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エコロジー経済の諸要素

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


私の2011年の著書『聖なる経済学』は、定常状態や脱成長の金融システムがどんなものになるか、またどうすればそこへ現実的に移行できるかを説明しようとしました。その主な柱は、マイナス金利の貨幣創出、ユニバーサル・ベーシックインカム(最低所得補償)、生態系コストの内部化、経済の再局地化、そしてこの全てに生命を吹き込み、人間の経済活動と創造性、なりわいの土台としてギフト(贈与)の精神を復活させることでした。いま思い返すと、この本のタイトルに私は違和感を持っていて、内容には忠実なのですが、そのせいで現役の経済学者と政策立案者の多くには注目されない本になりました。幸いにも、私が書いた考えの多くはその時を迎えています。成長の時代はいくら私たちがそれを維持しようとしても終わりつつあり、社会と生態系の限界が経済システムにのしかかり、その重みで軋(きし)んでいます。その終焉が視野に入り、危機が解決不可能なのが明らかになってくると、以前なら非現実的と見えた考えが主流の議論に入り込んできます。『聖なる経済学』で詳しく検討した考えの中から、生態系の癒しと特に関係するものを、ここで手短に触れておきます。

債務救済:すでに説明したように、グローバルな負債のしくみは環境破壊を突き動かしている最大の要因です。変えられない現実の側面のように見えますが、借金は(お金そのものと同じように)社会的に構成された概念で、それを執行する法律や契約と同じ程度には実在しています。法律は変えられます。契約は拒否できます。結局のところ、借金は政治力に依存しているのです。

基本的には、世界中の中央銀行が学生ローン、消費者ローン、住宅ローン、公的債務を全て買い上げ破棄するだけいいのです。その理由は、(アメリカの連邦準備銀行[日本なら日本銀行]のような)中央銀行がほとんど無制限にお金を作り出す権限を持っているからです。また負債を部分的に帳消しにしたり利率をゼロにしたりできます。中央銀行はその政治的な権限を持っていませんが、現在の負債のしくみは変わることのない物理的現実の一部ではないことを、私たちは認識しなくてはいけません。それを変えるのは私たちの力です。私たちは高利貸しの世界で金縛りになっている必要はありません。ここ10年でいくつもの救済措置が出ましたが、実際には「貸し手の救済措置」で、借り手の借金はそのまま残りました。私たちは次の危機を迎える前に(もうすぐ来ます!)方針を変えて、借り手の救済措置で対抗することもできるでしょう。

負債レジスタンス運動は世界中で広がっていて、現在ある多くの負債には不当な起源と厄介な影響があることを認めます。少数の借り手(個人と国家)が組織を作って負債ストライキ(負債の返済拒否)をすれば、すぐにもシステムが屈服すると見込めるのは、すでに膨大な借入で資金を調達しているからです。世界を破壊するマシーンを動かす負債の役割を考えれば、「ジュビリー2000負債帳消し」のような運動はエコロジー運動の一つの形でもあります[3]。

マイナス金利貨幣:金利に基づくシステムは生態系の仕組みとは極めて掛け離れたものです。それは循環で成り立つ世界に指数関数的に成長する価値の印を貼り付けます。将来のキャッシュフローを割り引いて考えるよう促すことで、未来より現在を高く評価します。それは有限の世界に終わりのない成長を求めます。このような理由から、金利の効果が逆転したシステムを研究するのです。

この考えを適用する方法は、銀行の支払準備金に対する流動性課賦金です。基本的にこれが意味するのは、もし銀行が貸し出しに回さない超過の支払準備金を持っていたら、それはおそらく年率5%で縮小していくということです[4]。

そのような状況では、銀行にはゼロ金利やそれ以下で貸し出す動機が生まれます。貸し出しは経済全体の成長に依存しなくなります。収支とんとんの事業も有望な投資の対象となり、金利支払いのために収益を増やす必要はなくなります。お金を支払う商品とサービスの領域が常に拡大を続ける必要はなくなります。自然を資産と製品に作り替える活動を貨幣制度が駆り立てることはなくなります。自然保護が金融の論理という流れに逆らって進むことはなくなります。

マイナス金利の貨幣制度は、

・成長がなくても貨幣が流通できるようになります
・現在のシステムが仕向ける富の集中を逆転します
・課税の対象を収入と売上げから貨幣そのもの(と、土地のような賃料収入を生むその他の資産)に移します
・システム全体が転覆して小口預金者を破綻させることなく債務救済を実施できます
・生態学に即した収益の法則と万物の無常性という精神的な原則とに貨幣を合致させます
・将来のキャッシュフローの割り引きを反転させ、かけがえのない自然資本の現金化を防ぎます

