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大地に感覚があると知っていたら

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


大いなる死がやってくると警告するのは西洋の気候破滅論者だけではありません。多くの先住民たちも重大な危機が私たちに迫っていると見ています。彼らの警告は温室効果ガス濃度の上昇のことを言わず、生命そのものの冒とくが絡んだ別の因果関係の網の目を引き合いに出します。このもっと深い因果のシステムは一連のさらに深い対応が必要なことを示し、その全ては生命と物質を改めて神聖なものとすることに行き着きます。それは新たな希望を与え、気候変動との終わりなき「戦い」という悪あがきからの出口を与えてくれます。

本書の第4章と第5章をお読みになった人なら驚くことではないでしょうが、この警告の多くは生態系破壊のレベルだけに向けられています。ここに特筆すべきヤノマミ族のシャーマン、ダビ・コペナワの著書『落ちる空』から引用します。

森は生きている。それが死ぬとすれば白人たちが続ける破壊のためだけだ。白人がまんまと破壊してしまうと、川は地下に消え、土は粉々に砕け、木々は縮み上がり、石は熱でひび割れる。干上がった大地は虚しく静まりかえる。山から下りて来て森の鏡で戯れる「シャピリ」の精霊は、遠くへ逃げてしまう。我らを守るために踊る精霊を、父親であるシャーマンたちはもう呼ぶことができない。我らを貪(むさぼ)る疫病の煙を払い除けようにも、シャーマンたちに力は無い。彼らはもう森を混沌へと変える邪悪な者たちを押し留めることができない。我らは一人また一人と死に、我らと同じように白人たちも死ぬ。ついにはシャーマンもみな死ぬ。そのとき、もし支える者が生き残っていなければ、空は落ちてくる[3]。

ここでコペナワは先住民の間に広く共有されている信念を表明しています。それは、祭祀を含む人間活動は、世界を一体に繋ぎ止めている糊の一部だということです。私たちが自分の正しい役割を忘れて生命に奉仕するのを止めたら、世界はばらばらに壊れてしまうのです。

コロンビアのシエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地に住む部族(中でも最も良く知られているコギ族)は同様の信念を持っています[4]。彼らの信念では、黒い糸、つまり隠れた繋がりのネットワークが、地球上のあらゆる聖地を結んでいるのです。その糸が切れるようなことがあれば、災難が襲い、この美しい世界は滅びます。ここで森を破壊し、あそこで沼地を干拓したことが、地球全域にわたって悲惨な結果を招くかもしれません。私たちの略奪行為を前にして、シャーマンたちはもう自然のバランスを保つ働きができないのです。

このような警告を私たちはどう解釈すべきなのでしょうか?

西洋人の頭に浮かぶ解釈はいくつかありますが、どれも不十分なものばかりです。私たちが彼らの警告のことを、無知な未開人が魔術か宗教でわめき立てているだけだから、愚かな迷信から目を覚ましてやるのが私たちの務めだなどと言って無視するほど、私たちの多くは粗っぽくないでしょう。現在の私たちは彼らのメッセージに耳を塞いで難聴をきめこむため、もっと手の込んだ方法を使います。

第一は、「存在論的帝国主義」とでも呼ぶべきものです。それはこう言うようなものです。「そうです、やはり先住民は何かを感じているのです。黒い糸は生態系の相互関連性を象徴しているのです。『シャピリの精霊』は水循環を示す符号です。先住民は自然の鋭敏な観察者で、科学的真実を彼ら自身の文化的言語に取り込んだのです。」その通りだと思いませんか? その言い方は、彼らが自然の鋭敏な観察者であることを認めます。しかし、この見方は基本的な現実が科学的唯物論のものであることを当然と見なし、これによって先住民の概念的な枠組みと因果関係の理解を認めないことになります。それが根本的に言っているのは、彼らより私たちの方が現実の本質をよく理解しているのだということです。

彼らのメッセージが単に「私たちはもっと上手に自然の世話をしなければいけない」というものなら、先に書いた理解で十分でしょう。でもダビ・コペナワやシエラ・ネバダ山地の部族のような人々は、それよりずっと深い変化へと私たちを誘(いざな)っています。私たちは現実の本質を彼らよりも良く理解しているでしょうか? かつてはそう見えましたが、今では私たちが理解したと思っていたものから生まれた社会と生態系の危機が、私たちの確信を蝕んでいます。

