見出し画像

我らは科学を信ずる

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


お金が近代社会のアーチの要石なら、その基礎は間違いなく科学でしょう。現実的になれと誰かが言うとき、それはお金のことか、そうでなければ科学的に検証できる事実のことを言っているのが普通です。科学は私たちの文化が現実を理解する中心的な地図となります。もし気候変動が人類文明の新たな段階への通過儀礼を本当に私たちの前に差し出しているなら、科学はお金と同じように大規模な変貌を遂げると思っておいた方が良いでしょう。

非主流派の宗教を除けば、科学は私たちの社会で権威が存在する最高の場所です。少なくとも一世紀のあいだ、「科学的」であることは実業界、政府、医学その他多くの分野で正当性の拠り所として最高のものでした。科学の教えの一部を意識的に拒否する人でさえ、科学そのものは熱望します。私たちの文化では科学が真実を見いだす最上位の手段だと見なされているので、科学のいうことを否定するのは不合理の典型のように見え、真実そのものの意図的な否定に等しいと映ります。

気候論争を真実の力と欺瞞の力の衝突として描くと抜け落ちるものがたくさんあることを、私は主張しました。これは単に知性ある者と愚かな者の戦い、遅れた者と進んだ者の戦い、腐敗した者と倫理ある者の戦いではありません。科学の否定は、少なくとも「科学の言うこと」を否定することは、私たちが知る文明の岩盤に地殻変動が起きる前触れです。

私たちの文化における科学は、単に知識生産のシステムや探求の方法ではありません。何が現実であり世界はどのように働いているかという私たちの理解に非常に深く根付いているので、この文明の宗教と呼んでもいいぐらいです。私たちが目にしているのは真実への反乱ではなく、この文明最大の宗教に起きた危機なのです。

読者はこう反論するかもしれません。「科学は宗教ではありません。宗教とは反対のものだといえるのは、何かを疑わずにそのまま信じることを求めないからです。《科学的方法》は嘘から事実を、迷信から真実をふるい分ける方法を与えてくれます。」

実際には、宗教が真実を授ける常套句と同じように、「科学的方法」には感覚や経験を超越した前提があって、それを私たちは疑わずにそのまま信じなければならないのです。その最たるものが客観性で、仮説を設定し実験しても、実験の対象となる現実が変わらないことを、何よりも当然と見なします[1]。これは他の思想体系ではけっして明白なものとして受け入れられない大きな仮定です。感覚や経験を超越した前提は他にも次のようなものがあります。

・実在するものは全て原理の上では計測し数値化できる
・この世界に起きることは全て、(アリストテレスの作用因という意味において)引き起こされるから起きる
・物質の基本的な構成要素は個性を持たない。たとえば、2つの電子は全く同一である
・自然は数学的な不変の法則によって書き表すことができる

これらの教訓のいくつかに科学哲学者なら合理的な反論をするかもしれませんし、量子力学と複雑系理論からの激しい攻撃で崩壊しかけていますが、それでもなお科学という文化と物の見方を特徴付けています。感覚や経験を超越したこの暗黙の前提から、科学が宗教と似ている点が他にもあることを見てください[2]。科学は、

・真実を手に入れるための手続き(「科学的方法」)
・知識を得るための手の込んだ占いの儀式(実験)
・現実を操るのに使う他の儀式(テクノロジー)
・あらゆる運動と変化の原因となる、目に見えず普遍的な精気(「エネルギー」や「力」など)
・秘伝を授与された者だけが理解できる難解な言語
・人間の本性についての教え
・世界創造の物語(ビッグバンとダーウィンの進化論)
・特別な道具(顕微鏡など)の助けを借りて明らかにできる、目に見えない存在(電子やミトコンドリアなど)
・癒しを目的とした特別な儀式(医学)
・司祭職と、信心深さの様々に異なる俗人と、異端者
・司祭職に入るための訓練と通過儀礼(大学院)
・司祭たちの秩序と組織
・「説法師」、つまり福音を一般大衆に届ける科学作家や普及者
・伝説的な聖者や英雄(ダーウィン、ニュートン、アルキメデス、アインシュタイン、マクスウェル、ボーア …)
・大義への殉教者(ジョルダーノ・ブルーノ、ガリレオ)
・主流の宗派と狂気のカルト
・過激主義者、原理主義者と、寛容な穏健派
・教義上の分派、異端者、背教者
・異端者の破門(資金のカット、論文誌でのブラックリスト入り)
・道徳と倫理の体系(たとえば、合理的な選択、科学的な政策)
・若者を教化するためのシステム