読者の皆さんにはたくさんの疑問がわいてくるでしょう。銀行はどうやってお金を稼ぐのだろう? インフレは起きるのか? 人々がお金を商品に替える投機バブルをどうすれば防げるのか? 過剰消費を促すことにならないか? これらの問題のほとんどは『聖なる経済学』の第12章で述べていて、マイナス金利通貨の歴史と理論、応用を詳しく説明してあります。

よくある「資本主義」をめぐる議論のせいで左翼による環境危機の分析が台無しになることが多いのですが、それに代わるものを示すため、ここで私はこの考えに触れているのです。でも気候問題など多くの論争と同じように、この議論は両側が共有するもっと深い前提を見えなくしてしまいます。資本主義の性質を決めるのは、資本の性質です。そして資本の性質、特に誰が所有しどのように使うことができるかは、社会的合意によって決まり、それは白か黒かではなく、様々な中間色やバリエーションがあり得ます。マイナス金利は資本主義をひっくり返します。

社会主義はふつう「生産手段の公的所有」と定義されますが、所有とは何でしょう? 物を所有者に絶対服従させるという意味だと「分断の物語」が私たちに思い込ませていますが、そんな意味だったことは一度もありません。常に社会的合意に基づいているのです。土地、水、鉱物、樹木といった所有されるもの自体も、自分から所有されることを認めたりしません。最も頑固なリバタリアン(自由至上主義者)でさえ、何かを所有したら他人を傷つけるために使う権利まで与えられるとは考えません。所有権は常に社会的に束縛されています。すると問うべきは、他人を傷つけるものは何かという理解を発展させて、誰が何を何のために使うかということについての適切な社会的合意とは何か、ということになります。

活動家の皆さんに言いたいのは、一般市民を煽り立てて資本主義を解体することに望みを託しても、成功する見込みはないということです。逆に現在の資本主義システムをそのまま残したところで、これも成功の見込みはありません。私たちはその土台を作り変え、貨幣と私有財産の輪郭を定義する基本的な認識と合意を、変えていかねばなりません。私たちが相互共存の生き物だと理解し始め、所有の対象自体が主体性を持っていると見るようになると、「私のもの」という言葉さえ時代遅れに見えてきます。現在、私たちは人間を所有することが間違いだと知っていますが、奴隷所有制度を考えられるのは奴隷を人間と見なさないときだけです。いま土地を所有することも同じように間違いだと考えられるようになりつつあります。私たちは土地の付添人、世話人、パートナー、仲間、さらには土地の召使いかもしれませんが、土地の所有者とは? よくもまあ…。

課題となるのは、どのようにその理解を私たちの経済システムに移し替えるかです。私たちの多くはもっと謙虚に礼儀正しく生きたいと思っています。私たちは他者の苦しみから利益を得たいとは思いません。この高まりつつある意識は、現在の貨幣と私有財産のシステムとに合致していません。マイナス金利の貨幣は、経済と生態系を改めて合致させるための一歩になります。

生態系コストの内部化:現在もっぱらお金が持続可能性の敵なのは一目瞭然です。資源の採取や、森林の皆伐、海洋資源の枯渇、汚染物質の排出によって稼ぎ出されるお金はたくさんあります。今のところ、砂漠の緑化や、湿地帯の復元、生息地の保護、環境汚染の防止で稼ぎ出されるお金はほとんどありません。それが意味するのは、生命を尊ぶ居住可能な世界を維持するために、政府の政策(そして私たち自身の善意)は、お金の力と戦う必要があることです。

これは必然的な状況なのでしょうか? それは利他と利己の、精神と物質の、善と悪の、神と富(マモン)の、永遠の戦いを反映しているのでしょうか? 環境にとって破壊的な活動を非常に高くつくようにして、環境修復の活動が割に合うようにできさえすれば、こんな風にはならないと考える経済学者もいます。環境汚染や森林破壊などは、社会や自然、将来世代から盗み取る行為だとも考えられるのです。利益を得るためにコストを誰か別の人に負担させる(つまり外部化する)ことは許されるべきではありません。グリーン税や汚染排出権のキャップ・アンド・トレード制度はそのようなコストを内部化し、最良の経営判断と最良の環境判断を合致させることを目指したものです。環境修復の側面では、「生態系サービスの査定」という概念で、土地を保護し、森を植え、流域を守るなどの活動をする人々にお金を出すことを目指します。