第二の関連した形の難聴は、エドワード・サイードが「オリエンタリズム」と呼んだもので、他の文化を歪曲して(理想化し、悪魔化し、誇張し、毀損して)、自分の都合にあう心地良い物語に沿うようにするのです。その結果、私たちはコギ族をある種の文化的・精神的フェティシズムの対象にすり替え、学術研究のテーマにしたりして彼らの信念と生活様式を様々な民俗学の分類に当てはめることで、私たち自身の文化的神話に組み込みます。そうして私たちは彼らを毒抜きし、彼らを我が物にするのです。それはもう一つの帝国主義です。

彼らのメッセージを「先住民の知恵」という都合の良い壺に入れることで、私たちは同じことをしているのかもしれません。そうやって先住民を超人的な地位に高めると同時に、その過程で彼らを非人間化します。イメージを崇拝するのは真の尊敬ではありません。それは私たち自身の影が逆さ写しになったイメージで、それを別の文化に投影するのです。真の尊敬とは、誰かをその人自身の言葉で理解しようとするものです。

シエラ・ネバダ山地の部族は、『世界の中心から』と『アルーナ』という2本の映画によって今では良く知られるようになりました[5]。私がいつも異文化のドキュメンタリーというものに少し違和感を覚えるのは、その対象とする主体を必然的に客体化し、(動画の)「ドキュメント」という資料に作り替えるからです。それを記録することで、私たちの世界に取り込み、無毒な教養や娯楽やスピリチュアルの枠組みに取り込み、ギー・ドゥボールのいう「スペクタクルの社会」に取り込みます。さいわい、この2本の映画はドキュメンタリーではありません。

ここでの映画製作者はだれでしょう? 普通なら自分のカメラと撮影班を連れて現地に入った元BBCプロデューサーのアラン・エレイラだということになるでしょう。でもそれはエレイラのいうこととは違っていて、コギ族がいうこととも違います。コギ族がいうには、地球の荒廃が加速しているのに気づいた長老たちが、破壊を止めなければならないというメッセージを伝えるため、外の世界と接触したのです。彼らはまず1990年代の初めに『世界の中心から』でこれを行い、その後また外部との接触を断ちました。

私たちが彼らのメッセージを聞き入れなかったのは明らかでした。コギ族は、「我らは十分はっきりと話していなかったのだ」と結論し、続編を作るため再びエレイラを捜し出しました。ポストコロニアル分析の手法を使ったことのある皮肉な観察者なら、「コギ族がメッセージを伝えるためにこの映画を作ることを求めた」というのは映画演出上の比喩に過ぎず、そうやって異国趣味や東洋趣味、文化の横取りだという嫌疑に予防線を張るのだと考えるかもしれません。しかし、その分析はそれ自身ある種の植民地主義で、コギ族を映画製作者の無力な手先だと上から目線で決めつけ、彼らが大切なメッセージを「弟」(つまり私たち)に伝えるために映画製作者を呼び戻したのだと、彼ら自身がはっきり主張しているのを無視することになります。

シエラ・ネバダ山地の長老たちの言葉を私たちはあえて額面どおり受け取るでしょうか? この映画だけでなく彼らが主導して私たちに送ったメッセージの発信者として、完全な主体性を持っていると、私たちはあえて認めるでしょうか? そうすれば、ポストコロニアル論に敏感な民俗学にも暗黙のうちに含まれている力関係が逆転します。民俗学では対象と研究者の区別が普通は何らかの形で保たれます。(その区別は必要な免責事項を添えて学術文献にも表れるほど制度化されています。)人類学では民俗学的な集団に対して学術界へのメッセージ発信者としての主体性があるとは認めないのが普通です。

この2本の映画では、植民地支配の眼差しが逆転し私たちに向けられます。厳しく、懇願するようで、大いなる愛に満ちた眼差しです。長老たちは私たちに語りかけます。「あなた達が世界をばらばらに切断するのは《偉大なる母》のことを忘れてしまったからです。もしこれを止めなければ、世界は死にます。」どうか信じて下さいと、彼らは言います。こんなことは止めなければいけないのだと。「私たちがただのお喋りでこの言葉を言っているのだと思いますか? 私たちは真実を語っているのです。」