ここで言いたいのは、科学は結局のところ宗教以外の何物でもないから捨て去ろうというわけではありません。そうすると微妙な間違いを犯すことになります。科学が宗教を捉える見方を批評の言葉として受け入れることになるからです。しかし、宗教を「真実への王道としての科学」と対照させることから生じる暗黙の低評価を、もし私たちが否定するなら、科学を宗教と呼ぶことが科学の過小評価とはなりません。反対に、新たな問いを解き放ちます。「この世界観の中から生まれるような技術にはどんな限界があるのか?」とか、「現在の危機を解決するために、そこからどんな他の宗教(形而上学、知覚、技術の体系)が生まれるだろうか?」と、私たちは問いかけてもいいでしょう。感覚や経験を超越した前提のいくつかを私たちが捨てたら、科学がどんなものになるかを、私たちは探求しても良いでしょう。観察する者とされる者が切っても切れないほど複雑に絡み合っていることを私たちが認識したら、それはどんなものになるでしょう? あらゆる物質に意識と主体性があると認識したら? 量的な論法を質的なものより上位に置くことをやめたら?

ドグマの覆いに包まれ、最重要の精神的真実をめぐって制度的な機能不全に陥っているのは、数ある宗教の中で科学だけではありません。科学という宗教の精神的な特質は、その制度に見られる傲慢さとは反対のものです。「科学的方法」は深く美しい謙虚さを具体化したものです。それは、「私は知らない、だから私は問うのだ」といいます。科学が健全なとき、その謙虚さが取る形は、批判的思考、辛抱強い経験的観察、仮説検証、そしておそらく最も重要なのは、お互いの研究を批判し、洗練し、積み重ねていく知識探求者のコミュニティーです。真の科学者は、たとえ資金を失い、名声や自己像が傷付くとしても、自分の誤りを常に認めます。

実践の文化が持つこのような謙虚さという特質と長きにわたる経験が、知識探求の道を科学に作り上げているのです。したがって、ここで私が呼びかけたいのは科学を捨てることではなく、それを拡げて今まで無視してきたものを取り込むことです。

エコ・フェミニズムとディープ・エコロジーが批判してきたのは、観察者を観察対象の存在から遠ざけて分離し抽象化することで、世界を単なる物体にしてしまう科学の傾向でした。フランシス・ベーコンの考えでは、実験の方法とは自然の尋問であり、自然の強姦ですらあって、自然の最も深いところにある謎に無理やり押し入ることでした。もし私たちが自然の尋問ではなく自然との対話だと考え、強姦ではなく愛の営みだと考えたら、どう変わるでしょう? もしも科学は自然を無理やり自分の範疇に当てはめる手段ではなく、愛する者をより良く見るために私たちの感覚が及ぶ範囲を拡大する方法だと私たちが捉えたらどうなるでしょう?

私がこのような問いを投げかけるときにある種の恐れを抱く理由は、従来の見方だと少しでも科学を否定することは、はるか昔から信じるに値しないとされてきた神話と不合理性と迷信への逆戻りだからです。私は無知な人と一括りにされたくありません。現在の問題は科学への信頼が高すぎることではなく、反対に低すぎることなのは、ほとんどの人々にとって全く明らかなことです。その結果、あなたはこう考えるかもしれません。私が先ほど主張したことが、たぶん哲学的には正しいとしても、それを気候変動の文脈で持ち出すのは戦略ミスで、気候変動否定論者を増長させ汚染を引き起こす者たちに隠れみのを与えることになると。それでも私が問いを投げかけるのは、科学が含んでいる感覚や経験を超越した前提とそれが制度として表れたものは、どちらも世界を荒廃させたシステムの要となる部分だからです。科学が現実を数字に落とし込むのは、自然をお金に換えることの写し絵です。物質を無個性な素粒子へと一般化するのは、産業経済で人々と商品を型どおりの標準品にすることの写し絵です。そして科学から出てくる技術が、その両方を促進するのです。

変化は起き始めていますが、これまでの科学が(今もですが)私たちに教え込んだのは次のようなことでした。

・世界は感覚を持たない物の集まりだと見る
・「合理的」に、つまり功利主義的な計算に基づいて判断する
・観察者は観察対象から独立していると見る
・自然は操作し支配する対象だと見る
・計測できないものや質的なもの(精神、美しさ、神聖さなど)は無視する
・有機的ではなく機械論的な言葉で考える

