほのめかしているのは、2つの立場の間に新たな融合体が出現しつつあることです。生態系を修復するために人間の介入が必要なのは明らかですが、必ずしも元の状態にではなく、健康な状態に修復するのです。しかし、元の状態など関係ないということでもありません。土地が何を必要としているか、なぜその必要があるのか、どうすれば満たしてやれるのかを理解するために、過去の歴史の知識が役立ちます。たとえば、どんな時に侵入生物種の駆除が必要になるか、どんな時に傷付いた生態系のバランスを取り戻す担い手になるかを教えてくれる一般公式はありません[25]。

「自然を信頼する」と「生態系を修復する」のどちらも、実行のための信頼できる処方箋を示してはくれません。問題は、やるかどうかではなく、どのようにやるかです。処方箋がない以上、生態系の一つ一つの存在がもつ非直線的で生きているという性質の、場所に特有の理解に基づいた親密な観察と誠実な問いかけをしていく以外、私たちには残されていません。それこそが、私たちの住む場所と地球の健康を再生させるという仕事にどうやって参加するかという知恵を得る方法なのです。

私がこの章で説明した再生型の手法は、すべて共通の考えを出発点に持っています。地球は生きています。生きているものを、私たちは愛することができます。愛するものに、私たちは尽くしたいと思います。愛するものが病んでいるとき、私たちはその苦しみを和らげ癒すために役立ちたいと思います。そのことを深く知るほど、私たちはより良く癒しに参加できるようになります。


注:
[21] アンダーソン(2006)。

[22] バルノスキーら(2016)。

[23] ダウティら(2013)。

[24] マリネリ(2017)。

[25] 侵入生物種管理の複雑さについての批判的な議論は、タオ・オリオンの著書『Beyond the War on Invasive Species(特定外来種戦争を超えて)』を参照。侵入生物種駆除の取り組みは有害無益であることの方が多いものです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/tending-the-wild/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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