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大地の力

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


自然を物と捉える機械論的な見方の問題は、私たちの慈悲心を麻痺させ略奪を促すだけではありません。私たちが前向きな変革の担い手として奉仕する能力まで損ないます。その一つの理由は、大地や海、土、水、森の求めるものを機械論的な見方からは完全に理解できないことです。それはちょうど、私の息子を生体機械のロボットと見て、単に様々な物質を正確に投与しさえすれば良いと考えたのでは、息子が求めるものを完全に満たしてやることができないのと同じです。

もう一つの理由は、そうすると私たちに仲間がいなくなるからです。もし私たちの外側の世界に何の目的も知性も主体性もないなら、変化は全て私たち次第で、変化を左右するのは私たちが物質に及ぼす力の大きさだけです。

生態系の癒しという大義に仲間がいなければ、状況は厳しいものです。前にも問いかけましたが、「軍事・産業・金融・農業・製薬・NGO・教育・政治複合体」を私たちが同じ土俵で、力と力の戦いで打ち負かせると思いますか? もし私たちに仲間がいないなら、もし気まぐれな世界で人間だけが意思を持っているなら、私たちは道に迷っているということです。

私たちより想像も付かないほど力強い仲間が私たちにいて、ともに進むことができると信じるなら、何が可能になるでしょうか? より大きな秩序を作る知性に加わろうとするなら、何が可能になるでしょうか?

古くからの様々な文化が共通して信じていたのは、山や川、動物、先祖、その他の目に見えるものや見えないものたちが、人間の営みに加わって歴史の道筋を変えることもあるということです。私たちはこのものたちにも仲間として近付くことができるでしょうか?

ここで注意点を一つ。これは私たちが戦争思考で慣れ親しんでいるような同盟関係ではありません。力と力の争いにもっと大きな力を参戦させようというのではありません。実際には、私たちがそのメンタリティーに安住していると、この仲間は私たちを見捨てます。それは自然を物だと捉える物語と同じ種類のメンタリティーなのです。そのメンタリティーは私たちを仲間の存在しない宇宙に放り込みます。道具的功利主義のレンズを通すなら、「資源」、鉱物、商品、利益のレンズを通すなら、仲間は見えなくなります。こんな疑問がわくかもしれません。「もし自然の力がそんなに大きいなら、なぜ自然破壊に終止符を打てなかったのだろう?」もしも先住民がいうような力が大地にあるなら、山に、森に、水に、人間のよりも大きな力があるなら、なぜみんな私たちの手によって死んでいくのでしょう? そのわけは、自然が持っているのは力で力に立ち向かうような《力》ではないからです。

スティーブン・ジェンキンソンは壮大な著書『カム・オブ・エイジ』でこれを痛烈に書いています。

野生は私たちの知るルールでは動かない。だが野生はある種の冷酷な作法に支配されていて、野生の魂を堕落させてまで自らの身を守ろうとはしない。キャンプ旅行のようなものに行き、かつて闇夜があったところに遠くのネオンが侵入するごとく、文明が情け容赦なく忍び寄るのを見たことがない人は、誰かいるだろうか? あなたの暮らしている開発された場所はどこも、それほど遠くない昔に、ノラニンジンと鹿の足跡でいっぱいの野原だった頃があったという、老人の思い出話を何度聞いただろう? 野生から何かが立ち上がり、巨大医薬会社、巨大農薬会社、軍産複合体、あるいは自分の地域の似たような悪人を、アルマゲドン式に打ち倒し、国境線を辛うじて防衛してわずかな望みを与えつつ、ちょっと意識の高いエコツーリズムで維持費を稼ぎ出せるように私たちを赦してくれるという、願いを心に抱いた者は幾人いるだろうか? 野生は今の時代にとんでもなく弱い存在に見える。私たちが野生に耐え忍ぶことを強いた侮辱と貪欲な行いと、同種の手段で対応するなら、我々流の「報酬としての荒廃」、我々流の報復の正義を実行し、野生が自分らしくあるための「非人間的な」方法を破壊することだろう。であるから、この無防備さが野生の魂を保つのだと言うこともできるだろう。それは悲痛だ。そしてもし今後数十年の間に、生物種が一つまた一つ、場所が一つまた一つ、野生が我々の手で息絶えるなら、薄情さや罰で息絶えるのではなく、沈黙の中で息絶えるのだ[6]。