科学を否定する一般人は、一見すると無知なのにもかかわらず、科学の限界についての本物の直感を、意思決定の指針や最終的な真実の拠り所として利用しているのかもしれません。一般人が科学や権威全般を否定することを厄介な不服従だと見るのをやめて、その中にある不都合な真実を探すことが、私たちには必要です。

「気候変動についての科学的合意を信じなさい」と私たちがいうとき、暗に含まれる意味には次のようなものがあります。

・合意が形成される社会的プロセスを信じなさい。
・科学的合意があると宣言されている他のものごとを信じなさい。
・科学が代表する基本的な知識探求の取り組み方を信じなさい。
・科学を下支えする形而上学と存在論の暗黙の前提を信じなさい。
・科学に正統性の根拠を置く他の制度を信じなさい。
・問題を解決する科学技術の力を信じなさい。

さまざまな方法で、私たちの信じたこれら全てのものごとが、今も続く生物圏の破壊の原因を作り、これからも原因となり続けます。気候変動との戦いで科学を引き合いに出すことによって、急進的な環境保護主義者が難題に直面するのは、生態系を破壊するシステムを取り仕切り擁護してきたのと全く同じ知的権威のシステムへの是認を求めてしまうからです。それに加えて、緊急の行動を求めることで既存の制度をさらに強化することになるのは、それ以外に今すぐ行動できる者がいないからです。気候活動家は自分自身が知的権威を擁護しながら同時に戦うという不都合な立場にいるのに気付きます。

科学という制度への信頼に依存し、その延長として権威一般への信頼に依存することによって、私たちを気候の破滅から救おうとするなら、私たちの足下は揺らいでしまいます。言葉の上でも戦略のレベルでも、科学を信頼し先生が大事だと言うことを信じる善良な少年少女というあり方を、私たちは乗り越えていかねばなりません。科学を理解しない人を軽蔑するときの(あるいは子供向け科学書で「教育」してやらなければいけない反抗的な若造だと上から目線で決めつけるときの)独り善がりの臭いを、私たちは洗い流すことが必要です。「科学に書いてある」という言葉は、農家、猟師、牧場主など、多くの場合(アメリカでは)保守的な政治的立場を取り、ドナルド・トランプに投票し、気候懐疑論の立場へと極端化した人々の耳に入ることがありません。また権力者層が自分たちを裏切ったと、至極当然ですが、感じている労働者階級の人々の心に響くこともありません。

ブレグジットやトランプの大統領選出のような最近の政治的な出来事が指し示すのは、確立された権威を否定する人々が増えていることです。ふつうは頑迷な偏見や外国人嫌い、そして分かりやすく「不合理性」のせいだとされますが、このような出来事が指し示すのは、大きな勢力を持った制度とそれを運営する支配層の正当性が、病的な危機に陥っていることです。富の集中が激しさを増し社会契約がさらに綻(ほころ)びるのに伴って、危機は悪化するだけでしょう。社会の柱である医療、教育、法律が、愚かしいほどの機能不全へと逸(そ)れていくにつれ、危機は悪化するでしょう。進歩主義と保守主義のどちらの政府ともが政治システムの修正に手こずっている間にも、危機は悪化するでしょう。普通という枠の外、「オルタナティブ」の領域で芽を出した力と美しさに人々が気付くにつれ、危機は悪化するでしょう。

多くの人には、あり得るし真実だと科学や権威一般が教えるようなこととは矛盾する直接体験があります。ある友人は生涯ずっと苦しんできた生理痛が数回の鍼(はり)治療の後、彼女が極めて懐疑的だったにも関わらず、さっぱりと消えてなくなる。ある女性は「不治の」ステージ4膵臓がんから回復する。ある男性は幻覚植物イボガを使用する儀式で彼の先祖と直接対話し、薬物依存症から抜け出る。対立するギャング団が関係修復サークルで出会い和解する。私の息子の十代の友だちはUFOを見る。これらのような経験によって人々の心はさらなる体験へと開かれます。「不可能」が起きるとき、私たちはこれまであり得るとされてきたことの境界線を疑い始めます。