私はすでにこの考えを理論と実践の両面から、特に生態系の健康状態をお金に換算可能な炭素排出量という単一の尺度に落とし込むことについて批判しました。私たちが測ることのできるのは私たちの目に見えるものだけなので、文化的な目隠しの外にあるものは私たちの計算から抜け落ちます。さらに、何をどのように計るかという選択には、私たちの見えない先入観を、また実際にそれを行う機関や制度側の金銭的利害に沿いがちな先入観を、無意識のうちに持ち込みます。文明世界にいる私たちに見えるのは何でしょう? 二酸化炭素が何トン、森林面積が何ヘクタール、地表オゾンの濃度、海の酸性度、生物種の数。このような測ることのできるもののために、私たちが進んで犠牲にするのは、見えないものや、重要ではないように見えるものです。たとえば、伝統的な人々が土地と共存するために行ってきた何世代も前から伝わる社会の慣習、神聖な場所が損なわれずにあること、私たちがまだ観察したり測定したりできない複雑な生態系の依存関係。

一方では、利益と生態系が対立するシステムを守り続けることに、私たちがもう耐えられないのは明らかです。生態系サービスという概念を修正することはできるでしょうか? 実際に、生態系サービスの概念で正当化した事業にも上手く行くものはありましたし、このような成功例をドグマに基づいて否定すべきではありません。ボリビアの農民は自分の流域を守るためのお金を受け取り、木こりは皆伐をやめるためにお金を受け取ります。二酸化硫黄のキャップ・アンド・トレード制度は酸性雨を減らしました。失敗例(たとえば炭素クレジット取引の散々な結果)から学び、成功例を発展させれば、私たちはお金を生態系に合致させるもっと良い方法をたくさん作り出すでしょう。たとえば次のようなものです。

・私たちは、地域特有の活動や生態系に配慮した活動を利益の上がらないものにしてしまう隠れた補助金を撤廃することができます。これが最も重要な対策なのは確かで、公的補助金がなければ成り立たないような持続不可能な活動がひじょうに多くあるからです。たとえば、長距離トラック輸送会社は幹線道路の建設と維持にお金を出しません。このコストは一般市民が負担します。石油会社も帝国主義の石油争奪戦争のコストを負担しません。
・私たちは、再生可能資源の使用を持続可能に補充できる量までに制限するため、割当制度やグリーン税、入札制度を使うことができます。
・私たちは、廃棄物の排出量を他の場所の自然が処理できるペースに制限するため、同じ方法を使うことができます。
・私たちは、コンゴ民主共和国やエクアドル、ブラジルのような国々にお金を払って熱帯雨林を保護することもできます。その金額は、天然資源を保護せず現金化することで生じる利益を帳消しにするのに十分な水準に設定します。
・私たちは、農家に再生型農業を実施するためのお金を支払うことができます。
・私たちは、第三世界の債務のほとんどが、環境コストが償われることのない資源採取のために負わされたものだと認めて、債務を帳消しにすることができます。

ここにまとめるに当たって取った指針は、経済の論理を一面的なものにしないことです。人や国家は(持続可能なレベルを超える)資源採取と同じだけのお金を、資源採取に代わる活動から稼げるべきです。「その木々を伐ってはいけない、だが伐るならお金を払おう」というのは偽善でしょう。つまるところ、貨幣は社会が何に価値を置くかの表れなのです。私たちが価値を置くものが生態系の癒しに移ると、それを反映するように経済システムを変えていくことが必要になります。

ですが、環境のために望ましい結果を生むように私たちが与える経済的なインセンティブ(誘因)で、土地や水、生物多様性などの価値を偽りなく表すことができると見せ掛けるべきではありません。お金を生態系に合致させるのは確かに良いことですが、私たちがそれを行うとき、生態系をお金に、自然を商品に、無限を有限に、神聖なものを世俗に、質を量に、そして世界を道具としての物の山へと落とし込むことが伴ってはなりません。経済的なインセンティブを価値のドグマから切り離すと、私たちは社会的背景を完全に認め、ケースバイケースで柔軟に使えるようになります。

ユニバーサル・ベーシックインカム(最低所得補償):一見すると、全ての人が保証された収入を得るという概念は、持続可能性ではなく消費を促しそうに見えます。実際には、人々を収奪的な経済への参加義務から解放し、治療者や芸術家、平和活動家、生態系の世話人として奉仕できるようにするでしょう。

ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)は、 右派と左派の両方から激しく批判されます。右派はこういいます。生活のために働くことを強制されるのでなければ、ほとんどの人は社会に貢献するのを止めてしまうだろう。誰がバスを運転し、食器を洗い、トイレを掃除するというのだ? マルクス主義の左派はこういいます。UBIは資本主義の基本構造(生産手段の私有)を残しているので、せいぜい行き過ぎた資本主義の度合いを少し弱めるぐらいだろう。

UBIに対する賛否両論を詳しく説明し始めたら本書にはとても収まりませんが、先に述べた批判への回答はUBIの可能性を明らかにするのに役立ちます。最初の批判は「働くインセンティブがない」という問題です。これは人間の本性についてのある特定の信条から来るもので、それはつまり、人間は合理的な利己心に突き動かされていて、買収されるか強制されるかしなければ、自分自身を超える大きなものに貢献することなど選びはしないというものです。これが意味するのは、人はみな(読者のあなたもですよ)もし仕事をしなくても良いなら喜んで引退し、テニスとゴルフ三昧、オンラインゲームのワールド・オブ・ウォークラフトで遊び、衛星放送のHBOを見て、パーティーにうつつを抜かす暮らしをするということです。幸いにも、あなたは暮らしを立てるために働かざるを得ないのです。

でも私がこの世界で目にするのはその反対です。人々は社会と地球が健全であることへの意義ある貢献をしたいという抑えがたい願望を持っていますが、生計を立てるという圧力のためにそれを諦めざるを得ないということなのです。あるいは世界が今最も必要としていることをするためには経済的圧力と格闘しなければならないのです。これが示すのは、理想的にはまさに世界のためになることを奨励するはずの経済システムが、誤作動を起こしているということです。それとは反対に、成長と支配と征服のプログラム、つまり人類が支配者の座へと昇るのを助けるようなことを奨励します。このような目標のために働いている人のほとんどは、そこから意義と満足感を得ることができません。

したがって、ある意味で右派からの批判は当たっているのです。人々を買収し強制して屈辱的な仕事をさせることができなければ、私たちの知る社会はばらばらに崩壊するでしょう。魂のレベルでは、巨額の金融取引で働くのは送迎バスを運転するのと同じくらいか、もしかするともっと屈辱的です。UBIの文脈では、企業と企業家にはやりがいのある仕事をデザインする強い動機が生まれますが、これはどんな仕事でも死にもの狂いでやる人々をもう当てにできないからです。

左派の批評について言えば、UBIは要するにコモンズを共有財に戻すことだと見ることもできます。『聖なる経済学』でUBIを言い表すのに私が使った言葉は「社会の配当金」でした。世界全体の自然と文化の財産には一人一人の分け前があって、その本来もつ権利は誰にも同じだけ平等に与えられているのです。この見方はUBIの原資が蓄財への課徴金(たとえば、マイナス金利やジョージ主義の地価税など)なら特に説得力を持ち、資源を単に所有することで得られる利益を本質的に消してしまいます。

資本主義についての論争はどれも資本の性質に依存します。貨幣と私有財産はどちらも慣習によって存在します。それは物語であり、意味と合意のシステムです。物語は書き替えることができます。現在の「お金の物語」は「上昇の物語」の要となる部分で、これが土台となって、世界を貪り食う社会システム、質を量に、自然を商品に、土を汚物に、樹木を材木に、価値観を価値に作り替えるシステムが存在しています。美しさを噛み砕いてお金を吐き出すシステムです。あらゆる環境の大義が逆らって泳ぐ流れです。それを変えるのは簡単なことではありません。私たちの知るお金は、私たちが何者で何が本当なのかという理解に染み込んでいます。全てが変わらない限りそれが変わることはなく、それが変われば他の全てが変わります。気候危機を文明の全面的な転換の前触れと見る人は、変化の波がお金のレベルにも達していることを理解すべきです。

注:
[3] 負債レジスタンス運動の哲学、経済学、政治についてさらに知りたければ、YES!誌の私の記事『Don’t Owe. Won’t Pay.(借りるな。返すものか。)』(アイゼンスタイン、2015年b)を。

[4] マイナス金利はデジタル通貨ならもっと簡単に実施でき、デジタル通貨を苦しめている買いだめや投機を抑制することができます。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/elements-of-an-ecological-economy/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸

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