しかし、これらの人間を超えた力と関係を持つことはできないということではありません。私たちの条件を押し付けたり自分の目的のために悪用したりはできませんが、私たちがそのわずかな小片に交わるとき、自分自身をそれに寄り添わせることはできるかもしれません。

オーストラリアの活動家ダニエル・シュナイダーはニューサウスウェールズ州でのフラッキング[岩盤破砕による石油天然ガス採掘]計画反対運動の話を私にしてくれました。大勢のアボリジニを始めとする何千人もの人々が現地を占拠し、3ヶ月の間キャンプを設営して、道路を封鎖し、自分たちを鎖で自動車に結び付け、柱の上に座り込んで重機が入れないようにしました。「基本的に、私たちは戦いの準備をしていました」とダニエルはいいました。彼らがつかんだ情報では、800人の警官隊が翌週の現地入りに向けて準備しており、大量逮捕の口実を作るためおとり捜査官も投入されるということでした。抗議行動の参加者たちは対決を覚悟しました。もちろん実際に警官隊と戦うのではなく、メディアに露出して世間の関心を集めるための戦いでした。彼らにはライブ映像を全世界の活動家に送れるドローンやスマホカメラがありました。彼らは一般大衆の認識という戦争に勝って警察と政府の悪事を暴露するつもりでした。

緊張が頂点に達したとき、ダニエルは現場にいたアボリジニの一団に提案をしました。みんな負け戦になりそうだという予感があるなら、何か別のことをしてみてはどうだろうか? メディアのヘリコプターが来るということが分かっているなら、警察が活動家のヒッピーたちを逮捕するというお決まりの筋書きではなく、空から見える巨大なアート作品を作って撮影してもらったらどうだろうか? アボリジニたちはこのアイデアが気に入り、夢に出てきた物語を書き出して、それをすぐに60メートルの巨大な虹のヘビやその他の図柄のスケッチにして、神聖な黄土で地面に描きました。もう一つ彼らが計画したのは、巨大なかがり火で神聖なユーカリの煙を起こし、色鮮やかなボディーペインティングをして拍子木とディジェリドゥーを持った500人の男たちが、儀式で警官を迎えることでした。

翌朝ダニエルに電話がありました。政府がフラッキングの許可を取り消したのです。

その後、先住民の老女が彼のところに来ました。彼女はいいました。「ありがたや、私らは争いを手放した。上手く行くとはこういうことだ。前にもこういうことはあったよ。たいていは同じ話だ。警察がやって来て、アボリジニはみんな逮捕され、白人もたくさん逮捕され、計画は続行さ。でも今度は、争いを手放してアートと儀式に入ったから、土地の先祖がやってきて力を出すことができたのだよ。」

私はこの話を、現場から1時間のところに住んでいた親友のヘレナ・ノーバーグ=ホッジから、違う風に聞きました。彼女によると、この勝利は「編み物おばさん」たちのおかげでした。白人とアボリジニの老婦人たちが、静かに編み物を続けながら、キャンプ地の平和を保ち、男たちの間に持ち上がる喧嘩や酔っ払いを防ぎ、裏で警察と情報をやり取りできるようにしました。舞台裏で、彼女たちは運動の力学を対立から遠ざけ、さらに反対運動参加者たちを人間として見せることで、警察の介入を促したであろう「環境過激派」という物語を拭い去りました。

この話の2つの見方は矛盾するものではなく互いに補い合うものだと私は理解します。編み物おばさんたちの静かな信念がなければ、「土地の先祖」はどうやって力を出すのでしょうか? どんな力がこの女性たちを支えているのでしょうか? 我らと彼らが対決する思考の猛攻から、何が彼女たちの平穏さを守ったのでしょうか?