弟はなぜ聞く耳を持たないのでしょうか? コギ族の長老たちが初めて近代社会に向けてメッセージを語ってから30年近くが経ちました。私たちに聞こえないのは、たぶん私たちがまだ謙虚さに辿り着いていないからでしょう。私たちはコギ族とそのメッセージをどうにかして箱に入れ、封じ込め、落とし込もうとし続け、そうすることで従来の「世界の物語」に心地良く収まるようにします。

本書で私は、還元主義(落とし込み)という「世界の物語」が土台となって、生物種の絶滅、土壌の窮乏化、生態系の崩壊など、文字通り世界の落とし込みがあることを提示しました。コギ族は同じような教訓を与えます。思考は物質の足場であり、思考がなければ何も存在できないと彼らはいいます。(これが人間中心の見方でないのは、彼らが思考を単に人間の心の産物とは見ていないからです。思考は人間よりも先に存在していて、私たちの心はその受信機の一つに過ぎないのです。)映画『アルーナ』の公式ウェブサイトはコギ族の見方をこう表現しています。「私たちは世界をただ略奪しているだけでなく、世界の知性を低下させ、物質的な構造とその存在を下支えする思考をどちらも破壊する。」

ありがたいことに、シエラ・ネバダ山地の長老の言葉を誠実に聞くのに不可欠な謙虚さ(恥じること)は私たちの中にしっかりとあり、それが何から生まれたかというと、屈辱(はずかしめ)なのです。私たちの文化的神話が解体すると、技術や政治、法律、医学、教育など私たちが大切にしてきたシステムが破綻する中で、私たちは何度も屈辱に向き合わされます。私たちの無知をどんどんエスカレートさせ意図的なものにすることだけが、文明の壮大な計画が行き止まりに突き当たったことを否認するただ一つの方法です。いま私たちが理解するのは、私たちが自然に対してすることは私たち自身にしているのと同じであり、自然の略奪は私たちに貧困をもたらすということです。科学技術者と社会工学者が唱えるユートピアの蜃気楼は、ますます彼方へと消えていきます。

私たちの根本的な枠組みと物語が解体し、私たちの「世界の物語」が解体すると、私たちに謙虚さという才能を与えてくれます。先住民の教えを、あたかも博物館の収蔵品や宗教的な収集品のように、ただ「先住民の知恵」という都合の良い壺に入れるのではなく、誠実に受け取るために私たちの目を見開かせることができるのは、この謙虚さだけなのです。

私は先住民の宇宙論をそのまま受け入れることを勧めているのではありません。私たちがシャーマンの儀式を真似したり水中の泡を聞く方法を学んだりする必要はありません。私たちがしなければならないのは、そもそも水に聞き耳を立てようとする動機を与えてくれる中心的な理解を受け入れることです。自然は生きていて知性があるという理解です。それを受け入れるとき、私たちは自分なりに聞く方法を見つけるでしょう。

西洋文明の頭では、知性を持った自然という考えを簡単に理解できません。擬人化するか神格化すれば把握できますが、これは自然を征服する別の企てです。

自然やその中にある全てのものに主観性と主体性があるのを認めることは、そこに《人間の》主観性と《人間の》主体性を当てはめて、おとぎ話を作るという意味ではありません。それが意味するのは「大地が求めているものは何か?」「川が求めているものは何か?」「地球が求めているものは何か?」と問うことで、それは自然を物と捉える観点からは気が狂っているようにしか見えない問いです。

しかし、昔から唯物論だったわけではありません。科学は変化を続けていて、新たな理解が始まっています。自然は人体と同じように相互に依存するシステムを含むシステムを含むシステムからできていること、土壌中の菌糸のネットワークは脳組織と同じくらい複雑なこと、水は情報と構造を保持できること、地球や太陽さえも身体と同じように恒常性のバランスを保つこと。私たちが学びつつあるのは、秩序と複雑性と組織化が物質の根本的な性質で、その仲立ちとなるのが私たちの認識する物理的なプロセスと、おそらくその他の認識していないプロセスだということです。物質から排除されていた精霊は復活します。外からではなく内から。