私が知っている中で最も高い教育を受けた人の中には占星術にのめり込んでいる人たちがいます。哲学研究者、法律学の教授、医療人類学者です。この人たちは他の惑星からの重力の影響が無視できるほど小さいことを愚かすぎて理解できないわけではありません。確証バイアスを知らないのでもなく、気まぐれなノイズの中に幻影を認める心の傾向を知らないわけでもありません。高い知性を持つ内省的な人々です。あなたはこの人たちのことを、迷信を信じる愚か者で、あなたより合理的ではないと片付けるかもしれませんが、その証拠は何ですか? 科学界の世界観とその因果関係の説明が、現実そのものと同じだとあなたが知っているからですか? 同じように、何千年も占いを実践し続けてきた世界中の文化は、単に自己欺瞞という心の能力に気付いていないだけだったと、あなたは確信を持っていえますか? 私たちは賢くて彼らは愚かだと、私たちは進んでいて彼らは未発達なのだと、そして私たちの歴史的使命は彼らの劣った知識獲得方法を私たちの優れた方法で置き換えてやることだというのでしょうか? そのメンタリティーは、解決法の一部というよりは問題の一部であるように見えます。

皮肉なことに、エネルギー療法、占星術、ミステリーサークルなどを受け入れる人々の多くが、気候問題に「科学に基づく政策」を求める声を上げてもいるのです。一方で彼ら自身の生活では、易経に基づく方策や、タロットに基づく方策、占星術に基づく方策を用いているのです。このことが典型的な例となっているのは、霊的なことと政治を別々の領域に隔てている分断の壁です。それは崩れ去るべき分断です。私たちが救済されるための鍵は科学が現在与えてくれるものを超えたところにあって、世界を生きものとして、神聖なものとして、愛すべきものとして向き合うことにあるのです。そこから、科学が現在可能だと考えるものを遥かに超えた技術と手法が立ち現れます。再生型農業の驚くべき成果から垣間見える可能性は、私たちがこう考えるなら実現します。「大地よ、あなたが癒えたいと願っていることを私は知っています。どうやってお手伝いしたら良いか教えて下さい。大地よ、あなたが与えたいと願っていることを私は知っています。どうやってお手伝いしたら良いか教えて下さい。大地よ、あなたが最も高い目的をかなえたいと願っていることを私は知っています。どうやってお手伝いしたら良いか教えて下さい。」

この心と考えの状態から、再生型農業の洞察と生態系の癒しが生まれるのです。

科学はこのような問いを発し答を聞き取るための強力な道具ともなります。科学をタロットカードで置き換えたり、洗練された儀式を使って大地とのバランスを保ってきた他の文化の占いで置き換えたりしようと、私が主張しているわけではありません。変わる必要があるのは科学の背後にある衝動です。原子と空間からなる死んだ世界を操ろうという衝動です。その見方が変わると、科学はほとんど見たことのないようなものへと変貌するでしょう。自然と対話する土着の方法が生命を吹き込む力を分け与え、私たち自身の土着性の回復に向けての一歩となります。土着性という言葉は、場所に真に属し、場所とそこに生きるものたちと親密であるという意味でなければなりません。結局のところ、技術を基にする科学や、他の宗教の儀式を発動させるかどうかは重要ではありません。重要なのは、私たちが愛へと帰ることです。

こう考えてみて下さい。あなたは心の営みに「科学に基づく方策」を発動させることなどありませんよね? あなたが発動させるのは、愛に基づく方策であってほしいと思いますし、もしかすると憎しみに基づく方策とか恐れに基づく方策かもしれません。あなたはそれに理性の飾りを付けるかもしれませんが、愛は理性的なものではありません。私たちが地球の癒しへの非理性的なコミットメント(積極的な深い関わり)を発動させたいと思うなら、私たちと地球との関係を心の営みへと作り替える必要があります。そうでなければ、破滅論者の言っていることが正しかったことになるでしょう。


注:
[1] アイザック・ニュートンが確立した概念的カテゴリーにおける疑問視されることのない感覚や経験を超越した前提の起源についての徹底的な議論のために、バートの1925年の論文『近代科学の形而上学的基礎』を参照。

[2] 全ての宗教が以下の特徴を持つわけではありませんが、ほとんどの組織宗教はその多くを帯びています。明らかに、構造が最も科学に近い親戚はカトリックです。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/in-science-we-trust/

次> 大地に感覚があると知っていたら
 目次
前< エコロジー経済の諸要素

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?