力と力の争いという物語で、より深い出発点の前提は、もし何か目的を持ったものが起きるとすれば、我々が起こさなければならないということです。そこでは人間以外の存在が主体的に共時性(シンクロニシティー)を作り出す余地はありません。私たちは大地の力と先祖が働く余地のない世界に閉じ込められます。大地と先祖が働けるようにするため、おばさんたちが女の力を使って平和を保つこともできません。要するに、この物語がいうのは、女たちや、先祖、大地の力に向かって、「あなた達は必要ない、あなた達を認めない」と言うことです。

このメンタリティーは地球を機械と見なす気候変動のとらえ方に通じていて、生きているシステムが生命のための条件を維持するという能力も無視します。ほんとうは維持できるのです。自由にさせてあげさえすれば。でも私たちは自由にさせません。反対に私たちはその能力をわざわざ傷つけ破壊します。私たちが森や湖、山、沼地を殺すのは、それらをすでに死んでいると見なしているからでもあり、大地の力が炭素循環や水循環、地表アルベドの調整よりも謎めいた方法で働く余地を与えないのと同じ見方をしているのです。

同様に、私たちはそれら全ての存在が技術と政治の世界で私たちを助けることで「生命のための条件を維持」できるようにしなければなりません。私たちが対立的な戦術をとったり裁判で環境破壊をする人たちと戦ったりするとき、私たちだけで戦っているわけではないことを覚えておかなければなりません。私たち自身が主導するものを超えて、目的を持った変化が可能なことを、私たちは覚えておかなければなりません。戦うことだけで勝てるような戦いではないことを、私たちは覚えておかなければなりません。

最も印象的な共時性は、確実性が揺らいでいるときに起きるようだということに、あなたの人生で気付いたことはありますか? 見知らぬ街に計画もなく引っ越したり、旅程もなく旅をしたり、何が起きるか考えもせずに普通と違うことをしたりすると、たいてい驚くような(ときには人生を変えるような)思いがけない幸運や「偶然」の出会いが起きます。何事も計画済みで、予測可能で、管理されているときには、そういうことはめったに起きません。まるで精霊が入ってくる余地など全く無いかのようです。

共時性や、先祖の助け、大地の力との同盟といった世界に入ることは、ダラダラと何もせずにいて願いが叶えと思っているのと同じではありません。「前向きなエネルギーを送る」だけでは十分ではありません。危険や喪失を伴う、何らかの犠牲が必要なのです。時間やエネルギー、お金が犠牲になるかもしれません。確実性や支配感が犠牲になるかもしれず、それは本当に未知の領域へ踏み込むように感じる行為です。それは、あなたにとって本物だと感じられるコミットメントの発露かもしれません。犠牲になるのは「勝つこと」、つまりあなたの競争相手が自分の間違いを認めるのを見て満足感を得ることかもしれません。犠牲になるのは、あなたがリーダーになったり成功を讃えられたりするような状況を作ることかもしれません。犠牲になるのは、あなたを善玉に見せ掛けるため相手方を非人間化する二極化した見方かもしれません。犠牲になるのは自己像、たとえば自分こそが答を持っているという自己像かもしれません。

犠牲が必要なことが分かるもう一つの基準は、私が実現を助けたいと願うもっと美しい世界に、今の私のあり方が一致していないことです。その有能な奉仕者となるために、それが可能となる現実の中に住むために、私は変化を遂げなければなりません。失うものがあり、手に入るものがあります。私に呼びかける未来に寄り添うために、私は何かを差し出さねばなりません。