すると、「自然は何を求めているのか?」という問いが、その一貫性を超自然的なものや外部にある知性に依存することはなくなります。その欲求は有機的なプロセス、関係性から生まれる生命力、ホールネス(全体性)の開花に向かう運動なのです。

その理解では、私たちはもう、森林を切り倒し沼地を干拓し、川をダムで堰き止めて道路で生態系を小間切れにし、鉱山を露天掘りしガス田を掘削しながら、何の罰も受けないでいることはできません。コギ族が言うのは、そうすることで自然の総体が傷つけられるということで、それはまるで人の手足を切断したり臓器を取り除いたりするようなものだということです。全員の幸福は一人一人の幸福にかかっています。私たちは一つの森をここで切り倒し別の森をあそこに植えて、二酸化炭素の総量を計算し、何も害になることをしていないと示して安心することなどできません。私たちが臓器を取り除いてはいないとどうして分かるでしょうか? コギ族が《エスアナ》と呼ぶもの、自然界の足場である黒い糸の重要な結び目を、私たちが破壊してはいないとどうして分かるでしょうか? 聖なる木を、コギ族が「生物種の父」と呼ぶ、あらゆる生物種が依って立つものを、私たちが破壊してはいないとどうして分かるでしょうか?

私たちにそれが分かるようになるまで、私たちはどんな規模であれ生態系破壊をさらに犯すことは慎んだ方が良さそうです。私たちに残された手付かずの入り江、川、森、湿地の一つ一つを、私たちは神聖なものとして扱わねばならず、その一方で修復できるものはどれでも修復しなければなりません。ダビ・コペナワとシエラ・ネバダ山地の長老たちはこれに同意します。私たちは死にゆく世界の傍らにいるのです。この警告は私が第7章で提示した可能性と矛盾しません。人類は破壊された世界、コンクリートの世界、死んだ世界で生き残れるかもしれないという可能性。世界は死ぬかもしれないが私たちは生き残る。

科学は数多くの文化が昔から知っていることを認識し始めています。見えない因果の網の目が地球上のあらゆる場所を本当に結んでいます。道路を建設して水の自然な流れを重要な場所で切断すると、次々と起きる変化の引き金を引いてしまうかもしれません。蒸発の増加、塩水化、植生の消滅、洪水、干ばつ。その影響は広い範囲に及びます。私たちはそれを、あらゆるものに相互関連性と命が宿るという一般原則の典型例だと理解しなければなりません。そうしなければ、自然を守る理由として私たちに残されるのは道具的功利主義の論理だけです。熱帯雨林を救う理由は私たちにとっての利用価値のため。でもその物の見方が問題の一部なのです。私たちには利己心ではなくもっと愛が必要です。自分が得をするために他人を搾取することが間違いなのは、他人は感覚と欲求と痛みと喜びを持った完全な主体であるということを、私たちが知っているからです。もし私たちが自然も完全な主体だと知っていたら、私たちは自然を破壊することも止めるでしょう。映画『アルーナ』で長老の一人がこういいます。「もしも大地に感覚があると知っていたら、あなたは止めるでしょう。」

もしも自然に感覚があると知っていたら、あなたは止めるでしょう。自然が感覚を持っていることを私たちが知らない限り、けっして止まないこともまた明らかではないでしょうか? 自然が感覚を持っていることを私たちが知ることを助けてくれるような「世界の物語」が、私たちに必要なことは明らかではないでしょうか?


注:
[3] コペナワとアルバート(2013)への序文から。

[4] 他の部族はアルワコ(またはイカ)族、ウィワ族、カンクアモ族です。この中でカンクアモ族はほとんど文明に同化されてしまいました。アルワコ族は先住民の権利を護る運動で政治的に活動する一方、コギ族は接触を最低限にして自分たちの文化を守るため山中に引きこもっていました。全ての部族はコカ栽培者、自警団、土地開発業者などの手で苦しめられました。この節で私は主にコギ族に言及しますが、私がいうことのほとんどは他の部族にも当てはまります。

[5] この節の出典は私が『ティックン』誌に書いた『アルーナ』の映画評、『アルーナ:弟へのメッセージ』(アイゼンスタイン、2015a)。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/if-we-knew-she-could-feel/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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