私が言っている犠牲は、普通は意図的にするものではなく、人生の別の目的や創造的な目標に合わせて自己を調整し直した結果として現れます。意図的にするのは、生命のエネルギーを祈りに捧げ、三次元の世界で行動となって現れるようにすることです。従来型の行動、とくに重労働や、多額のお金、投獄の危険を冒すことが必要な行動は、無意識の世界や見ているものたち全てに「私は真剣です」と伝えるためのコミットメントの儀式となります。

私たちの祈りを聞く者は、真剣ではない祈りにうんざりしています。私たちの文化では、あることを願っておいて、その願いとは正反対の行動を取るというのはよくあることです。 すると「聞く者」は疑問に思います。「あなたは本当にそうしたいのか? ひとつ確かめてみよう。」そして聞く者が作り出すのは、困難や挫折という状況で、願いを立てた者が本当にそうしたいのかどうかをはっきりさせる機会を与えるのです。

環境保護主義者のマーク・デュボアが私に話してくれたのは、彼と他の環境保護主義者たちが1970年代から80年代始めに手付かずのスタニスロース川にニューメロネス・ダムが建設されるのを止めようと起こした運動のことでした。活動家たちは法廷闘争から署名運動、条例制定のためのロビー活動や体を張った直接行動まで何でも試しました(マークは当局が貯水池に水を溜めようとするのを止めるため大きな石に自分を鎖で縛りつけました)が、全て無駄でした。彼らが運動に注ぎ込んだ心と魂があまりに多大だったので、ついに敗北したとき、彼らの多くは痛みと悲しみのあまり水没した谷を訪れるのも耐えられませんでした。完敗したように感じられました。しかし、ニューメロネス・ダム計画は転機となりました。この大きさのダムがアメリカで建設されたのはこれが最後となり、その後の新たなダム計画はことごとく猛烈な反対にあい、撤去されるダムの方が建設されるダムよりも多くなりました。

確かに、ダム建設の時代が終わったことに平凡な説明を付けることはできるでしょう。北米大陸には有望な場所がほとんど残っておらず、ニューメロネスの闘争が広く知れ渡ったこととその代償によって、当局は新規計画の意欲を失い、ダムが引き起こす害についての大衆の意識が抵抗運動の結果として高まった。みんな正しいのですが、失敗に終わった運動を別のレベルではある種の祈りだと私たちは理解するかもしれません。私たちが持っているもの全てをビジョンに奉仕するために注ぎ込むなら、世界はそれに気付き現実は変わります。私たちの失敗は私たちの祈りです。これは、不可能な大義に身を献げることを勧めているのではありません。反対運動という儀式を行えば願っている不可能な結果を魔法のようにもたらしてくれると期待してはいけません。それが意味するのは、誠実な献身が世界に影響を与えると知りつつ、私たちが持っている知識に基づいて最善を尽くすということです。誠実な行動が無駄に終わることはけっしてありません。

私たちの祈りに期待どおりの形で答えてもらえると確信することはできません。しかし私たちの祈りが少なくとも聞いてもらえることは自信を持っていえます。ここで私たちは孤独ではありません。何かが見ています。何かが聞いています。

福音派キリスト教の友人たちがこう言うのが目に浮かびます。「そうです、あなたの話しているその《何か》とは神です。」私は彼らに同意しますが、考えの違う点があります。彼らは神を非物質的な存在、物質を動かす精霊だが、物質とは別のものと考えています。物質そのものに意識はないと考えるので、彼らは科学の還元主義に同意します。私は、聞き耳を立てている「何か」とは全ての存在だと言いたいのです。大地、空、水、空気、岩、木、動物、植物…それに私たちには見えないもの、名前の無いもの(私たちの話す言葉で、ということですが)。物質は意識を持ち、見て、聞いています。あなたがたぶん神と呼ぶものは、あらゆる物に宿っています。神でない物はひとつもありません。


注:
[6] ジェンキンソン(2018年)。著者が私に送った草稿より。

(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-powers-of-the-land/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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